あの反面教師の画伯の言葉に接して、いよいよ倒錯した観念にトラワレた人間の末期症状を見る思いにさせられます。
何でも、覚醒の道を進むことにより、神の世界を超えた、実存の境地に到達して、その又奥には真我の境地があるのだそうです。中身の無い言葉を並べて、弄んでいるだけです。
実存という言葉に馴染みのある人がこれを読めば、笑止に堪えなくなることでしょう。
この御仁、そういうことを説いている”宇宙全○”の教師の教えを鵜呑みにしているのでしょうが、それがどういうシロモノかはすぐ分かるではないか!...他人におツイショウするしかノウの無いこの御仁、一度でも自分自身で実存、真我について考えたことがあるのだろうか?...そうでなければまるっきりそういうことには縁が無いということ...勿論、そこに覚醒の道など永久に開かれる訳が無いのです!
この御仁、半世紀近くも五井先生を信奉していて、祈りのことも、消えてゆく姿、全託のことも何一つ身につかず、理解していなかった、ということなのでしょうか?
もう、”完全覚醒を目指す”などと非現実的な空想、妄想に耽っている場合じゃない、一刻も早くその狂相の世界から抜け出すことですよ!...自分からは不可能なら祈らなければなりません。そう、神に!...守護霊、守護神、五井先生でもいいでしょう。
神を超えた実存?...何という思い上がりであろう!...私がいつもこうして、こっぴどい言葉を浴びせるのは、この御仁、どうしようもない無知である上に、度し難い増上慢に陥っているからですよ!
実存という言葉は、哲学に関心の無い人には馴染みが無いでしょうが、自覚あるなしに関わらず、実存にあって生きてない人など狂人でない限り一人も居ないはずです。
つまり”私はここに在る”、ということを意識出来ない人は居ないということです。
もっとも、”実存とは何ぞや?”と哲学的に意味を問い続けていてもそれが解明される訳ではありません。
ということは、それを対象化している限り、実存的な在り様にはならないということ、換言すれば、実存という実体としては捉えられないということなのです。そういう実体信仰から様々な空想、妄想が生まれるのです。
真我ということも同じ意味合いで理解されるものでしょう。
そういうことは、そのようにいくら考えを重ねても分からないものです。しかし、それは先見に囚われず、自分で主体的に考えるという心的態度から開かれると言ってもいいでしょう。
そうして、自分の思考の及ばない、限界点という壁にブチ辺り、そこに初めてそれを超えたものがある、ということに気付かされるのです。
そういうことが最初から分かっているような人は、より直接的、直観的に参入出来る訳ですが...
いずれにしても、実存、真我に目覚めることは、自分を超えたもの無しには開かれないということは分かるでしょう。そのものを私は仮に神、神的なものと呼んでいるのです。
実存、真我というものがそうであるように、本当は神も自分と切り離して対象化することは出来ないのですが、考えている人間自らは、そういう根源的な状態に帰ることは出来ないから祈りとかある種の瞑想というものがあるのでしょう。(真摯に求めている方なら説明は要りませんね?)
返す返すも、神を超えた何かの境地のことなど夢想している人間は、さっさと勝手に消えてゆく姿になって、宇宙のチリになってしまうがいい!...
何でも、覚醒の道を進むことにより、神の世界を超えた、実存の境地に到達して、その又奥には真我の境地があるのだそうです。中身の無い言葉を並べて、弄んでいるだけです。
実存という言葉に馴染みのある人がこれを読めば、笑止に堪えなくなることでしょう。
この御仁、そういうことを説いている”宇宙全○”の教師の教えを鵜呑みにしているのでしょうが、それがどういうシロモノかはすぐ分かるではないか!...他人におツイショウするしかノウの無いこの御仁、一度でも自分自身で実存、真我について考えたことがあるのだろうか?...そうでなければまるっきりそういうことには縁が無いということ...勿論、そこに覚醒の道など永久に開かれる訳が無いのです!
この御仁、半世紀近くも五井先生を信奉していて、祈りのことも、消えてゆく姿、全託のことも何一つ身につかず、理解していなかった、ということなのでしょうか?
もう、”完全覚醒を目指す”などと非現実的な空想、妄想に耽っている場合じゃない、一刻も早くその狂相の世界から抜け出すことですよ!...自分からは不可能なら祈らなければなりません。そう、神に!...守護霊、守護神、五井先生でもいいでしょう。
神を超えた実存?...何という思い上がりであろう!...私がいつもこうして、こっぴどい言葉を浴びせるのは、この御仁、どうしようもない無知である上に、度し難い増上慢に陥っているからですよ!
実存という言葉は、哲学に関心の無い人には馴染みが無いでしょうが、自覚あるなしに関わらず、実存にあって生きてない人など狂人でない限り一人も居ないはずです。
つまり”私はここに在る”、ということを意識出来ない人は居ないということです。
もっとも、”実存とは何ぞや?”と哲学的に意味を問い続けていてもそれが解明される訳ではありません。
ということは、それを対象化している限り、実存的な在り様にはならないということ、換言すれば、実存という実体としては捉えられないということなのです。そういう実体信仰から様々な空想、妄想が生まれるのです。
真我ということも同じ意味合いで理解されるものでしょう。
そういうことは、そのようにいくら考えを重ねても分からないものです。しかし、それは先見に囚われず、自分で主体的に考えるという心的態度から開かれると言ってもいいでしょう。
そうして、自分の思考の及ばない、限界点という壁にブチ辺り、そこに初めてそれを超えたものがある、ということに気付かされるのです。
そういうことが最初から分かっているような人は、より直接的、直観的に参入出来る訳ですが...
いずれにしても、実存、真我に目覚めることは、自分を超えたもの無しには開かれないということは分かるでしょう。そのものを私は仮に神、神的なものと呼んでいるのです。
実存、真我というものがそうであるように、本当は神も自分と切り離して対象化することは出来ないのですが、考えている人間自らは、そういう根源的な状態に帰ることは出来ないから祈りとかある種の瞑想というものがあるのでしょう。(真摯に求めている方なら説明は要りませんね?)
返す返すも、神を超えた何かの境地のことなど夢想している人間は、さっさと勝手に消えてゆく姿になって、宇宙のチリになってしまうがいい!...
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