人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思考を貫くもの

2015-09-21 09:51:14 | 意識、照明
ここ最近、頭から離れない事が有ります。
実に様々な事が頭の中を駆け巡りました…。
”ウハハー、H!”、”エッ、ウソ、ホント…”、”可哀そう…”、”世の中一体どうなってまんねん…”
なんの話かって? ”週間金曜日”でH写真が流出してしまった某女子アナの件です。
そうです! 私は思われている以上に俗物なんです!
いつもなら、”フーン、くだらん!”で済んでしまうのに、どうしてこうなってしまうのか?
多分、私が思っていた以上に、このヒトにOOだったという事なんでしょう…(早起きなんです。テレビだけでは何が起きたかサッパリ分かりません)
今、このヒトには”人生は思われた通りのものじゃない…だから上手くやって…”と言ってあげたいです。

いつも、頭に何かの思いが引っかかってる人はなかなか悟れないでしょうね。
あらゆる雑念から自由でなきゃなりませんもんね…
だから精神的なものを求める人は、いつも終わることなき、又勝ち目のない戦いに明け暮れてます。
一体、どれだけその界隈で思考、マインド、自我への敵意の言葉が飛び交っていることか!
でも、生来から与えられているものには、何一つ悪いもの、必要の無いものは無いのではないですか?
そしてこういう状態に陥ることも必要有ってのものではないでしょうか?
ただ、そこには思考管理上の注意点が有ります。完全に思考の言いなりになって、密閉空間を作らないように、僅かなものでも空気の出入り口、通気口を作っておくことです。そこから何かがお出ましになるかも知れません
それを踏まえれば、絶え間なく去来してくる思考とトコトン付き合ってみてはどうでしょうか?
何である思いがもたげてくるくるのか? それはその思いに浸るのがもしかして好きなんじゃないですか?
”こんなバカバカしいことに捉われてちゃダメなんだ!”というのはあなたの気持ち? 世間がそう言うであろう意見、判断?…
どんなにくだらなさそうな思いにも、その根底にはとんでもないものが隠れてたりします。
これが思考の隙間から表に顕れた時、あなたの人生を変えてしまう事も有るかも知れません。
”考えていること”しか分からない世間では、パッと何かが閃いたとか、感じたことの無かった思いが突然浮かんだくらいしか認識されないでしょうが、そこには思考の根底にある意識の発露が有るものなのです。
それは事の善悪を超えて、無条件的なものです。
それが時折顔を見せた時、意味付け、判断などしないでただじっと味わっていたいです。
私は最近、探究の怨敵である思考、マインドについてこんな風に感じ始めています。
我々の隠れた深部で起きている、意識次元での分離(のように見えるもの)が、次元を変えてこの相対の現実で繰り返しているのではないか、と…
この次元差によって、不完全、歪み、淀みとして顕れているものが、そもこの思考なのではないでしょうか?
分離(のように見えるもの)とは何かが顕れようとする時の働きではないかと思います。
これは全ての創造過程と言っていいでしょう。
そして思考はその根底にある意識に根差してなければ、コントロール不能で暴走してしまうのです。
いや、もともとつながっているものなのに、完全に分離したものと捉えられてしまうのです。
これしかない、見えたままが全てで、なんでも思い通りにならないと気が済まない…
でもその奥には、どうあっても、こうあっても、自分が求め、希まずに居れない、という出所不明の思いも見え隠れしていないでしょうか?
それが本当のあなたの声ではないでしょうか?…



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あなた自身の神の国

2015-09-20 12:53:45 | 哲学・思想
至(私)聖所というのは、他の呼称が分からないので、私が勝手に自己満足で、そう呼んでいるものに過ぎないのです。
モナドと呼ばれている哲学用語が、この概念に幾分近いものだと思います。
全体と分かれた単子でありながら、一個の全体であるというものらしいです。
神智学では神の分神霊と解釈され、神道でいう神の分け御霊と通じるものです。
ただこのような説明をもとにして、あるイメージから”ハハーン、そういう事なの”と納得されてしまっても困ります。
宗教や精神世界の手軽な教えを提供しようなどとは毛頭思っていませんので…。そしてこれもまた一つの観方に過ぎないのです…。

