人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

捉えられること、放すこと

2014-10-12 18:45:48 | ガイダンス
神と一体になりたい。
真理を体得したい。…
多くの人にとりそれは雲を掴むような話なので、その為のアプローチとしてまず知的に捉えられるような概念に頼ろうとします。
神は一神なのか、多神なのか、自分を超越した存在なのか、内在しているのか…
あるいは神など元々存在してなくて、宇宙に遍満した大いなるエネルギーといったものなのか?
そしてある程度、知的に輪郭が見えて捉えられるようになると、次はいよいよそれを体得するために方法論に頼ろうとします。
それには呼吸法やチャクラといわれる、体の一部に思念を集中するなど各種の瞑想法があるらしいです。
これはいずれも能動的というか、前にも書いたように捉えよう、掴もうとハタラキかけている試みと言えます。
しかし、いくら知的に納得したからと言って、例えば神は唯一神であるのが真実なのかどうかは分かりません。
唯一神教の指導者なら「それは絶対正しい。」と言うでしょうが…
又、ある瞑想法に依って真理を体得し、悟りを得られるに至るのか…どこにも保障など有りません。
私の場合、30年ほど前、人生の裏側の扉が開かれた時何かを捉えようとした訳ではなく、
捉えられてしまった、ということなのでした。
上よりの力によって。(この表現をよく使うのですが、実際はどこから来るのかは分かりません。これは思いを超えている、という意味合いです)
何かを為そうといたのではなく、そこでは全て成っていたのです。
何かを知ろうとしなくとも、示されていたのです。
全て捉えられることで分かったことです。
「何か得体の知らないものに捉えられるってのは…悪霊かなんかだったらどうするの?」
何人かの人に訊かれました。
「もし、悪霊だったらそれと共に地獄へ行くしかない!」と答えたことも有ります。
何しろ、捉えられるがままに任せる他道は有りませんでしたから…
選択の余地など無かったのです。
でもそれは暴漢かなんかに一方的に捕まるという事とは全く違います。
私は見えざる導師の促しにより「こうなってしまった」経緯を思い出したのです。
全て私自身が望んだことだという事を…
これは人生の表側だけの視点からでは、理解出来る事では有りません。
元々私はそういう世界を知っていたとしか説明が付きません。
これではしかし、益々雲を掴むような話になりそうですね。
アプローチと言っては可笑しいかも分かりませんが、少なくとも捉えられるに至る契機になり得るものが有ります。
それは同じく捉えるのではなく「放すこと」です。
取りあえず、今この瞬間だけでも既成概念も自分が出来ると思っていることもみんな放す!ことです。
放せなくっても、放す!のです。
出来ない?
出来る、出来ないじゃないのに…
それも出来ないのでしたら…
地獄へ行く覚悟さえあったら、何だって出来ますとも…
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平和の源泉

2014-10-11 19:08:42 | スピリチュアル?
今年のノーベル平和賞の候補に何と日本国民の名が挙がっていた、というではありませんか!
もし、受賞していたら私も貴方も受賞者になるってことなんですか?
あの喧嘩っ早い、オヤジも…
あの影でいつも何かたくらんでるアイツも…
日本国旗の太陽は善人も悪人も平等に照らすと言いますが…
さすがに「御冗談で賞」に終わりました。
しかし、そんなにこの国が平和な国と認知されていたとは知りませんでした。
確かにこうして自由に好き勝手にブログなんぞ書かせてもらってるし
何時戦火に巻き込まれかねないという環境からは、想像出来ない幸せな国なのでしょう。
平和であるのが当たり前すぎて、感謝の気持ちを忘れてはいけませんね。
それにしても、毎年数万とも言われる自殺者の数…
一体、何が悲しくて自ら命を絶ってしまうのでしょうか?
戦争が無いと言うだけで、平和と言えるのでしょうか?

ギッタン、バッコン
幸せになったり
不幸になったり
明日はどっちなんだろう…
もう天秤の様に生きるのは
くたびれたよ
いつの間にか
日も暮れて
世界が赤くなってきた
もう天秤の様に生きるのは
辞めにしよう
空があんなにも美しいから…

      (下照彦)

昨日の夕焼け空、ご覧になりましたか?
どんな名画をもってしても、あんな絶景は表せないでしょうね。
帰宅途中の新宿高層ビル街でなく、出来たら淀橋か中野新橋辺りの神田川沿いで見たかったなあ…
あの夕日はめったにお目にかかれない、特別な夕日です。
でも太陽は何時だって東から登り、西へ沈んでいくのです。
どこにも消えて行かないのです。
それは平和の源泉の象徴です。
幸福が有ったり、不幸が有ったりするのではありません。
そのものと共にあるか、どうかと言うだけなのです。
そのものと共にあれば、幸福は逃げて行きません。
境遇が何であろうとも…

