私はいつも自分にしか通じない、自己満足、独りよがりなことばかり書いているのかもしれません。
だけど...私があなたの、ことに内面のことは分からないように、私の内面のことはそういう感じにならざるを得ないとも思っています。
そしていつも書いていることで、どんなにヘンコなことと受け取られ(ヘンコな人間には違いないですが)、どう思われても、ある面普遍的なものに意識が向けられているのです。
例えば、特定の信仰、修行法を呈示しようとは思っていませんが、それらがどんなに不特定多数に受け入れられたとしても、それ自体が普遍的なものとなる訳では無いからです。
そういうのはポピュラリティというか、一般に向けられるものではあっても、普遍に向けられることとは違うものでしょう。
しばしば混同されがちになり、意味合いが曖昧なこの一般性と普遍性とはどう違うのでしょうか?
これについて公共に受け入れられる、客観的な説明で片付けられて、納得されてしまうものは、すでに普遍性から外れてしまうことになるでしょう。(こういう言い方がもう、独りよがりなものかもしれませんが)
普遍性というのは、一人一人の内面に開かれるものではないでしょうか?
一人一人に今日のような抜けるような秋の青空の素晴らしさが実感されたなら、それは普遍なるものを共有していると言ってもいいのではないでしょうか?
従って、普遍的なものを広めよう、押し広げよう、というような目論みは実にズレたことなのです。"この教えが、やり方が最高だ...これでなければダメだ..."何てーのは大きなお世話以外の何ものでもありません。
しかし、私は不特定多数の人間に受け入れられようとは思ってませんが、一人でも多くの方に普遍性が開かれることを願っているのです。
"普遍性が開かれる..."それは外から得たり、外へ広めようとしなくても、すでに内面に在るのですi
私はいつも書いているように、特別な修行などしてきませんでしたが、一つ祈りに導かれたとは言えるのです。
祈りとは、思いを超えたものにつながろうとする手だて、乗り物であり、又、内なるものがこちらにつながろうとする、現れ出ようとすることへの応答とも言えます。
祈りにおいてこちらの願いとあちらの願い(これが浄土系仏教で言う本願というものでしょう)が一つになるのです。
何よりも祈りというものは、形から入ったとしても、いつのまにか思いを超えたものにつながってしまうのは、こういう理由があるためでしょう。
どんな祈りの文句、やり方というのは、先に書いたように二の次です。それに囚われたら普遍性への道は閉ざされかねません。
祈りの文句でよく知られているのは"南無阿弥陀仏"ですが、これは浄土系仏教にしか通じない名号ととってしまえばそれまでですが、真宗のある方面では、必ずしもそれに囚われる必要もないらしいのです。
これは実に私には頷けることです。南無阿弥陀仏とは無量寿、無量光、無辺光仏...つまり永遠の命、普遍の光のことです。
これは如何なる宗教、思想を超えて、万人の内に根差し、息づいているものに内実を有していると言えるでしょう。
要するに言葉に囚われることなく、キリスト者も、回教徒もその内なるものを呼び覚まされるものを憶念して祈ればいい...勿論一人一人違っていいのです。
神仏というものでなくとも、その人にとって最愛、最上のものであるはずのものでしょう。
こう書いてみて、元より祈りに囚われる必要もないのですが、誰しもがそれぞれの道が普遍的に与えられているように、私自身に与えられた道の一端を記したまでです。
だけど...私があなたの、ことに内面のことは分からないように、私の内面のことはそういう感じにならざるを得ないとも思っています。
そしていつも書いていることで、どんなにヘンコなことと受け取られ(ヘンコな人間には違いないですが)、どう思われても、ある面普遍的なものに意識が向けられているのです。
例えば、特定の信仰、修行法を呈示しようとは思っていませんが、それらがどんなに不特定多数に受け入れられたとしても、それ自体が普遍的なものとなる訳では無いからです。
そういうのはポピュラリティというか、一般に向けられるものではあっても、普遍に向けられることとは違うものでしょう。
しばしば混同されがちになり、意味合いが曖昧なこの一般性と普遍性とはどう違うのでしょうか?
これについて公共に受け入れられる、客観的な説明で片付けられて、納得されてしまうものは、すでに普遍性から外れてしまうことになるでしょう。(こういう言い方がもう、独りよがりなものかもしれませんが)
普遍性というのは、一人一人の内面に開かれるものではないでしょうか?
一人一人に今日のような抜けるような秋の青空の素晴らしさが実感されたなら、それは普遍なるものを共有していると言ってもいいのではないでしょうか?
従って、普遍的なものを広めよう、押し広げよう、というような目論みは実にズレたことなのです。"この教えが、やり方が最高だ...これでなければダメだ..."何てーのは大きなお世話以外の何ものでもありません。
しかし、私は不特定多数の人間に受け入れられようとは思ってませんが、一人でも多くの方に普遍性が開かれることを願っているのです。
"普遍性が開かれる..."それは外から得たり、外へ広めようとしなくても、すでに内面に在るのですi
私はいつも書いているように、特別な修行などしてきませんでしたが、一つ祈りに導かれたとは言えるのです。
祈りとは、思いを超えたものにつながろうとする手だて、乗り物であり、又、内なるものがこちらにつながろうとする、現れ出ようとすることへの応答とも言えます。
祈りにおいてこちらの願いとあちらの願い(これが浄土系仏教で言う本願というものでしょう)が一つになるのです。
何よりも祈りというものは、形から入ったとしても、いつのまにか思いを超えたものにつながってしまうのは、こういう理由があるためでしょう。
どんな祈りの文句、やり方というのは、先に書いたように二の次です。それに囚われたら普遍性への道は閉ざされかねません。
祈りの文句でよく知られているのは"南無阿弥陀仏"ですが、これは浄土系仏教にしか通じない名号ととってしまえばそれまでですが、真宗のある方面では、必ずしもそれに囚われる必要もないらしいのです。
これは実に私には頷けることです。南無阿弥陀仏とは無量寿、無量光、無辺光仏...つまり永遠の命、普遍の光のことです。
これは如何なる宗教、思想を超えて、万人の内に根差し、息づいているものに内実を有していると言えるでしょう。
要するに言葉に囚われることなく、キリスト者も、回教徒もその内なるものを呼び覚まされるものを憶念して祈ればいい...勿論一人一人違っていいのです。
神仏というものでなくとも、その人にとって最愛、最上のものであるはずのものでしょう。
こう書いてみて、元より祈りに囚われる必要もないのですが、誰しもがそれぞれの道が普遍的に与えられているように、私自身に与えられた道の一端を記したまでです。
・・・その姿勢って伝わってきますよ。願っているけど、押し付ける気は毛頭ないはずです。自分でしか気づけないけど、きっかけにはなれるかな?って、考えながら書いてられますよね(笑)
宗教やスピには、"押し付け"で溢れかえっているように思います。
結局、当人がいいと思っていることを言っているだけなのでしょう。
各々そういうものに共感し合うものがあればいいのではないでしょうか?
自発性や自由とか自ずからというものがとても大切といつも感じています。