”祈ろう!
意識を向けよう!...”
これでよし!、決まり!
人生は最初に何を思うかで決まる!...かもしれない?
祈ろうと思うのは、勿論考えている、そう意志する私ですよ。
だけど、祈ろうという場合、意識がその思いを超えたものに向けられる、というのがミソなのです。ゆだねようとしている。
そう思い、意志した瞬間に切り替わるのです。瞬間、パーッと開かれる!
思いが離れて、その思いを超えたものが臨む!
長い祈りごとを唱えるでもない、瞑想というのなら、即座に瞑想的な意識状態になります。(いつも言うように、祈りと瞑想は切り離せないのです)
何も難しい呼吸法とか、”空になる、無になる!”、むむむっと意識を集中する必要もありません。
祈ろうと思うだけなのです。これがホントの初めの一念、初一念というものでしょう。
一般に使われている意味とは違うかもしれませんが、初め、そこから始まるものを意識する、向いてしまう...一念の念仏と言ったりしますね。
初めにごちゃごちゃ考えることじゃない!、思いを無くそうとか、無になるとか出来そうにないことでもさらさらない!...悟ろうとか?、関係ない!
ごちゃごちゃ想念、雑念がやまなくてもいい...とにかく、意識を向ければいい!
すると、即”現臨にある状態”に切り替わります。
これは、五井先生などが、”祈りは業生の自分がやるのではない”、と言われていたことと関わることなんでしょう。
業生かもしれないが、初めに何に依り頼むかで、天と地ほどの違いが出て来るのです。開かれるか、閉じられるかが決まってしまうのです。
小池辰雄先生は、”祈入”ということをよく言われていました。祈りで”主”の世界に入る!
「私の祈りは、”主様!”の一言です」これは、正しく初一念のことを言い表していると言えるでしょう。ホントはその一言も要らないくらいなのでしょうけど。
勿論、私は先生方のような達人とは比べるべくもない、業生の人間に過ぎません。
しかし、向けられるもの、臨むものは同じでしょう?
あの御方と共にあれば、エライ人間も、ダメな人間もありゃしません。(勿論、先人たちの縁によることも大きいのですよ!)
この初一念は、何人にも与えられていることを私は強調してやまないのです!
”主なるもの”とつながっていない人間など居ないのだから!...
意識を向けよう!...”
これでよし!、決まり!
人生は最初に何を思うかで決まる!...かもしれない?
祈ろうと思うのは、勿論考えている、そう意志する私ですよ。
だけど、祈ろうという場合、意識がその思いを超えたものに向けられる、というのがミソなのです。ゆだねようとしている。
そう思い、意志した瞬間に切り替わるのです。瞬間、パーッと開かれる!
思いが離れて、その思いを超えたものが臨む!
長い祈りごとを唱えるでもない、瞑想というのなら、即座に瞑想的な意識状態になります。(いつも言うように、祈りと瞑想は切り離せないのです)
何も難しい呼吸法とか、”空になる、無になる!”、むむむっと意識を集中する必要もありません。
祈ろうと思うだけなのです。これがホントの初めの一念、初一念というものでしょう。
一般に使われている意味とは違うかもしれませんが、初め、そこから始まるものを意識する、向いてしまう...一念の念仏と言ったりしますね。
初めにごちゃごちゃ考えることじゃない!、思いを無くそうとか、無になるとか出来そうにないことでもさらさらない!...悟ろうとか?、関係ない!
ごちゃごちゃ想念、雑念がやまなくてもいい...とにかく、意識を向ければいい!
すると、即”現臨にある状態”に切り替わります。
これは、五井先生などが、”祈りは業生の自分がやるのではない”、と言われていたことと関わることなんでしょう。
業生かもしれないが、初めに何に依り頼むかで、天と地ほどの違いが出て来るのです。開かれるか、閉じられるかが決まってしまうのです。
小池辰雄先生は、”祈入”ということをよく言われていました。祈りで”主”の世界に入る!
「私の祈りは、”主様!”の一言です」これは、正しく初一念のことを言い表していると言えるでしょう。ホントはその一言も要らないくらいなのでしょうけど。
勿論、私は先生方のような達人とは比べるべくもない、業生の人間に過ぎません。
しかし、向けられるもの、臨むものは同じでしょう?
あの御方と共にあれば、エライ人間も、ダメな人間もありゃしません。(勿論、先人たちの縁によることも大きいのですよ!)
この初一念は、何人にも与えられていることを私は強調してやまないのです!
”主なるもの”とつながっていない人間など居ないのだから!...
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