人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の愛と現臨

2023-05-12 09:58:40 | 
「”神は愛である”という表現には、神の本質が愛であるということが意味されている。愛は神の本質であって、けっしてその属性にはとどまらない。...愛にはかならず、愛する者とのがわと愛される者とのがわとが含まれている」(北森嘉蔵「聖書百話」/講談社学術文庫)

故.北森嘉蔵先生は、手島郁郎先生と同じ熊本生、少し後輩で、若い頃集会を共にしたことがあるそうです。手島先生とは違う面で、日本人の心に根差した福音を追求されていた由。
私は未読ですが、「神の痛みの神学」(同)という著書でよく知られています。
こないだ、その聖書を分かりやすく解説した著書を手に取り、ページを開くなり、もう、がつ~ん!(死語?)
“神は愛である”...愛というものだけでは収まりきれないですが、それは一属性でなく、愛そのものである!
ということは、こちらがその愛を感じなければ分からない、そうして始めてそのことが分かるということです。そうでなければ、そう“思い、考えた”、思弁、空想にとどまるだけなのであります。
考える私からは、神の愛に関わることはけっして出来ません!
第一、神が何かが分からないではないか?、そうして、”あれやこれや”から始めなければならないのでしょう?
しかし、神の愛に触れる、感じるということは、すでに神と関わっているということ...愛があるということはそういうことなのです。
それで、神が何かは分からない(こうなると、知的に神が分かろうと、分かるまいとどうでもよくなる!)かもしれませんが、人間が考えている愛を超えたものを通して、その何かとてつもない、あるもののことが示されるのです。
如何にして神と関わる、つながるかと方法をこうじたりするまでもなく!
これは、全く神的な現臨ということと同じ事態のことでしょう。
私が居て、神と対峙しているのではない。向こうに置いているのではない!
神が臨在しているのである!...もう、こちらは神に取られているのです!
こちらが修業などを通し、一歩一歩高きに上り、神に近づいたりするのではなく、あちらの方が臨んで来る...もう関わっている、つながっている!
それにゆだねるしかないのです!
そこには、やはり祈るということ、そういう心持ちというものはありますが、分かる人には分かる!...最初からゆだねられていることが!
だから...始めに神ありき...神の愛、現臨ありき、ということなのでしょう!...
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