人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実存と回想

2022-01-16 10:00:49 | 回想
もう、無理ですi
これ以上、回想風の文章を綴って行くのは...
記憶を辿ろうにも思い出せないんです。いや思い出そうとさせない、あるものにぶち当たってしまうのです。
あたかもそのものは、私の過去のある事象を過去の思い出、記憶の1ページにしてしまうことを拒んでいるようです。
回想は、現在の私が過去の私を対象にして想起してゆくものですが、ここでぶち当たっていることは、自己の実存を対象にして、実存について考察することと同じように、そのことを困難にさせているのです。
それは、正に私が初めて実存なるものに目覚めたことに触れているのですi
昭和55年春、ベルジャーエフの「精神と現実」という書物を読んで、初めて私の内部に光が差し込んだ、というようなことは幾度か書いていることですが、その度にそのことが現在のこととして...そう、今ここで現臨するものと切り離しては語れられなくなるのです。
そうであっても、どれだけあの時の、生の嵐の真っ只中の現実に迫るものがあるのかは(先とは違うフツーの意味での記憶の限界というものもあって)、もはや分からないことですが...単なる思念的記憶でない、身に覚えられるものと共に息づいているのは確かなことです。
"私...この私自身なるものは、思われた私では無かったi...世界は、又思われた世界では無かったi...物心付いてからずっと私自身を覆い、取り巻いていた、動かざる現実という壁が音を立てて崩れてゆく...私自身が知っている、生きている真の現実はその向こうにあるのだi..."
私の中のずっと開かずにいた扉が開いて、正にその暗部に光が灯されたようでしたが、そのように数十年前の私をして語らせようとしているのは、現在の私でもあるのですi...いいや、現在の私たらしめている、あるものでしょうか?...
しかし、当時はそれは一過性の、当時しばしば与っていた、精神的な高揚のより深みに達したもののようにしか感じてませんでした。
そういうことは一時のもので、過ぎてしまえばフツーに日常の意識状態になっていたのです。
ただ、この体験を通して、更なる意識の深みが切り開かれるであろう、その日の到来が近いことを予感させられたのでしたが...その約半年後、その予感をもたらす、そのしばしば訪れる現臨感覚とも言うべきものは、自然に失われてしまったのでした。
し、しかし...何が失われた、というのでしょうか?
それがどっかから風のようにやって来ては、日常のクサグサの思いに囚われては去ってゆく...10数年失われてしまったように感じていた...
誰がそう感じていたのだろうか?
あの開かずの扉が開かれたことに意識を向ければ...何も過ぎ去ったものも、失ったものも無いではないかi
過去も現在も超えて、唯一無二の私自身がそこに生き続けているだけではないでしょうか?
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