"無いi...、ナイ、無いよお、どこ行ったんだーっi"
昨日、大事にしていたものが無くなってしまったのですi
もう、こうなると例の病気が始まってしまいます。"探すんだ、何としてでも探さずにおれるものか、ぬおーっi"
冷血鬼キラー.コワルスキー("耳ソギ事件"で有名な昔のプロレスラー。知らない人はスルーi)みたいになって、そういう想念に取りつかれてしまうのです。
えっ、今のあなたは何かに意識を向ければ、パッi、とそういう苦境から抜け出せるんじゃないですか?、って...
ウルサイi、今はそんな悟り済ましたこと言ってる場合じゃないのi 血眼になってんだから...それにしても暑い、熱い...
探すこと一時間...見つからずi...もう、ツカレたよi
だから言っているでしょう。私はこういう病気を克服したということは無いんだ、って!
そういうつもりになったことは何べんもありますよi...だけど、そうやって克服したはずの思いのクセがすぐ出てきて、"こんなはずじゃなかった"、と思い知らされたことも何べんもありますよ(笑)...だから、そういうことはもういいって訳。
そおなると、そこに自責の念というものも加わり、いよいよ抜き差しならない思いの地獄にハマってしまうのです。
地獄という客観的な世界があるのかどうかは知らないですが、それはおそらく、自分の思いだけに閉じ込められた世界じゃないかと思います。
昔からこういう思いのガンジガラメの苦しさは知っています。思うまいとしても、それは否応なしにもたげて来てしまう、コントロールが出来ないのです。
だけど、そんな私でも探しくたびれて、気を抜いた時なんかにパッと意識が向くことがあります。向けよう、思い描こう、コントロールしようとするんでなしに...すると、もう本当にコツ念とそういう思いが開かれてしまうのですi
そんな簡単に上手くいくはずがない、と思っている間に...
だから、これは思い方の問題でなく、思いを超えたところから開かれるという感じなのです。
そして、あのたぎるような思いは引っ込んで、聞き分けのいいポチみたいになってしまうのです。代わりに何とも言えない安らぎがもたらされるから...
こういう思いが塞がってしまうような時、大事なことは自分で何とかするんじゃなくて、僅かでもいいから余地、隙間を開けておくことです。
その空間とは、自分の思いは、自分でコントロール出来ないことの裏表にあるようなことです。
自分の思いの及ばない空間とは、即ち思いを超えた世界への通路、通気孔なのです。
これは祈り、祈り心によって生まれるものです。
八方塞がり、どうしようもなくなったら、祈ればいい。
宗教的でない、フツーの意味での祈りということがピンと来ない向きは、"もう、どうしたらいいか分からない、考えられない"、ということを意識してみたらいいでしょう。
そうすると、僅かでも考えることが止まったりします。
私の場合はパッi、となります。これは祈りと言っても同じことです。
要するに、思いがそれを超えた世界につながるということです。僅かなパイプさえあれば、自ずと開かれます。
そおして、寝て、起きて、も一度じっくり探してみると...ぬあんと、あったではないかi
そう、見つかったのは、神的なものと共にある、自然なる本性だった?i...
昨日、大事にしていたものが無くなってしまったのですi
もう、こうなると例の病気が始まってしまいます。"探すんだ、何としてでも探さずにおれるものか、ぬおーっi"
冷血鬼キラー.コワルスキー("耳ソギ事件"で有名な昔のプロレスラー。知らない人はスルーi)みたいになって、そういう想念に取りつかれてしまうのです。
えっ、今のあなたは何かに意識を向ければ、パッi、とそういう苦境から抜け出せるんじゃないですか?、って...
ウルサイi、今はそんな悟り済ましたこと言ってる場合じゃないのi 血眼になってんだから...それにしても暑い、熱い...
探すこと一時間...見つからずi...もう、ツカレたよi
だから言っているでしょう。私はこういう病気を克服したということは無いんだ、って!
そういうつもりになったことは何べんもありますよi...だけど、そうやって克服したはずの思いのクセがすぐ出てきて、"こんなはずじゃなかった"、と思い知らされたことも何べんもありますよ(笑)...だから、そういうことはもういいって訳。
そおなると、そこに自責の念というものも加わり、いよいよ抜き差しならない思いの地獄にハマってしまうのです。
地獄という客観的な世界があるのかどうかは知らないですが、それはおそらく、自分の思いだけに閉じ込められた世界じゃないかと思います。
昔からこういう思いのガンジガラメの苦しさは知っています。思うまいとしても、それは否応なしにもたげて来てしまう、コントロールが出来ないのです。
だけど、そんな私でも探しくたびれて、気を抜いた時なんかにパッと意識が向くことがあります。向けよう、思い描こう、コントロールしようとするんでなしに...すると、もう本当にコツ念とそういう思いが開かれてしまうのですi
そんな簡単に上手くいくはずがない、と思っている間に...
だから、これは思い方の問題でなく、思いを超えたところから開かれるという感じなのです。
そして、あのたぎるような思いは引っ込んで、聞き分けのいいポチみたいになってしまうのです。代わりに何とも言えない安らぎがもたらされるから...
こういう思いが塞がってしまうような時、大事なことは自分で何とかするんじゃなくて、僅かでもいいから余地、隙間を開けておくことです。
その空間とは、自分の思いは、自分でコントロール出来ないことの裏表にあるようなことです。
自分の思いの及ばない空間とは、即ち思いを超えた世界への通路、通気孔なのです。
これは祈り、祈り心によって生まれるものです。
八方塞がり、どうしようもなくなったら、祈ればいい。
宗教的でない、フツーの意味での祈りということがピンと来ない向きは、"もう、どうしたらいいか分からない、考えられない"、ということを意識してみたらいいでしょう。
そうすると、僅かでも考えることが止まったりします。
私の場合はパッi、となります。これは祈りと言っても同じことです。
要するに、思いがそれを超えた世界につながるということです。僅かなパイプさえあれば、自ずと開かれます。
そおして、寝て、起きて、も一度じっくり探してみると...ぬあんと、あったではないかi
そう、見つかったのは、神的なものと共にある、自然なる本性だった?i...
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