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覚醒の一人歩き

2014-10-09 18:52:14 | 覚醒
学生の頃、理由も無いのに幸せな気持ちになり、感謝の気持ちが自然と湧き上がってくるということがしばしばありました。
年とると中々そんなことにはならないですね。
当時はまだ覚醒という表現はなじみが無かったですが、「何か宗教的回心といったものに出くわすと、人生が一変するらしい」という事が念頭から離れなくて「どうかその素晴らしい体験が有りますように」などと祈ったりした事が有りました。
その時それでどうかなった、という事は無かったですが、ずっと後になってその事を思い出すと「何てオメデタイ人間だったんだろう、私は!」と呆れ返る他ありません。
そのような得難い気持ちに預かりながらも、その上で何か特別な体験を求めていたのです。
それから数年後の昭和58年の夏、その突出した幸福の訪れが有りました。
私は、特別な宗教信者にもならず、特別な修行もして来ませんでしたが、何がしかの宗教的土壌によって育まれ、素養らしきものも身に付けていたのは間違いありません。
そうでないと、冒頭に書いたような気持ちにはまずならなかったでしょう。

最近スピ系で、世界的にも国内でも覚醒体験について盛んに語られている訳ですが、もしその体験そのものが一人歩きし始めるとなると、大変由々しきことだと思います。
私も無責任な事書いてしまったかなあ、と感じているところです。
前に「至福感の源、充足感の源にたずねる」と書きましたが、それが何かは敢えて書きませんでした。(言い換えると書きそびれました。)
神、キリスト、ハイアーセルフ…何でもいいですが、思っただけで有難くなってくるもののことです。
一人歩きとはその源から離れて、特別な体験というものに捉われ、追っかけていく事を指します。。
頭デッカチにただ分かったつもりになるのならまだいいとして、実際にぶっ飛んだ体験をしてそれに酔いしれたりすることになると、
それは麻薬中毒と大差有りません。
私はそういう傾向は人智を超えた領域に、自分の意志でどうにかしようというところから来ると思います。
私は得難い思いもしているのかも分かりませんが、救いようのないアホな事もしているので敢えて書いているのです。
「世界平和の祈り」の五井先生はこう言っています「守護の神霊の導き無しでは誰も悟れないのです。」と。
何もどっかの宗教に入る必要はありません。
ただ単にぶっ飛んだ体験をしたという事よりも、いつも有難い気持ちで居られることの方がどれだけ得難いものである事か…
そのような人には起こるべき時には、起こるべき事が起きます。
然るべき導きの元に…
もし、起きなくとも得難いものであるのは一緒です。
人智を超えた縁で結ばれているのですから…。
世界人類が平和でありますように。
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台風一過と地殻活動

2014-10-06 18:00:36 | 覚醒
今日、東京は朝から台風が直撃、横浜に上陸したと伝えられるや、瞬く間に通り過ぎて行きました。
そして急速に天気も回復し、何事も無かったように穏やかな日和となりました。
近所の野良猫、シロクロ三兄弟も無事でなによりです…。

台風、地震、噴火…目覚めの体験というものを、私はよく不謹慎ながら災害につながるような自然現象に喩えて語ることが多いのですが、
あの意識が別次元へと移行していく過程は正に、暴風雨に見舞われる様です。
ゴーッというような風圧のようなものも感じますしね。
そしてやがてそれが過ぎ去り、再びこの「なんてこたアない」日常に戻されてしまい、「ありゃあ、一体何だったんだろう…」
と呆気に取られてしまうところなど、ホント台風一過です。
同じように、そこに喩えようのない、至福感、充足感に満ちた目覚めの体験も、体験そのものに目が奪われると、それは一過性のものになってしまいます。
「ずっとあの至福に浸りたい!」と願う気持ちも、よーく分かります。
浮世はつらいですから…。
私の場合も、2,3日して元の木阿弥になった時、何とかあの喜びをもう一度と願ったものでしたが、ずっとかなう事は有りませんでした。
残念ながらすぐに「生まれ変わって、新たに開かれた人生」を歩む、という訳にはいかなかったのです。
それよりも当時の私に必要だったのは、「ついに悟ったゾ!」と有頂天になってる頭を冷やすことに有ったようです。
前にも書いた、人にこの体験の事を話さなかった、その理由というのは話そうとするとエゴの虫が活性化して頭がカーッとのぼせ上がるから、という事だったのです(笑)
自分の意志でか、見えざる導師の指図でか(多分両方)その事を封印してしまったようです。
それから実に十数年後の平成8年春ごろ、書店で仏教学者、玉城康四郎先生の本を読んで驚きました。
全く私の目覚めとそっくりな事が書かれていたではありませんか!
「呆然自失」「木端微塵」「喩えようのない喜びがムクムクと…」「どうやって家まで帰ったか覚えてない」とか数日して元の木阿弥になるところもそっくりです。
これが玉城先生の生涯最初の「爆発」の模様です。
この種の記述はほとんど読んだことが無かったので、まるで千人ものサポートを得たような気がしたものです。
それから片っ端から玉城先生の本を見つけては読んでいたのですが、平成10年の晩夏「目覚めとか悟りというものは個人に帰されるものでない、個人が悟る訳じゃない」という言葉に触れて「ヒャーッ、何だ、そうだったのかあ!」と何かがストン!と落ちたようでした。
「そうだった!思い出した!あの時、個人の私は傍らで事態を見物してて、呆気に取られていただけだった…
もし、この自我というもので、それを捉えようとすると、それはスルリと抜けて行くだけだ。
私の体験なんてものは嵐の様に過ぎ行くだけ…」
するとその気づきに対するご褒美だか、どうか分かりませんが、一過性のものでない、恒常的に感じられる有る感覚が芽生え始めました。
それは普段は目立たないものですが、どこにも過ぎ去る事無く常にあるものです。
それは言うなれば、あの至福感、充足感のそもそもの源です。
はかない至福や充足を求めるより、この源をこそ訪ねるべきなのです。
それは目も眩むような天よりも、全く目立つことの無い、我々の足元に有るようです。
その下には、命のマグマが活動してやむ事が有りません。
時に唐突に噴出して、その存在をアリアリと表すことも有ります。
貴方にもその兆しのような微動を感じませんか?…
コメント (2)
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エゴの頭打ち

