非二元論によれば人間には自由意志など無いそうですね。
論点は違いますが、二元論的なプロテスタントの宗教改革を推し進めたルターやカルヴィンもそういう事を主張していました。
ルターは、やはり宗教改革に関わった人文主義者エラスムスの「自由意志論」に対し「奴隷意志論」で論戦しました。
私はどっちが本当かなど…興味ないです。あーでもない、こーでもないと、面倒くさいです…。
ただ、当たり前にこの世に生きている者からすれば、エラスムスの方がずっとマットウに思えます。
ルターは言う”罪を背負った人間には、自由意志など無く悪しか選択できず、善なるものは神の恩寵によってしか導かれない…”
さらにカルヴィンは”人間が救われるかどうかはあらかじめ神によって定められている…”と予定説を唱えました。これは仏教のカルマ論にも似ていますね。
こうした言説に触れると、私は神に聞いてみなきゃ分からないようなことを何故決めつけたこと言うのだろう…と思ってしまいます。
それに自由は無く、全てが決まっていて支配されている…何が楽しいのか!…
だからと言って、私は人道的なエラスムスの人間の英知とか努力への楽観に全面的に首肯出来ない部分もあります…。
毎日毎日、終わりなき日常に追われ続ける我々には、なかなか自由でいられる実感など持てないかも知れません。
又、そもそも自由意志などと言っても、ある行為は諸々の刺激などの条件に反応しているだけであって、どこまで本当に自らの意志によって為されているのか分からないです。。
仕事から解放されても、例えば酒場などでグダグダと愚痴ばかり言っていたりする人を見ていると、とても自由でいるようには見えません。
単なるウサ晴らしとホントの自由の実感とは違うようです。大体そういうの聞かされている方は不自由極まりません。
私が自由を実感出来るのは、自分が引っ込んでしまうような時です。
それに伴い自分でない何かがジワジワっともたげてきます。この自由さというものはチッポケな自分からは来ないものです。
そして極めつけは、自分を超えたものに捉えられてしまった時です。そこで身体的にも精神的にも自由が効かなくなります。
”ハア…一体そのどこが自由なの? それは自己の自由が抑えられて、得体の知れないものに服従させられているってことじゃないの?…”と思われるかも知れません。
宗教などでは当たり前のように、自分を虚しくして、捨てて、神の意志に従わなければならない(いつ神がそう言ったのか知りませんが)…と説かれ続けてきました。”神の意志か然らずんば人間の意志か、どっちか…”ってわけです。(これが二元性の何たるかなんだ!)
でも、私はその時神の奴隷になる訳でも、自分の意志を断念して神の意志に従う訳でも無いのです。
成程、そこでこれまでの生き方、考え方の転向のように思える事も起こり得るかも知れません。
だが、そこには自己の意志と自己を超えたものの意志の二つは有りません。
自分を捨てて、そっちに従うということではないのです。かと言ってチッポケな自分の意志を通しているということでもありません。
何か自分の全人格を挙げてそっちへ無条件に赴くという感じです。
自由意志というのは”我ならぬ我”に淵源があるという他有りません。
そもそも自分の意志で自分を捨てるとか、別の意志に従うことなど出来ないのです。
これはルターのように恩寵によってそうなるとも言えるでしょう。
だが、それは何かの教え、ドグマを信じ込むこととは全く関係ありません。
何故なら、そういうことはドグマへの隷属であって全く自由なことではないから…
つまり、この逆説的自由に預かるには、外的権威から自由であるべきなのです。
そして、心身が不自由な状態になっている時、いつも声なき声がこうささやくのです…”お前は自由だ!”と…
論点は違いますが、二元論的なプロテスタントの宗教改革を推し進めたルターやカルヴィンもそういう事を主張していました。
ルターは、やはり宗教改革に関わった人文主義者エラスムスの「自由意志論」に対し「奴隷意志論」で論戦しました。
私はどっちが本当かなど…興味ないです。あーでもない、こーでもないと、面倒くさいです…。
ただ、当たり前にこの世に生きている者からすれば、エラスムスの方がずっとマットウに思えます。
ルターは言う”罪を背負った人間には、自由意志など無く悪しか選択できず、善なるものは神の恩寵によってしか導かれない…”
さらにカルヴィンは”人間が救われるかどうかはあらかじめ神によって定められている…”と予定説を唱えました。これは仏教のカルマ論にも似ていますね。
こうした言説に触れると、私は神に聞いてみなきゃ分からないようなことを何故決めつけたこと言うのだろう…と思ってしまいます。
それに自由は無く、全てが決まっていて支配されている…何が楽しいのか!…
だからと言って、私は人道的なエラスムスの人間の英知とか努力への楽観に全面的に首肯出来ない部分もあります…。
毎日毎日、終わりなき日常に追われ続ける我々には、なかなか自由でいられる実感など持てないかも知れません。
又、そもそも自由意志などと言っても、ある行為は諸々の刺激などの条件に反応しているだけであって、どこまで本当に自らの意志によって為されているのか分からないです。。
仕事から解放されても、例えば酒場などでグダグダと愚痴ばかり言っていたりする人を見ていると、とても自由でいるようには見えません。
単なるウサ晴らしとホントの自由の実感とは違うようです。大体そういうの聞かされている方は不自由極まりません。
私が自由を実感出来るのは、自分が引っ込んでしまうような時です。
それに伴い自分でない何かがジワジワっともたげてきます。この自由さというものはチッポケな自分からは来ないものです。
そして極めつけは、自分を超えたものに捉えられてしまった時です。そこで身体的にも精神的にも自由が効かなくなります。
”ハア…一体そのどこが自由なの? それは自己の自由が抑えられて、得体の知れないものに服従させられているってことじゃないの?…”と思われるかも知れません。
宗教などでは当たり前のように、自分を虚しくして、捨てて、神の意志に従わなければならない(いつ神がそう言ったのか知りませんが)…と説かれ続けてきました。”神の意志か然らずんば人間の意志か、どっちか…”ってわけです。(これが二元性の何たるかなんだ!)
でも、私はその時神の奴隷になる訳でも、自分の意志を断念して神の意志に従う訳でも無いのです。
成程、そこでこれまでの生き方、考え方の転向のように思える事も起こり得るかも知れません。
だが、そこには自己の意志と自己を超えたものの意志の二つは有りません。
自分を捨てて、そっちに従うということではないのです。かと言ってチッポケな自分の意志を通しているということでもありません。
何か自分の全人格を挙げてそっちへ無条件に赴くという感じです。
自由意志というのは”我ならぬ我”に淵源があるという他有りません。
そもそも自分の意志で自分を捨てるとか、別の意志に従うことなど出来ないのです。
これはルターのように恩寵によってそうなるとも言えるでしょう。
だが、それは何かの教え、ドグマを信じ込むこととは全く関係ありません。
何故なら、そういうことはドグマへの隷属であって全く自由なことではないから…
つまり、この逆説的自由に預かるには、外的権威から自由であるべきなのです。
そして、心身が不自由な状態になっている時、いつも声なき声がこうささやくのです…”お前は自由だ!”と…
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