私は、それを何処までも無限に広がるあのワンネスの世界というか、一なる普遍調和世界と区別して表現しています。
従来の道では、こうした個を超えた領域についての言説は、表現は様々ですが、多くの類例が有ります。
だが、このもう一つの領域については、私の知る限りあまり見られないのはどういう事なのか?と思ってしまいます。私の場合が異例なのでしょうか?… 
さて、区別と言ってもあくまで便宜上のもので、本当は分かち難く結ばれ、重なり合っているものです。
同じものを違う視点で観ていると言ってもいいかも知れません。
まず、前者においては個人としての私は居ない!と感じられるのに対し、こっちでは”私しか居ない!”となります。
この世界は、宇宙は私なのです!
つまりそこでは、個的なものを強く感じさせるのです。
ただし、通常思われているような他から分離し、諸々の他の中の一つ、全体の一部のように在るのではありません。
何かの従属物でなく、それ自体が独立した全なるもの、全き主体として在るのです。
前者では、普遍性、果てしない横のつながりが感じられるのに対し、こっちでは永遠性、どこまでも生き通しの自己です。
大いなる意志のようなものは認められますが、起きる事が起きるように自分と関係無くあるのでなく、そこでは自由意志としてあります。
そこでは何をしようと、どう生きようと自由なのです。
ただそれも通常理解されているものとは全く違います。
(これらの違いは全て思考、思念、意念の限界内とそれを超えた領域との違いと言ってもいいです。)
そしてこの二つの領域には密接な連携、相即関係が有ります。
神の国を目の当たりにしたようなあの普遍性、調和性を強く認識させているのは何か? それは私が個的なものと結びついているからです!
微妙な分離感がそれをもたらしているのです。
強烈な独一無二の永遠の個なるものを、そのようにたらしめているのは…自己が普遍調和に根ざしているからです。
(こういう事は全く相反することなので、現実世界に合わせて説明するのはとても困難です。)
そしてこの個的な王国で成就されたものは、普遍世界にも反映されるのです。
大天国と小天国は一つのものなのです。

今日のようにあらゆることが行き詰って来ているこの現実では、神の国、地上天国の実現を夢見る人も少なくないですね。
”この世界をどうにかしなければならない…平和の社会を実現しなければ…又は何かの精神的な教えを広めねば…”と躍起になる人も少なくありません。
そして、平和社会、魂の平安をもたらすとされる指導者、団体に群がり続ける…
でも、あなた自身の平和、平安はどうなのか? あなたはいつまでも、指導者に従わなければならないのでしょうか?
あなたにはあなただけの神の国が有るのではありませんか?
あなたはあなたにしかなれない…あなたが幸福なら、せ界も幸福なのです…。












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意識の二つの扉

2015-09-19 15:42:33 | 現臨、ハタラキ
ベルジャーエフは意識には一義的なものと、二義的なものとがあるとし「第二の意識は主体と客体との意識の分裂と結びついており、認識しうるものを客体化する。第一の意識は本源的実在としての主体に沈潜している。」(ベルジャーエフ著作集第8巻わが生涯 白水社刊絶版)と述べています。
私はここに、人間存在の不可解さ、神秘の全てが隠されているように感じます。
そもそもはこの意識というものがそうなのです。自分自身、人生の事は勿論、宇宙、世界、歴史…我々を取り巻く全てはこの意識が造り出していると言えるでしょう。
この命の次くらいに重要なものが未だ多く解明されていないのですから、”これが真実!”と大手を振って言えるものなど無いに等しいと言わねばなりません。
この世の如何なる定説、法則といったものにしても、全て仮説の上に成り立っていると理解した方がいいかも知れませんね。
ましてこれが”唯一の真理!”などと宣う宗教やスピ系のご託宣など、カルトという名のオリの中でしか通用しそうにありません。
私の言ってることは例外…では勿論無いです…。
ベルジャーエフが言っている第二の意識は、単純に思考、マインドと結びついた分離意識、自我意識と捉えられがちですが、私の理解ではそれらが生まれるに先立つもっと根底にある機能と思われます。言わば思考の出どころといったところでしょうか?
非二元の教師たちは、分離意識を消して個人を消すとか平然と言ってのけるようですが、思考の領域の奥にある意識の次元は、意念でどうにかなるものではないのです。(ロボトミーとかの手術でしたら保安施設へどうぞ!)
私はこの原初的な分離?した領域(これは先の第二の意識のことなのかははっきりわかりませんが)に全く日常的、分離思考から逆に(というか、この世に生きている人間は、全てこのプロセスを通らざるを得ないのですが)入り込むことが有ります。
それが”上よりの力に捉えられる”と呼んでいる状態です。あたかも落雷に会ったように、天来の閃光が自我の扉を開けてしまうのです。でも、そこで自分とその現臨して来るものとが全く別々になっている、二つになっているかと言ったら違います! それが原初的意識と思考の領域との違いです。
そこには分離しているように感じられても、それと同時に一体になっている感じも強く有るのです。二にして一つなのです。
ここからこの現実世界を改めて見るならば、分離だとかワンネスとか二元とか一元とかいうのは、全て観方、感じ方次第なのだ、という事が理解されてきます。
では、ベルジャーエフが言う第一の意識はどうなのか? これはまた第二の扉が開かれて、火山噴火の如き上昇にのまれて、自分はそれと一つになってしまうのですが、私は居なくなりません。居なくなったらこういう事は決して言えません。ワンネス・エネルギーと一体になったとか、大海の中に消えたという事ですら言えるはずが無いのです。ユーレイならいざ知らず…
このような記述が出来るという事はそこに何らかの認識が有るという事なのです。それが超自然的認識と呼ばれようとも…
そこに私が居なかったら覚えちゃいないし、そもそも生まれてきてなどいません。
ただ言える事は、それまでの主体が個人としてのものから、この途方もないものに移行する、ということです。
そこでは成程、”私は居ない”と感じられるのは確かです。それでも個人は消えません。何かオデキのようなものとして全体的なものにくっついている感じです。
このワンネスとか普遍調和世界はどうして、それが強烈なインパクトとしてもたらされるのでしょうか?
それは分離感からでしょう…(私はまだここでは、そのことと関連した至(私)聖所というものには触れていません。それは別の機会に…)元々私が無くて、一なるものと溶け込んでいたら、どうして感じられるのでしょう。
逆に完全に分離された状態からも認識は出来るはずが有りません。完全に一なるものから分離した状態は幻想というのは確かな事でしょう。実在出来ません。
認識というものは、そのものが自分に有るから出来るのです。
やはり、すべては観方、感じ方次第なのでしょう。
そもそも何故、こういう事になっているのか?神のリーラ? 私にわかる訳無いでしょ!
でも、私は物心ついた時から心のどっかで希んでいたことがあります。
それは…”愛というものを知りたかった…”という事です…。それが今の私の感じ方です…。




