人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

三位一体

2014-10-19 15:02:45 | ガイダンス
私が見えざる導師と呼んでいる、不可知の存在をハッキりとその現存を感じたのはあの真夏の夕刻でしたが、どうもそれ以前から何となく身に覚えていたようです。
その認識は時と共に変わってきました。
そもそものその端緒は物心付いたころに遡れるかも分かりません。
幼少の頃「お前にはいつも神様がついて守っているのよ」と母から諭され、いつの間にか私はおぼろげながらも「神は居るようだ」と認識していました。
生命の危険にさらされながらも不思議と守られたことも幾度かありました。
青年になってからもっと意識的に漠然とした神なるものを「守護の神霊」として捉え、より親密に接したいと思い始めたのは、何と言っても守護霊、守護神の存在を世に知らしめた、五井先生を知ったのがキッカケでした。
というより、私の心を神仏へと意識づけしてくれたのが、この先生だった言っても過言ではないのです。
それでも、宗教教団に対する不信感からその信者にはなりませんでしたが…
ある時、私は洗脳集団で有名な教団に付け回され、恐ろしくなって、もう無我夢中で祈り続けた事が有りました。
すると、生まれて初めて精神の変調?に見舞われました。
何か突如意識が飛びそうになって、路上にへたり込んでしまったのです。
その場は直に回復したのですが、一月ばかし何時又そんな事態に陥るか分からないという、不安定な状態が続きました。
その間、私は何か心の深くである種の「声なき声」が
心配することは無いよ、そのうち収まるから。」というニュアンスでささやいたように感じたのです。
やがて落ち着きを取り戻すようになって、この声なき声の促しをしばしば受けるようになりました。
この時分は何だか沢山気づきを受けたのですが、今から思うとどうしてそういう心境になれたのかが不思議です。
例えば、当時私の周りには超能力とかにハマっている人が結構居たのですが「ああいうのは回り道だ。迷いなさんな」
と自分に言い聞かせるような思いが突如浮かんだり…とかです。
そしてある書店の前で「ここにお前の求めているものが有るよ」との促しで、ふと手にした雑誌に小池辰雄先生の文章が載っていました。
それはキリストの福音が中心であるのは言うまでもないですが、ともかくその出会いから直接的な人生を一変させる宗教的回心というものが有る
という事を知りました。
もう一つその縁から先の超能力、前世と言った確証も無いのに、暗示を受けるように信じ込んでしまう傾向に疑問を抱き鵜呑みにしなくなりました。
そしてキリストか何かは分からないけれど、私にとって神的存在は守護の神霊という表現では限定出来ない、より実存的なものになっていったのです。
それから数年…それまで思い描くことでしか分からなかった、その不可知の命は現臨したのです。
その直前触れていたラマナ・マハルシの「神、導師、真我は同意語です」の言葉に頷かされました。
無限、永遠の命、それをここで神と仮定しますが、私はおそらく導き無くしてそれを実感出来なかったでしょう。
又真我というか、根底的な自己そのものについても同様です。
と言うより、もはやこの不可知の命、見えざる導師の側面がそもそもの私の根源的なもの、ルーツなのかも分かりません。
こう考えると、視点を変えれば、これらのことは全て見えざる導師の独り舞台と言ってもいいのです。
言うなれば三位一体といったところでしょうか?
いずれにせよ、私にとってはずっと知られざる神です。
果たして彼がベールをとって出現する日は来るのでしょうか?…
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聖霊のバプテスマ

2014-10-18 20:46:42 | 覚醒
以前、ある人から「貴方はクリスチャンですね。」と言われて驚いた事が有ります。
キリストのことも聖書のことも何も話さなかったにも関わらず、です。
おそらく、私が「上よりの力」とか「恩寵」と言った言葉をよく使うので、そのように連想したようです。
私は自分の意志でか、見えざる導師の意図でか〈多分両方〉特定の宗教信者にはならないつもりです。
でも、以前あるキリスト者のグループと接点を持ったのも事実です。
小池辰雄という先生の書き物を読み感銘を受けたのがキッカケです。
原始福音神の幕屋という特異な信仰集団が有ります。
その創始者手島郁郎先生という人が又大変なカリスマでしたが、この原始福音、幕屋ということを初めに提唱されたのが小池先生なの
でした。
この両先生はある時は協調したり、ある時は袂を分かちたりしましたが、ずっと朋友といった間柄のようでした。
共にキリスト教の観念化、形骸化に対し、「生命あふれる聖霊の次元へと回帰せよ!」と叫び続けたのです。
ことに私には小池先生の「私は信仰何てありません!」
信仰なンて言って信じ仰いでたってしょうがない!信交、神交です!」
「キリスト教にあらず、キリスト道だ!」
といった型破りな言葉に共感しました。
そこで強調されているのが聖霊体験です。
聖霊のバプテスマを受ける事とされます。
この事例を多く扱っている古典的参考文献W・ジェイムスの「宗教的経験の諸相」の中で、「生まれ変わった感じ」「世界が輝いて見えた」
といくつか例言が有りますが、これもある種の覚醒体験と考えて良いと思います。
ただ、多くのキリスト者は聖霊による洗礼を受ける以前に、キリスト教教理の洗礼を受けているのが普通で、どこまでが観念的理解でどこからが
実存的、体験的理解か判然としないところが有ります。(小池先生の教えは前記した様にあまりドグマチックでは無いですが)
これがゴッチャになるとどこか狂信的になるところが有ります。
又、あまりに奇跡的、超常的(異言とか)な事に捉われるのも健全ではありません。
小池先生は「十字架と聖霊は切り離せない」としばしば強調されていました。
私には長年理解出来ない事でしたが…
十字架と言ってもキリスト教に縁の無い人間には関係無さそうですが、自我性が砕かれること、私が前に書いた「エゴの頭打ち」と深いつながりが有るようです。
ともかく、「私は何かその聖霊というものを受けると人生が一変してしまうらしい」という事が念頭から離れなくて、その小池先生の集会に飛び込んで行った事が有るのですが、その時別段どうなってしまったという事はありませんでした。
そしてあの真夏の夕暮れを迎えて…
「あれは聖霊のバプテスマなのだろうか?」と考えたりしました。
だが見えざる導師は「我はキリストである」とは名乗りませんでした。
沈黙の声をもってしても…
何より私はその後キリスト者として歩み出したことは無いですし…
導師から開示されたのは、特定の宗教的なものではありませんでした。
それは言うなれば、宗教を超えた普遍的なもの、
神の国です。
いや、待てよ。神の国という事は…
そもそもイエスが言った神の国というのはああいうものなのか…
あれはイエスだったってことか?
確かにイエスしか無かったですけど…
(見えざる導師の項参照)
コメント (2)
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ワン・アンド・オンリーの道

2014-10-16 20:14:06 | 求道、探究
非二元の道ではおそらく知らぬ人は居ないであろう覚者にラマナ・マハルシという人がいました。
彼はもう半世紀以上前にこの世を去っていますが、まだ欧米では東洋の精神世界がさほど知られていない時代に、直接的な真我実現の道を説いた
実にワン・アンド・オンリーな存在でした。
その真我実現の方法でよく知られているのが「私は誰か?」とひたすらたずねて行くという、探究の道です。
私は実際に教示を受けたことなど無いのですが、やろうとしたことはあります。
しかし、根気が無いというか、続きませんでした。
多分やり続けることに依り、やがて対象が消え、純粋意識に導かれるのでしょう。
素人考えですけど、これには「やり続けよう」という意志的アプローチが必要かと思われます。
ラマナはこれとは別に真我実現に導くものとして、「明け渡し」という事を重視していました。
全託、おまかせ、です。
「全託って難しい」と言ってる人もいますが、そりゃあ、そうでしょう。
やって出来る人などおそらく居ませんよ!
これはこちら側の意志的ハタラキかけとは違って、明け渡せてくれるサムシングの存在が大前提となるはずです。
もし、何らかのアプローチを見出すとすれば、「祈り」的な何かでしょう。
非二元の道ではともすると、そうした自分以外の神を対象として帰依して行く道を「二元的」と決めつける傾向があるようです。
キリスト教とか聖書に基づく宗教はそのようなものだとか…
そうした宗教で必ずしも対象的に神を捉えているとは限りません。
マイスター・エックハルトとか神秘主義などと言われているのがそれです。
ここでは詳しく触れませんが…
一方では一神教を説く宗教からは神人一体などは異端だとか…おなじみの文句は繰り返されてます。
随分我々は又、東洋=一元、西洋=二元といった短絡的な区分けにも慣らされてきた感が有ります。
しかし、紋切型のそういう類のお話はおそらく、机の上で語ってるしか意味はないでしょうね。
今どの道を歩んでいようと、遅かれ早かれ「明け渡し」に導かれるはずなのです。
現実に何であれ実在に向かわんとする者にとって、
問題は一元だとか、二元だとかでは無い!
東洋だとか、西洋だとかでは無い!
結局は一人一人の問題に帰結せざるを得ないでしょう。
それがワン・アンド・オンリーの道です。

