ここ最近、頭から離れない事が有ります。
実に様々な事が頭の中を駆け巡りました…。
”ウハハー、H!”、”エッ、ウソ、ホント…”、”可哀そう…”、”世の中一体どうなってまんねん…”
なんの話かって? ”週間金曜日”でH写真が流出してしまった某女子アナの件です。
そうです! 私は思われている以上に俗物なんです!
いつもなら、”フーン、くだらん!”で済んでしまうのに、どうしてこうなってしまうのか?
多分、私が思っていた以上に、このヒトにOOだったという事なんでしょう…(早起きなんです。テレビだけでは何が起きたかサッパリ分かりません)
今、このヒトには”人生は思われた通りのものじゃない…だから上手くやって…”と言ってあげたいです。
いつも、頭に何かの思いが引っかかってる人はなかなか悟れないでしょうね。
あらゆる雑念から自由でなきゃなりませんもんね…
だから精神的なものを求める人は、いつも終わることなき、又勝ち目のない戦いに明け暮れてます。
一体、どれだけその界隈で思考、マインド、自我への敵意の言葉が飛び交っていることか!
でも、生来から与えられているものには、何一つ悪いもの、必要の無いものは無いのではないですか?
そしてこういう状態に陥ることも必要有ってのものではないでしょうか?
ただ、そこには思考管理上の注意点が有ります。完全に思考の言いなりになって、密閉空間を作らないように、僅かなものでも空気の出入り口、通気口を作っておくことです。そこから何かがお出ましになるかも知れません
それを踏まえれば、絶え間なく去来してくる思考とトコトン付き合ってみてはどうでしょうか?
何である思いがもたげてくるくるのか? それはその思いに浸るのがもしかして好きなんじゃないですか?
”こんなバカバカしいことに捉われてちゃダメなんだ!”というのはあなたの気持ち? 世間がそう言うであろう意見、判断?…
どんなにくだらなさそうな思いにも、その根底にはとんでもないものが隠れてたりします。
これが思考の隙間から表に顕れた時、あなたの人生を変えてしまう事も有るかも知れません。
”考えていること”しか分からない世間では、パッと何かが閃いたとか、感じたことの無かった思いが突然浮かんだくらいしか認識されないでしょうが、そこには思考の根底にある意識の発露が有るものなのです。
それは事の善悪を超えて、無条件的なものです。
それが時折顔を見せた時、意味付け、判断などしないでただじっと味わっていたいです。
私は最近、探究の怨敵である思考、マインドについてこんな風に感じ始めています。
我々の隠れた深部で起きている、意識次元での分離(のように見えるもの)が、次元を変えてこの相対の現実で繰り返しているのではないか、と…
この次元差によって、不完全、歪み、淀みとして顕れているものが、そもこの思考なのではないでしょうか?
分離(のように見えるもの)とは何かが顕れようとする時の働きではないかと思います。
これは全ての創造過程と言っていいでしょう。
そして思考はその根底にある意識に根差してなければ、コントロール不能で暴走してしまうのです。
いや、もともとつながっているものなのに、完全に分離したものと捉えられてしまうのです。
これしかない、見えたままが全てで、なんでも思い通りにならないと気が済まない…
でもその奥には、どうあっても、こうあっても、自分が求め、希まずに居れない、という出所不明の思いも見え隠れしていないでしょうか?
それが本当のあなたの声ではないでしょうか?…
実に様々な事が頭の中を駆け巡りました…。
”ウハハー、H!”、”エッ、ウソ、ホント…”、”可哀そう…”、”世の中一体どうなってまんねん…”
なんの話かって? ”週間金曜日”でH写真が流出してしまった某女子アナの件です。
そうです! 私は思われている以上に俗物なんです!
いつもなら、”フーン、くだらん!”で済んでしまうのに、どうしてこうなってしまうのか?
多分、私が思っていた以上に、このヒトにOOだったという事なんでしょう…(早起きなんです。テレビだけでは何が起きたかサッパリ分かりません)
今、このヒトには”人生は思われた通りのものじゃない…だから上手くやって…”と言ってあげたいです。
いつも、頭に何かの思いが引っかかってる人はなかなか悟れないでしょうね。
あらゆる雑念から自由でなきゃなりませんもんね…
だから精神的なものを求める人は、いつも終わることなき、又勝ち目のない戦いに明け暮れてます。
一体、どれだけその界隈で思考、マインド、自我への敵意の言葉が飛び交っていることか!
でも、生来から与えられているものには、何一つ悪いもの、必要の無いものは無いのではないですか?
そしてこういう状態に陥ることも必要有ってのものではないでしょうか?
ただ、そこには思考管理上の注意点が有ります。完全に思考の言いなりになって、密閉空間を作らないように、僅かなものでも空気の出入り口、通気口を作っておくことです。そこから何かがお出ましになるかも知れません
それを踏まえれば、絶え間なく去来してくる思考とトコトン付き合ってみてはどうでしょうか?
何である思いがもたげてくるくるのか? それはその思いに浸るのがもしかして好きなんじゃないですか?
”こんなバカバカしいことに捉われてちゃダメなんだ!”というのはあなたの気持ち? 世間がそう言うであろう意見、判断?…
どんなにくだらなさそうな思いにも、その根底にはとんでもないものが隠れてたりします。
これが思考の隙間から表に顕れた時、あなたの人生を変えてしまう事も有るかも知れません。
”考えていること”しか分からない世間では、パッと何かが閃いたとか、感じたことの無かった思いが突然浮かんだくらいしか認識されないでしょうが、そこには思考の根底にある意識の発露が有るものなのです。
それは事の善悪を超えて、無条件的なものです。
それが時折顔を見せた時、意味付け、判断などしないでただじっと味わっていたいです。
私は最近、探究の怨敵である思考、マインドについてこんな風に感じ始めています。
我々の隠れた深部で起きている、意識次元での分離(のように見えるもの)が、次元を変えてこの相対の現実で繰り返しているのではないか、と…
この次元差によって、不完全、歪み、淀みとして顕れているものが、そもこの思考なのではないでしょうか?
分離(のように見えるもの)とは何かが顕れようとする時の働きではないかと思います。
これは全ての創造過程と言っていいでしょう。
そして思考はその根底にある意識に根差してなければ、コントロール不能で暴走してしまうのです。
いや、もともとつながっているものなのに、完全に分離したものと捉えられてしまうのです。
これしかない、見えたままが全てで、なんでも思い通りにならないと気が済まない…
でもその奥には、どうあっても、こうあっても、自分が求め、希まずに居れない、という出所不明の思いも見え隠れしていないでしょうか?
それが本当のあなたの声ではないでしょうか?…