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人格と主体

2015-09-17 12:01:03 | 哲学・思想
「人間の人格は世界よりも神秘である。」ベルジャーエフ

人間てほんとに中途半端な生き物だと思いませんか?
人間以外の動物でしたら本能とか摂理のままに生かされているのに、なまじっか自由意志みたいなものを与えられているだけに、”生きる意味とは?”だとか”ちゃんと自立して生きる”とか”何かからの依存から離れる”ことなどで、頭を悩まさなければならないのです。
人間一人、生まれるということは、正にこの世に”生れ落ちた”と言った方がピッタリなのではないでしょうか?
何か中途の段階で偶発的に、誤作動かなんかでポコンと出てきてしまった、という印象です。
そして他の動物と違って一丁前になるのに時間がかかるので、その間はもうあらゆるものに依存しなければなりません。
民族、国家、家族、学校、友人関係…依存というか、こうしたものに依拠せざるを得ないものです。
でもただ流れのままに、受動的にそれらに任せていたら”その人生一体誰が生きているの?”ということが、考える人には問題になってきます。
そこでよく言われてきているのが”主体性を持って生きましょう…”ということです。
でも、一体主体性ってなんでしょう? 人間は物心ついてから、先述の諸々の要素に依拠して一応、独立した人間っぽいナリをしているだけです。
つまり見たままの人間からは、一体何がその人らしさ…つまりは人格的なもの、その主対的なものの根拠というものは中々見いだせないものです。
(プロフィールのような作文など見たって分かるものですか! そこにどんな裏面史が隠されていることか…)
だが、ある人と出会い、そこに何とも言えない、その人にしか見い出せない、強烈なキャラクター(造られらたものでない、天性のもの)、その人をその人たらしめている何か…というものは何人にも感じられることでしょう。
これはそもどこから来るのか? それは中途半端な感じで生れ落ちたヘンな生き物、依拠する諸々の付帯的なものの混成、他人が見た所謂”ああいう人、こういう人”の印象だけからは決して分からないでしょうね。
見える人間の裏には、見えない本当の人格的なもの、主体がある。
そうしたものを想起しないとおそらく説明つかないのではないでしょうか?
このより根源的人格、主体といったものは通常の”思われている、そうだとされている”それらとは全く違ったものになります。
何故、人間は一人一人、様相、性格、生き様がそれぞれが掛替えの出来ない有り様で在り続けるのか?
その出どころと思しきものを、私は至(私)聖所と呼んでいますが、これこそはこれまでの精神的、哲学的伝統でも今日流行の精神世界でも語られることの少なかった、秘教的なものの最右翼ではなかろうかと思います。
個人というものが何故在るのか? 何故この矛盾多き二元的現実を生きているのか? (これらのことは絶対に非二元からは何一つ導きだされ得ない事でしょう)本当のことを言えば、それらについてこの見えるままの、思われただけの人間が”こうである!”などと宣うのは僭越と言うべきものです。
それは根源的人格、主体が顕わになった時、自明なものとなる…いや、そのこと自体が”格”なるもの、主体なるものの働きと言えるでしょう。
私の理解では、主体とは如何なる諸々の諸要素、付帯的なものにも自由で、何ものにも依拠してないもののことです。
それ自身で生きて働いているものです。そしてそういう他のものと置き換えられない何ものかが、実体が無くて掴むことが出来ないが…確かに在る。
それは”私は在る”という意識と共に…人が通常言われている人格とか主体性というものは、この深みにあるものの部分的、不完全な表現と言えるでしょう。(そうでなきゃみんなスピ屋のカモにされるしかありません。)
見える実体としての私は仮現的であり、中途半端な部分的現れに過ぎません。半月か三日月のようなものと言っていいでしょうか?
本態的なもの在ってのものなのです。月が丸いというのは満月にならないと分かりません。
だから自分も、人生も思われたままのものでないのです…。







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The Other Side Of This Life 

2015-09-16 16:38:52 | 雑感
「秘密を知りたくないかい、君と僕の

僕はこれからどこへ行くのか分からない。何処に居るのかもわからない

でも、それは僕が送ってきた人生の裏側…」

(フレッド・ニール・人生の裏側ーThe Other Side Of This Life-)

このブログのタイトルは、たまたま私が一年前読んでいた手島先生の「人生の詩篇」という英詩講話を集めた本に出てきた、米詩人ロングフェローの一節から基調的なものが浮かんだ時、連鎖的に閃いた米フォーク歌手、フレッド・ニール作の曲名から来ています。
別に特別な意味は無いんですけど…
この歌手はあまり有名じゃないけど、ニルソンがカヴァーヒットさせた「うわさの男ーEverybody‘s Talkin,-」の作者としてご存じの方もおられることでしょう。
これは作者F・ニールの覚醒体験をもとにして書かれた…という訳ではおそらくないと思われます。(ドラッグでトリップしたとかならあるかも分かりません)多分フォーク・シンガーの定番である放浪に関連したことを歌っているのでしょう。

このブログは、余程の物好きにしか目に留まらないであろう、マイナー指向のものですが、自分で言うのもおかしいですが、実に画期的なものです(自己満足の極み)
私はほとんどこれまで自分自身のことを語ったことが無いですし、有ってもごく断片的なものに限られ、ベールに包まれたものでした。
私の精神的な歩みについてそのすべてを語り出したら、読まれた方ならお判りでしょうが、実に混み入っていて迷路にハマりそうです。
全部を、ありのままに話すと”ワケが分からん!”と言われそうなのは、目に見えているので、(事実幾度か誤解を与えてしまった事が有ります。父は私を大本教信者だと思い込んでいたフシが有りました。またある人から私がフリーメーソンリーだと疑われた事が有ります。それについて見てきた様に話しただけなのに…そして誤解している人間の言い分は”隠さなくっても分かってんだから”です。いやはや人の思い込みというのはこわいです)その時浮かび、その状況に応じた断片的な事を、ベールに包んで話すしかなかったのです。
まあ、どの道”ワケが分からんヤツ”なんですけど…

どういう音楽を聴いているのですか?という話題でも、ありのままを伝えるとマイナー過ぎて話が凍結するので、私はいつも表面(A面)―スタンダードなもの、コンテンポラリーなロック、ポップスなどと、裏面(B面)ーアザーサイド音楽館のスタンダード?とを使い分けるという世渡りの術を使うようにしてます。(裏面の方が本音だ、という事は一概には言えません。)
要するに私を知る人にとって、私は”裏に何かを隠しているに違いない!”と思わせる人間なのです。
そして、何十年も秘されてきたことが日の目を見た!これは歴史的事件、”シタテルヒコの変”か!…決して公的プロフィールでは語られなかった、あの謎の私の関西落ちの件も…
それがどうした?…別に…どこにでもある個人的ストーリーの一端ですとも…
でも、こうしてこの断片的なものをつなぎ合わし、覆いが徐々に取り払われても、私の全貌はまだ明らかにはされることはありません。
私が何を語ろうとも、見えたままの人間が、形ある言葉を通じて語っているだけだからです。
本当の裏側はその向こうにあるのです。
ただ、こうして書いていると、実にワクワクしてきます。
ある見えないところで進行中のなにかを象徴的にやらされているような気がして…
本当の裏側はあっちの住人によって開かれるのです。
どの人もみんなユニークでへんてこりん…夫々の人生の裏側の幕開け…
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