この相対的現実世界には、段階、レベルというものが一応あります。
小学生が一度に大学生レベルのことを学び理解しようとするのは、脳障害児の流奈君のような例(ホントだったらと仮定して)でない限り無理な話です。
精神的な道においても段階的理解というのも一応はあるのかもしれません。
しかし、それはあくまで時間であるとか、相対的な次元でのことに限られるものでしょう。
そこにはどちらが上とか下とか、優劣というものも一応はあるようなのです。
道を求める者は、ピラミッド型を思わせる階段を一歩一歩進まないと、頂点の至高なる神にたどり着けない、と意識されて修行に勤しむのです。
その人は、自分は神には遠い存在と思っているようですが、教えであれ、メソッドであれ自分が関わっているその道は、絶対に正しいと思い込むようです。
でなきゃ、何を好き好んで、懸命に勤しんでなどいられようか、というものです。
誰が決めたのか、"自分のレベルは何段目(ホントは頂点に達したと思いたい?)、"この教え、メソッド以外に正しい道は無い" その人以外の人はどう感じているかはともかく、これがその人の一応のレベルということなのでしょう。
これをカルマといったもので解釈ずる向きもあるようですが、自分の思いに支配されていると言っていいでしょう。
カルマとは思いの集積なのか? しかし、それで全て決定される訳じゃありません。
その思いを一変させるようなもの、契機に出くわすこともあるかもしれません。
そっちに思いが向かうか、スルーしてしまうかは、全くその人の思い方次第でしょう。
このように、段階とかレベルというものを規定しているのは思いだということが分かります。しかし、思いというもの自体は、気ままなものであり、何にも規定されないものでしょう。
一方では、神とかある超越的存在に本当に意識が向かい、つながってしまうというケースもあり、近年は非常に増えてきています。
この越えられる、ということ、意識が超越的なものに向かい、つながるということ、それが取りも直さず、思いが越えられるということを意味しています。
神智学などでは、エーテルだとか、アストラルとか幾つか意識の進化に応じたレベルを提示していますが、思考のレベルを越えるか、どうかだけが肝心なことなのです。もっともそこに進化というものが当てはまるのかどうかは、私は知りませんが...
というのは、思考を越えた、所謂純粋意識の領域では、如何なるものにせよ、相対的レベル、段階というものは認められないからです。
ベルジャーエフが言ったように、階層といった構造は、相対的世界にしか適応出来ないのです。
この相対的ということに対応して、その領域に対して絶対的という言い方も一応可能かもしれません。(しかし、対応語というもの、言葉というもの自体、相対的なものですが ...)
絶対的と言い表そうとしていることは、疑うことが出来ないこと、任意でそれについて思い描いたり、思うこと自体を含め、何かをやろう、行為に移そうとすることが困難であること、受け入れるしかない、ゆだねるしかないことについてです。
この領域にあることにおいても、まだ先に"完全なる個の消滅"であるとか、究極の悟りの段階らしきものを追い求めている者も居るようですが、それは相対観念から抜けきっていない、ということではないでしょうか?
その先に別の領域があるかもしれませんが、そこに行かされるか、どうかは自分ではどうすることも出来ず、神と自己の内なるものの意志次第なのです。
精神的な道で決定的に示されることは、この絶対的領域に預かるか、どうかなのです。
しかるに、その前の段階で、自分の任意の、相対的な思いの中で、自分の道を絶対視してしまう者が何と多いことでしょう。して、その出所のほとんどは他所からの借り物、仮り物に過ぎないのです。
自分にとって絶対的なもの(最善のもの)は、自分の内なるものが開かれてこそ出会えることが出来るのです。
どんなにダメで悪い自分であろうと、それを受け入れなければ、絶対的なものは開かれません。
もっとも目を背けているものこそが、もっとも会わなければならないものなのです...。
小学生が一度に大学生レベルのことを学び理解しようとするのは、脳障害児の流奈君のような例(ホントだったらと仮定して)でない限り無理な話です。
精神的な道においても段階的理解というのも一応はあるのかもしれません。
しかし、それはあくまで時間であるとか、相対的な次元でのことに限られるものでしょう。
そこにはどちらが上とか下とか、優劣というものも一応はあるようなのです。
道を求める者は、ピラミッド型を思わせる階段を一歩一歩進まないと、頂点の至高なる神にたどり着けない、と意識されて修行に勤しむのです。
その人は、自分は神には遠い存在と思っているようですが、教えであれ、メソッドであれ自分が関わっているその道は、絶対に正しいと思い込むようです。
でなきゃ、何を好き好んで、懸命に勤しんでなどいられようか、というものです。
誰が決めたのか、"自分のレベルは何段目(ホントは頂点に達したと思いたい?)、"この教え、メソッド以外に正しい道は無い" その人以外の人はどう感じているかはともかく、これがその人の一応のレベルということなのでしょう。
これをカルマといったもので解釈ずる向きもあるようですが、自分の思いに支配されていると言っていいでしょう。
カルマとは思いの集積なのか? しかし、それで全て決定される訳じゃありません。
その思いを一変させるようなもの、契機に出くわすこともあるかもしれません。
そっちに思いが向かうか、スルーしてしまうかは、全くその人の思い方次第でしょう。
このように、段階とかレベルというものを規定しているのは思いだということが分かります。しかし、思いというもの自体は、気ままなものであり、何にも規定されないものでしょう。
一方では、神とかある超越的存在に本当に意識が向かい、つながってしまうというケースもあり、近年は非常に増えてきています。
この越えられる、ということ、意識が超越的なものに向かい、つながるということ、それが取りも直さず、思いが越えられるということを意味しています。
神智学などでは、エーテルだとか、アストラルとか幾つか意識の進化に応じたレベルを提示していますが、思考のレベルを越えるか、どうかだけが肝心なことなのです。もっともそこに進化というものが当てはまるのかどうかは、私は知りませんが...
というのは、思考を越えた、所謂純粋意識の領域では、如何なるものにせよ、相対的レベル、段階というものは認められないからです。
ベルジャーエフが言ったように、階層といった構造は、相対的世界にしか適応出来ないのです。
この相対的ということに対応して、その領域に対して絶対的という言い方も一応可能かもしれません。(しかし、対応語というもの、言葉というもの自体、相対的なものですが ...)
絶対的と言い表そうとしていることは、疑うことが出来ないこと、任意でそれについて思い描いたり、思うこと自体を含め、何かをやろう、行為に移そうとすることが困難であること、受け入れるしかない、ゆだねるしかないことについてです。
この領域にあることにおいても、まだ先に"完全なる個の消滅"であるとか、究極の悟りの段階らしきものを追い求めている者も居るようですが、それは相対観念から抜けきっていない、ということではないでしょうか?
その先に別の領域があるかもしれませんが、そこに行かされるか、どうかは自分ではどうすることも出来ず、神と自己の内なるものの意志次第なのです。
精神的な道で決定的に示されることは、この絶対的領域に預かるか、どうかなのです。
しかるに、その前の段階で、自分の任意の、相対的な思いの中で、自分の道を絶対視してしまう者が何と多いことでしょう。して、その出所のほとんどは他所からの借り物、仮り物に過ぎないのです。
自分にとって絶対的なもの(最善のもの)は、自分の内なるものが開かれてこそ出会えることが出来るのです。
どんなにダメで悪い自分であろうと、それを受け入れなければ、絶対的なものは開かれません。
もっとも目を背けているものこそが、もっとも会わなければならないものなのです...。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます