宗教やスピなどには、ご存じのように悟りとか覚醒という事がついてまいります。
お金払って信仰とか修行とか勉強会などに関わるのは、そのためですよね。
関わる人たちはホントに悟りとかを求めているんでしょうか?
漠然といつかはそういう事も有る、という風に感じているだけなのでしょうか?
そういう人は、今ここにそれが臨むという現実的な視点が欠けているのでしょう。
あるいは他人に煽られて、何となく従っているのでしょうか?
宗教、スピ界隈には、”悟るのは今デショ!”(ちと古いか…)などと上記したような空気を巧みに利用して、高額の悟りコースなどに誘導しようとする向きもありますので、要注意です。
教師たちによってはこのように煽るような事を言ったり、逆にこんなこともしばしば言われたりします。
”悟ろうとか、目覚めようとか、神秘体験したいとかいった欲望を捨てなければなりません”とか…
全く、おっしゃる通りだと思います。
より高いレベルの悟り、究極の悟り…ワンネス…どこまでも自分がそうした境地に達したい、という限りなき自我の肥大と隣り合わせの危うさ…
又、悟りに至るとされる数多の瞑想法、メソッド…”こうすれば必ず悟れます!”などと煽ってはいますが、私は寡聞にしてそうして”悟りました”と言う話は聞きません。
仮に居たとしても、どうして同じやり方で修行しているのに、大多数の人にはそういうものに預かれないのでしょうか?
ここには最も肝心な事がおざなりにされているのです。
そもそもの悟り、魂の目覚めの根底的なもの…このものなくしては起こり得ないもの…このものは、あなたの内奥にあるものを通じて、どうされようとしているのか…そして、あなたはそれにどう答えようとしているのか…この事を等閑にされて、例えば”悟ろうという欲望を捨てなければならない”などと他を通じ、または自分で決めつけたとしても、それが上よりの促しから来るものだとしたら…内から押し出してくるものを断ち切れるものでしょうか?
そして、このもの自身からくる促しの前に、一体人為的なやり方、メソッドが一体何になるでしょうか?
数多の信仰…何の宗教、何の神への信仰でしょうか?
このものから離れた全ての信仰、修行そして悟りというものさえも、それ自体中身が抜け落ちてしまうのです。
一歩一歩修行して何時しか悟るとか、何の神を、教えを信じるとか、どういうやり方がいいとか、複式呼吸が出来たとか、何分、何時間坐らなければならないとか…これは全く銘々の都合のことを言っているに過ぎないのです。
上よりの都合?が無ければ何一つ始まらない、というのに…
”そんな事言っても、天には声無しなんだから身もフタも無い”という方も居られるかも知れませんが、そういう人は祈ること、祈り心というものに馴染んでいないのだと思います。
声は聞こえずとも、祈りなどを通じて、自ずと惹きつけて止まないものが芽生えてくる事が有ります。
これは本当に上よりの促しなのか、と訝る事も有るでしょうが、どこまでもどこまでも止まないものに、それが出てくるものに合わせ、あろうとするものに合わせる…これはそうしようとしなくても、そうなる人は誰に教わろうとしなくても、理屈抜きにそうなってしまうものです。
それは、自ら目指す悟りの境地などといった自分の都合などより、神的なものと共にあることに自ずと親しんでしまうのです。自ずとそちらに意識が向いてしまうのです。
神は自分の奥にある意志を無視しては、意識に切り込んで来ません。
しかし、”まだ自分にはその時が来ていない”といった自分の都合など聞いちゃくれません! 天国の門は開く時に開くし、閉じる時に閉じます。
祈りを通して、神的なものと共にあることで、神の都合(御心)と人の都合が合わされるのでしょう…。
それは神的なものへの信頼と自己信頼が一つのものであるという事なのでしょう。
お金払って信仰とか修行とか勉強会などに関わるのは、そのためですよね。
関わる人たちはホントに悟りとかを求めているんでしょうか?
漠然といつかはそういう事も有る、という風に感じているだけなのでしょうか?
そういう人は、今ここにそれが臨むという現実的な視点が欠けているのでしょう。
あるいは他人に煽られて、何となく従っているのでしょうか?
宗教、スピ界隈には、”悟るのは今デショ!”(ちと古いか…)などと上記したような空気を巧みに利用して、高額の悟りコースなどに誘導しようとする向きもありますので、要注意です。
教師たちによってはこのように煽るような事を言ったり、逆にこんなこともしばしば言われたりします。
”悟ろうとか、目覚めようとか、神秘体験したいとかいった欲望を捨てなければなりません”とか…
全く、おっしゃる通りだと思います。
より高いレベルの悟り、究極の悟り…ワンネス…どこまでも自分がそうした境地に達したい、という限りなき自我の肥大と隣り合わせの危うさ…
又、悟りに至るとされる数多の瞑想法、メソッド…”こうすれば必ず悟れます!”などと煽ってはいますが、私は寡聞にしてそうして”悟りました”と言う話は聞きません。
仮に居たとしても、どうして同じやり方で修行しているのに、大多数の人にはそういうものに預かれないのでしょうか?
ここには最も肝心な事がおざなりにされているのです。
そもそもの悟り、魂の目覚めの根底的なもの…このものなくしては起こり得ないもの…このものは、あなたの内奥にあるものを通じて、どうされようとしているのか…そして、あなたはそれにどう答えようとしているのか…この事を等閑にされて、例えば”悟ろうという欲望を捨てなければならない”などと他を通じ、または自分で決めつけたとしても、それが上よりの促しから来るものだとしたら…内から押し出してくるものを断ち切れるものでしょうか?
そして、このもの自身からくる促しの前に、一体人為的なやり方、メソッドが一体何になるでしょうか?
数多の信仰…何の宗教、何の神への信仰でしょうか?
このものから離れた全ての信仰、修行そして悟りというものさえも、それ自体中身が抜け落ちてしまうのです。
一歩一歩修行して何時しか悟るとか、何の神を、教えを信じるとか、どういうやり方がいいとか、複式呼吸が出来たとか、何分、何時間坐らなければならないとか…これは全く銘々の都合のことを言っているに過ぎないのです。
上よりの都合?が無ければ何一つ始まらない、というのに…
”そんな事言っても、天には声無しなんだから身もフタも無い”という方も居られるかも知れませんが、そういう人は祈ること、祈り心というものに馴染んでいないのだと思います。
声は聞こえずとも、祈りなどを通じて、自ずと惹きつけて止まないものが芽生えてくる事が有ります。
これは本当に上よりの促しなのか、と訝る事も有るでしょうが、どこまでもどこまでも止まないものに、それが出てくるものに合わせ、あろうとするものに合わせる…これはそうしようとしなくても、そうなる人は誰に教わろうとしなくても、理屈抜きにそうなってしまうものです。
それは、自ら目指す悟りの境地などといった自分の都合などより、神的なものと共にあることに自ずと親しんでしまうのです。自ずとそちらに意識が向いてしまうのです。
神は自分の奥にある意志を無視しては、意識に切り込んで来ません。
しかし、”まだ自分にはその時が来ていない”といった自分の都合など聞いちゃくれません! 天国の門は開く時に開くし、閉じる時に閉じます。
祈りを通して、神的なものと共にあることで、神の都合(御心)と人の都合が合わされるのでしょう…。
それは神的なものへの信頼と自己信頼が一つのものであるという事なのでしょう。
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