人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自然な神の道

2024-04-20 03:35:17 | 求道、探究
前回、私は思い、為そうとする自分からはそれを超えたもの、神に至ることは出来ない、そこには不可逆の関係というものがある、と書いたのですが、それではそういう道は全く閉ざされているのか?、と言ったら、そんなことは無いでしょう。
現に、それがどういう内容を意味しているのかはともかく、“私は神と出会った!“、という人は居るみたいだし...
しかし、この問題は、そもそも“神とつながりたい!“、という切実な願い、欲求が無ければ出て来るはずは無いと言えるでしょう。
“お腹が空いた、もっと美味いものが食べたい!“、というところに食べもの、美味しいものに与るということが生まれるのです。
で、そういうものを求めるということは、そういうものに意識が向く、向けられるということなのではないでしょうか?”...これはごく自然なことであるはずです。
私はここで、何回、神に意識を向けるとか向けられる、ということを言ってきたことでしょう。最近では、この意識的な有り様というものは、そのように自動的、他動的と分けられない中動的なものだ、ということを言っています。
いや、だからこう...神に意識を向けるということは、自ずからパーッと思いがその超えた方に開かれることなんです!...(私だけか?)
私は多くここで、そのことを祈ることとの関連で言って来ました。祈ることは、言うまでもなく宗教的なことと関わることです。
では、宗教的な人間でないと神につながることは出来ないのか?...多分そんなことは無いでしょうが...(これは、逆に何故古来より人間は宗教と関わって来たか、ということについての答となるものではあるでしょう)
要するに、自分の思いを超えたもの、神を意識すればいいのです。
しかし、それは先のように、その気の無い人間にそういうことを向けても無理だし、無駄なことです。
意識する...ただ漠然と思ってたりすることじゃありません。
それがどうも掴めないようだったら、心から願う、望むと言ったらいいのか?
こういうことは、横から言挙げするだけ、ヤボなことですね?
そういう人は誰に言われなくたってやっているでしょ!...何を?って、だからやらされている、意識させられているはず!
神に至るには、まあ大体瞑想修行との関連で、色々とテクニックがあるのかもしれません。
それは、その内容にもよりますが、私はどうもそういうものに、“心から“という線のものは伝わって来ません。如何にも“考えました!“という感じがして!
だからか、私はそういうものに意識が向く、動くということはほとんどありませんでした。
ただ、とにかく“神は生きている、生ける神との出会い“といった言葉に接するだけで、理屈なしに心の高なりを覚えずに居られなかったのです。そういう心の中から促すようなものも感じていたのです。
心から神を求めるものには、神の方がほっとかないのでしょう!
そして又、そこに自分自身の本来性に帰るような、そうせしめるあるハタラキかけを感じるのです。
これは、けだし自然な秩序と言うべきものではありませんか?!




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