人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
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無我と真我

2025-02-10 06:22:38 | 仏教関連
前回の続きです。
秋月龍珉先生の「誤解された仏教」という本を読んでいて、“無我説“という言葉は、ブッダの教説との関連でよく触れるのですが、“有我説“というのは、浅学ながら私はほとんど聞いたことがありません。
秋月先生は、その著で原始仏教の無我説に対して、その母体とも言えるヒンドゥー教にその有我説を適応させているのです。
様々な流派に分かれ、多様な発展をして来たヒンドゥー教を、その枠で一括してしまうことにも疑問を感じるのですが、私がどうにも受け入れ難く感じたのは、その説明として自我(一個の考える自分?)、相対的な人間がそのまま大我(ブラーマン)に合一するという梵我一如説は、“無自性、非実体を本義とする仏教においては絶対に認められない“、とする観方にあります。
一体、相対的自我が無化、超克されることなく、そのまま絶対なるものに合一されるなどという道が如何なる宗教、霊性の道においてもあり得るでしょうか?
少なくとも、私には、ヒンドゥーの代表的聖典とされる「バカヴァット.ギータ」などを読んでも、近代のヒンドゥーの聖者、ラーマ.クリシュナ、ヴィヴェカーナンダ、あるいはラマナ.マハルシなどの教説に触れても、そういう内容のものはほとんど伝わって来ないのです。
一様に自我性は、超えられなければ大我というものは開かれない!、ということを説いているのは自明なことではありませんか?
これは、自我というものとヒンドゥーで真我とされる“アートマン“とを混同していることが問題と思われます。アートマンこそは、自我性が超えられることで目覚めるものでしょう?
秋月先生によれば、アートマンは実体あるものとされるらしいのです。
私はよく真我という言葉を使いますが、実体論として表現したことは一度もありません。
それは、正に実体として考えられ、感じられている自我が無化されることにより開かれる、ある意識状態において感じられるものとして言い表せるものであり、分別知で実体として捉えられる訳が無いのです。真我とはそう仮称するしかないものでしょう。
このこととブッダの縁起観から導かれる無我に関連して、私は直感的に真我と感じる自己には実体は無く、どうもそうしたつながりによって在らしめられているものを感じています。
この意味で、それは相対観を拭えない有我よりも無我という言葉の方がピッタリするのを感じています。
だから、秋月先生始め、禅仏教でよく言われる“無相の自己“こそが真我と言っても何ら違和感は感じて来ません。
しかし、そうしたヒンドゥー的霊性も形骸化して、自我がそのまま真我、大我に至るとされる“有我説“に迎合してしまう傾向も生まれたりもするでしょう。ブッダの“無我説“とは正に、その“異議申し立て“として表されたものでは無かったでしょうか?
要するに、仏教とかヒンドゥー教がどうとかの問題では無く、真の霊性の道が開かれるか、生きたものとなるかが問題なのです。
又、インドにおいては、無神論(とされている)の仏教は廃れて、元の有神論(とされる)ヒンドゥー的神信仰に追いやられた形になりましたが、この要因は、そもそもブッダは定説となるものを立てなかったことにあると思われます。一つの宗教を立てるにはちょっとユルい、ヨワいものがあったのでしょう?
わが国の仏教の発展も、大日如来や阿弥陀如来といった神的なものに“仮託“してゆく帰依の道の影響があったのもそこに遠因が求められるでしょう。
私はそこに相対観からの、特に宗教的相克からの解脱?という理念が込められているのを感じています。
このブッダの自由な精神は表層からは消えたけど、今もなお生きているし、生かして行かなければならないと通説に思います。
神を信仰しようが、自分以外に神を認めまいが、真我に目覚めようが、自我を空じようが、定説、枠を超えて、あくまで自己実存に即した在り方こそが、本来の宗教、霊性の道を生かして行くことになるのではないでしょうか?

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