「そこには、あるものがそこにいるという意識ばかりでなく、その意識の中心にある幸福感と溶け合って、それが何か名状しがたい善であるという驚きの意識もあった」
「神は、目には見えはしなかったけれども、現前したもうた。神は私の五感のどれ一つにも触れはしなかったが、しかし私の意識は神を知覚した」
(ウィリアム.ジェイムス「宗教的経験の諸相」/岩波文庫他)
私はここで何度となく、“神に意識を向ける“という言い方をして来ました。
いかにも、神という対象を思い描いて、それに意識を向けるというようなイメージを与えてしまうように...
しかし、それは本当は正確な表現では無く、ただ慣用的な言い方が思いつかないので、分かりやすくそう言ったまでなのです。
いや、対象的に向けるというのは、思いの世界のことなのであって、意識の世界には無いと言ってもいいのです。
この場合の“意識を向ける“という意味合いは、すでに意識的に知覚されているもの、ハタライているものを意識するというようなことなのです。
対象的に向けるというよりも、“向き合う“という方がいくらか伝わるものがあるでしょうか?
合う、すでにあるものに合わさるという...
これは、そういう原体験、原態に基づいていると言っていいでしょう。
つまり、最初から愛、平安、リアリティというものは意識下に覚えられていて、意識的になることによって、表層に喚起されるということなのです。それを“神が現れ臨む“、とこう呼んでいる訳ですが...
米国の哲学者、心理学者ウィリアム.ジェイムスは、その帯びただしい数の体験報告から成る、宗教体験、回心体験についての名著の中で、そうした意識の状態は、生まれつきのものだと言います。全くそうですね、私も原態と言っているくらいですから!...
人は、宗教と関わり、ある教えに触れ、ただ観念的にそれを理解し、礼拝行事などで、対象的に神を礼拝するだけで、あの神的な愛、平安、リアリティに与ることなど出来るでしょうか?
それは、正に意識下に息づいているものが、呼び覚まされることに拠るのでしょう。
それがどこで発現されるかは分からないのです。その教えに触れ、礼拝と関わることにおいても無いとは限らないし、何度そうしたことを重ねてもそうなる保証も無いと言えます。
ただ、自分の思いを超えて、超えたものがハタラくことがあるだけでしょう。
私は、自分からは神的なものとつながる道は開かれない!...それは不可逆なものだと言います。
それは、あくまでも思い、為そうとする自分“のみ“からは...ということなのであり、原初的な自己には当てはまらないでしょう。
“神と共にある、現臨にあることは、幸福なことなんだ!“...私には、母の訓とうというものはあったけれど、最初からそのことは朧気ながらも覚えられていたのです。
だから、神を求め、神の道を歩むことは、私の内的必然からだった、としか言いようがありません。
「神は、目には見えはしなかったけれども、現前したもうた。神は私の五感のどれ一つにも触れはしなかったが、しかし私の意識は神を知覚した」
(ウィリアム.ジェイムス「宗教的経験の諸相」/岩波文庫他)
私はここで何度となく、“神に意識を向ける“という言い方をして来ました。
いかにも、神という対象を思い描いて、それに意識を向けるというようなイメージを与えてしまうように...
しかし、それは本当は正確な表現では無く、ただ慣用的な言い方が思いつかないので、分かりやすくそう言ったまでなのです。
いや、対象的に向けるというのは、思いの世界のことなのであって、意識の世界には無いと言ってもいいのです。
この場合の“意識を向ける“という意味合いは、すでに意識的に知覚されているもの、ハタライているものを意識するというようなことなのです。
対象的に向けるというよりも、“向き合う“という方がいくらか伝わるものがあるでしょうか?
合う、すでにあるものに合わさるという...
これは、そういう原体験、原態に基づいていると言っていいでしょう。
つまり、最初から愛、平安、リアリティというものは意識下に覚えられていて、意識的になることによって、表層に喚起されるということなのです。それを“神が現れ臨む“、とこう呼んでいる訳ですが...
米国の哲学者、心理学者ウィリアム.ジェイムスは、その帯びただしい数の体験報告から成る、宗教体験、回心体験についての名著の中で、そうした意識の状態は、生まれつきのものだと言います。全くそうですね、私も原態と言っているくらいですから!...
人は、宗教と関わり、ある教えに触れ、ただ観念的にそれを理解し、礼拝行事などで、対象的に神を礼拝するだけで、あの神的な愛、平安、リアリティに与ることなど出来るでしょうか?
それは、正に意識下に息づいているものが、呼び覚まされることに拠るのでしょう。
それがどこで発現されるかは分からないのです。その教えに触れ、礼拝と関わることにおいても無いとは限らないし、何度そうしたことを重ねてもそうなる保証も無いと言えます。
ただ、自分の思いを超えて、超えたものがハタラくことがあるだけでしょう。
私は、自分からは神的なものとつながる道は開かれない!...それは不可逆なものだと言います。
それは、あくまでも思い、為そうとする自分“のみ“からは...ということなのであり、原初的な自己には当てはまらないでしょう。
“神と共にある、現臨にあることは、幸福なことなんだ!“...私には、母の訓とうというものはあったけれど、最初からそのことは朧気ながらも覚えられていたのです。
だから、神を求め、神の道を歩むことは、私の内的必然からだった、としか言いようがありません。
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