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個我と真我

2014-10-14 17:07:25 | スピリチュアル
近年、精神世界で急速に注目されている、アドヴァイタ~非二元の道では「個我は幻想である」と言われていますね。
まあ、今問題、悩みを抱えて苦しんでいる人には、本当にそう思えるんでしたら福音となるのは間違いないでしょうね。
苦しんでいる個我は無い=苦しみも何の問題も無くなる訳ですから…。
「何の誰兵衛」という諸々の条件付きの個我なるものは「幻想だった!それまでの人生は夢だった!」という事は、文字通り目覚めてみたら分かります。
そして、ではその事に気付いた当体は何か言うと…本当の私、真我ということになる訳ですね。
(これが又分かったような…分からないような…。)
ただ、この真我に気付くというのは、あくまで「自分と思っていたのは、そんなもんじゃなかった!」という認識によって示されるものであって、
「その実体はこういうものです。」と言って示すことは出来ないものですね。
何故ならば、この肉体的個体のような形、輪郭を持っていませんから…(少なくとも私にはそう認識された。)
それは空間的には、どこまでつながっているのか分からない、普遍性を帯びたもので、
固定的な空間では無い、超空間性とでも言うようなものです。
これを仮に横軸として表せば、縦軸としては時間的無限性~超時間性の中で生き通しているものが示されるのです。
何か如何にも観てきたような物言いですが、これが強烈な主体を持った私性とのつながりにおいて実感されるのです。
それは輪郭が無いので、どこまでつながっているのか分からないし、全体像も分かりません。
でも、だからと言って無限宇宙とか無限時間とかに自分が溶け入ってしまうというものでも有りません。
そこには何らかのハッキリとした形、輪郭でない際立ちが認められるのです。
これは微妙な表現になるのですが、そこにはある種の「個的顕現」といったものがあるのを私は疑う事が出来ません。
それが端的に強烈な「私性」というところから来る訳ですが、リアリティ感覚をもたらしているのもおそらくはそれなのでしょう。
個的と言いましたが、それは言うまでもなく日常的個我とは明らかに違うものです。
それは個的現れであっても、永遠なるものと分離していないのです。
言うなれば、そもそもの個我的なものの本体、出所と言ってもいいかと思います。
そして普遍性、永遠性といったものを際立たせているのもこの個的顕現でしょう。
よくワンネス体験などで「宇宙と一つになった」などと言いますが、自分が溶けて無くなってしまったら、そもそもそういう認識は生まれないはずで、この一体感をもたらしているのもおそらくこのものでしょう。
このものは無限なるものと個的なるものを結び合わせるのです。
玉城康四郎先生はこの辺の消息を「宇宙共同体であると同時に私性の極まり」と表現しております。
一人一人の人間は他に代えることが出来ない、掛買の無いものだと言われますね。
それは一人一人の内に独一無二の個の本源が有るからこそ言えるのではないでしょうか?
それはしかし、寿命が尽きたら消えてしまう個我と違い、永遠なるものと一つなるものです。
アドヴァイタの道のマスターたちは、そもそも何故物心ついた時から、我々はこの個我という大きなお荷物を背負って生きなければならないか、
ということについては多くを語ってはくれません。
その秘密もこの辺に存しているのかも分かりません。

非二元の道は面倒くさい修行や、ややこしい信仰をパスして、直接経験に導くという意味で実に素晴らしいと思います。
ただこの日本では根付かないんじゃないかと思いますね。
というよりこの国では突出した道は生まれ得ない。
八百万の道が百華繚乱している感じです。
これを言い換えれば、いいかげんな道と言います。…





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どっちも本当

2014-10-13 16:56:20 | スピリチュアル
よく酒場では「政治と宗教の話はするな!」と言いますね。
あと巨人ファンと阪神ファンは野球の話はご法度だとか…
議論の種になるからですね。
修羅場のような雰囲気を作り出さないためには、とにかく相手に対しお節介とか挑発をしないように心がけるのが大事かと思います。
こないだはブログで憲法第9条のことを書こうと思ったのですが、突如詩が生まれたので引っ込めたら、何とも脈絡のない文章になってしまいました。
イデオロギー的な事は書かないようにするに限リます。
有ったらいいか、無い方がいいかどっちがいいか分からないし…
宗教的な話は私はオチるところを知っているからいいですよ。
昨日書いたものでも、神は唯一なのか、多神なのか…
自己に内在しているのか、対自しているのか…
一体どっちが本当なのか?と訊かれたら
いや、どっちか一方が本当じゃないとイケナイのですか?と訊き返したくなりますね。
これは考えてみたら不思議な事です。
何でどっちかでないとならないんだろう…不定見なヤツだと思われるから?
そんなの言わせておけばいいでしょ。
これは一つの視点でしか見れず、その立場に拘るというところからくるのでしょう。
両方(別に二つの視点とはかぎりませんが)の視点が観えたら、
もう、「どっちも本当」と言わざるを得ません。
例えば、独立した個体の集合体のようなものが有って、別々のその集まりを観たら多様ですが、
集合体を一つのものと観られるというように。
(これは実際に感じたことです)
私が見えざる導師と呼んでいる存在?は最初、こちらの呼びかけに応答するように対自するものとして臨在してきました。
そして私の「明け渡し」の受け手となってくれたのです。
これが導師と呼んでいる所以です。
だがもっと意識が変容すると、真我というか私の本体の様になってしまいました。…
この存在は何か千変万化というか色々化けるようでした。
そしてキリスト教的、仏教的、神道的、…パースペクティブというか、実に普遍的世界を開示してくれました。
とにかく、あっちでは対立的な要素が全く無いのです。
この相克に満ちた世界に、あの世界が反映されれば…と切に思います。

もし、神を巡って議論が起きたらとっておきの言葉で黙らせることが出来ますよ。
私は試したこと有ります。
こう言うのです。
「神のことは神に訊かないとわからないでしょ!」
もっとも、周りの人は皆呆れた顔してましたけどね。…



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