2014-10-05 19:09:21 | 覚醒
「覚醒すると、大いなる、永遠なる生命と一体になれる。」
「無条件の愛を実感できる。」
最近、多くの方がそのようなメッセージを発信されているのは大変喜ばしいことです。
でもそこには案外、極めて重要な事が見落とされているように思われてなりません!
それは、その人生の裏側の扉が開かれた時、まず待ち受けているのは、
「今までの自分は、この圧倒的なリアルな現実の前では全く無力なものでしかない!」
「今まで数々の豊富な知識を蓄え、なんでも知ってると思っていたが、この無限の叡智の前では無知蒙昧に過ぎない!」
という事を思い知らされるという事です。
要するにペシャンコになってしまう、ということです。
それは貴方のそれまでの人生の終わりを意味しているのかも分かりません。
それは貴方がそれまで「こんなものだ」と信じていた世界の終わりを意味しているのかも分かりません。
その関門を突破するという事は、もしかしてちょっとやそっとでない、恐怖に苛まれるのかもしれない。
実際にどう感じられるのかは、皆さん次第で私には分かりませんが。
この恐るべき関門、脳天にハンマー!の如き試練はそもいかなる意味が有るのか?
それはズバリ、エゴの頭打ちです!
これは落雷の如き、上よりの力によって心身の機能がマヒすることによります。
よく考えてみて下さい。この無力さ、無知蒙昧さというものの実感は、無限なる、永遠なるものの全くの裏返しだということを!
光眩き至福の実感は、まさにこのエゴの頭打ちによってもたらされるものなのです。
リアル感といったものも、エゴが造り出したこの世の幻想が破られることによってもたらされるのです。
よく目覚めた人の話で「生まれ変わった感じがした」とか「世界が変わったように見えた」と言われるのもここから伺われます。
この頭打ちの無い、限界というものを知らないエゴが意識の拡大といった事に至った時、それはおそらくとても危険な事態にもなり兼ねないと思われます。
例えばモンスター・エゴが生まれるとか?
エセ教祖とか自称最終解脱者とかがたまに出てくるようですし…
次元上昇とか、より上方への霊的進化といったことに目が奪われて、停止信号を見落とさないようにする必要がありますね。
でもこのようなプロセスは上よりの導きによって為されるのが、多分普通だと思いますので心配ご無用でしょう。
先程はちょっと大げさに書き過ぎた感が有ります。いかにもそのような関門を通って、しかる後恩恵満ちた世界が開かれるような表現だったですが、
実際はその時差なんてものはほとんど有りません。
エゴの頭打ちに有ってる最中にも無条件の愛を実感し始めているのです。
裏返しと言いましたが、表裏一体的に感じていると言うべきでしょうか。
だから、「苦しそう、辛そう、怖そう」とか思う必要は多分?必要無いでしょう。
私の場合はそうでしたと言ったまでです。
頭打ちに会うと言っても、エゴはそれでなくなった訳では無いし…
ウソッパチだらけのこの世ともおつきあいしなければならないし…
でも私はペシャンコになった事をいくら感謝しても、し足りないないものを感じています。
もし、悟りというものが何かと言ったら、エゴの限界を知ることだとさえ思っています。
何しろビッシリとエゴで覆われた人生でしたから…
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