私が見えざる導師と呼んでいる、不可知の存在をハッキりとその現存を感じたのはあの真夏の夕刻でしたが、どうもそれ以前から何となく身に覚えていたようです。
その認識は時と共に変わってきました。
そもそものその端緒は物心付いたころに遡れるかも分かりません。
幼少の頃「お前にはいつも神様がついて守っているのよ」と母から諭され、いつの間にか私はおぼろげながらも「神は居るようだ」と認識していました。
生命の危険にさらされながらも不思議と守られたことも幾度かありました。
青年になってからもっと意識的に漠然とした神なるものを「守護の神霊」として捉え、より親密に接したいと思い始めたのは、何と言っても守護霊、守護神の存在を世に知らしめた、五井先生を知ったのがキッカケでした。
というより、私の心を神仏へと意識づけしてくれたのが、この先生だった言っても過言ではないのです。
それでも、宗教教団に対する不信感からその信者にはなりませんでしたが…
ある時、私は洗脳集団で有名な教団に付け回され、恐ろしくなって、もう無我夢中で祈り続けた事が有りました。
すると、生まれて初めて精神の変調?に見舞われました。
何か突如意識が飛びそうになって、路上にへたり込んでしまったのです。
その場は直に回復したのですが、一月ばかし何時又そんな事態に陥るか分からないという、不安定な状態が続きました。
その間、私は何か心の深くである種の「声なき声」が
心配することは無いよ、そのうち収まるから。」というニュアンスでささやいたように感じたのです。
やがて落ち着きを取り戻すようになって、この声なき声の促しをしばしば受けるようになりました。
この時分は何だか沢山気づきを受けたのですが、今から思うとどうしてそういう心境になれたのかが不思議です。
例えば、当時私の周りには超能力とかにハマっている人が結構居たのですが「ああいうのは回り道だ。迷いなさんな」
と自分に言い聞かせるような思いが突如浮かんだり…とかです。
そしてある書店の前で「ここにお前の求めているものが有るよ」との促しで、ふと手にした雑誌に小池辰雄先生の文章が載っていました。
それはキリストの福音が中心であるのは言うまでもないですが、ともかくその出会いから直接的な人生を一変させる宗教的回心というものが有る
という事を知りました。
もう一つその縁から先の超能力、前世と言った確証も無いのに、暗示を受けるように信じ込んでしまう傾向に疑問を抱き鵜呑みにしなくなりました。
そしてキリストか何かは分からないけれど、私にとって神的存在は守護の神霊という表現では限定出来ない、より実存的なものになっていったのです。
それから数年…それまで思い描くことでしか分からなかった、その不可知の命は現臨したのです。
その直前触れていたラマナ・マハルシの「神、導師、真我は同意語です」の言葉に頷かされました。
無限、永遠の命、それをここで神と仮定しますが、私はおそらく導き無くしてそれを実感出来なかったでしょう。
又真我というか、根底的な自己そのものについても同様です。
と言うより、もはやこの不可知の命、見えざる導師の側面がそもそもの私の根源的なもの、ルーツなのかも分かりません。
こう考えると、視点を変えれば、これらのことは全て見えざる導師の独り舞台と言ってもいいのです。
言うなれば三位一体といったところでしょうか?
いずれにせよ、私にとってはずっと知られざる神です。
果たして彼がベールをとって出現する日は来るのでしょうか?…
その認識は時と共に変わってきました。
そもそものその端緒は物心付いたころに遡れるかも分かりません。
幼少の頃「お前にはいつも神様がついて守っているのよ」と母から諭され、いつの間にか私はおぼろげながらも「神は居るようだ」と認識していました。
生命の危険にさらされながらも不思議と守られたことも幾度かありました。
青年になってからもっと意識的に漠然とした神なるものを「守護の神霊」として捉え、より親密に接したいと思い始めたのは、何と言っても守護霊、守護神の存在を世に知らしめた、五井先生を知ったのがキッカケでした。
というより、私の心を神仏へと意識づけしてくれたのが、この先生だった言っても過言ではないのです。
それでも、宗教教団に対する不信感からその信者にはなりませんでしたが…
ある時、私は洗脳集団で有名な教団に付け回され、恐ろしくなって、もう無我夢中で祈り続けた事が有りました。
すると、生まれて初めて精神の変調?に見舞われました。
何か突如意識が飛びそうになって、路上にへたり込んでしまったのです。
その場は直に回復したのですが、一月ばかし何時又そんな事態に陥るか分からないという、不安定な状態が続きました。
その間、私は何か心の深くである種の「声なき声」が
心配することは無いよ、そのうち収まるから。」というニュアンスでささやいたように感じたのです。
やがて落ち着きを取り戻すようになって、この声なき声の促しをしばしば受けるようになりました。
この時分は何だか沢山気づきを受けたのですが、今から思うとどうしてそういう心境になれたのかが不思議です。
例えば、当時私の周りには超能力とかにハマっている人が結構居たのですが「ああいうのは回り道だ。迷いなさんな」
と自分に言い聞かせるような思いが突如浮かんだり…とかです。
そしてある書店の前で「ここにお前の求めているものが有るよ」との促しで、ふと手にした雑誌に小池辰雄先生の文章が載っていました。
それはキリストの福音が中心であるのは言うまでもないですが、ともかくその出会いから直接的な人生を一変させる宗教的回心というものが有る
という事を知りました。
もう一つその縁から先の超能力、前世と言った確証も無いのに、暗示を受けるように信じ込んでしまう傾向に疑問を抱き鵜呑みにしなくなりました。
そしてキリストか何かは分からないけれど、私にとって神的存在は守護の神霊という表現では限定出来ない、より実存的なものになっていったのです。
それから数年…それまで思い描くことでしか分からなかった、その不可知の命は現臨したのです。
その直前触れていたラマナ・マハルシの「神、導師、真我は同意語です」の言葉に頷かされました。
無限、永遠の命、それをここで神と仮定しますが、私はおそらく導き無くしてそれを実感出来なかったでしょう。
又真我というか、根底的な自己そのものについても同様です。
と言うより、もはやこの不可知の命、見えざる導師の側面がそもそもの私の根源的なもの、ルーツなのかも分かりません。
こう考えると、視点を変えれば、これらのことは全て見えざる導師の独り舞台と言ってもいいのです。
言うなれば三位一体といったところでしょうか?
いずれにせよ、私にとってはずっと知られざる神です。
果たして彼がベールをとって出現する日は来るのでしょうか?…