人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

目の付け所を間違えるなi

2019-02-19 12:02:38 | 求道、探究
このブログを始めた当初こそ、少し非二元の道のことを意識していたことがありましたが、私は別に一元とか二元に拘って書いている訳じゃありません。
非二元系スピとか二元系スピという風に、図式的に捉えようとする人も居るようですが、そういうのは多分頭の中にしか存在しないでしょう。
その他もっと宗教的だったら、一神教、多神教、理神教...ああ、メンドクサ...
如何に高尚そうな教え、役に立ちそうなメソッドなどがあっても、本当に目を付けて置かなければならないことはそういうものではないでしょう。
こういうことにずっと拘り続けているということは、自分をいつまでもOO教徒、OO主義者といったものに従属させているだけで、本当にそういうもので、言い表せない、分割など出来ないものに向き合おうとしない心的態度という他ないでしょう。
本当にホントーそのものというのは、そのある側面、ある部分だけを切り取って表すことなど出来ないものです。
それは絶えることのない、生成であり、創造であり、"すべての生きているものというのは、そのものと共にある"、と言ってもいいくらいのものなのですから...こういう説明自体が先の通弊に従っていることなのかもしれませんが...
こうした分離が始まることで、意識がそのものから切り離されてしまいます。
それは先の理由から意識は平板なものとなり、枯渇が始まるということです。
そして終わることの無い戦いに終始し続けて行きます。
私がしばしば言っている、"信仰のための信仰"、"修行のための修行"、"悟りのための悟り"とはこういうこととつながっているのです。
"それは神と切り離されるものでは無い!"、ということになりますが、神というのがこれ又、何の神を巡って同じことの繰り返しになりかねません。
だから"あなたの神"に聞くべきなのですi 何? "神は私の中に居るのですね?"って、そういう信者になってもしょうがありません。
どうしても、人は思われた自分に取り込もうとしてしまうようですね。
自分が分かろう、自分が為そう、自分が到達しようと...
私はここで、いくら頭で考えても分からないことを書いているつもりです。
聖書を紐解いても、祈っていても何でもいいです。(私はここで"ある宗教なりスピなり、修行なり自体を否定している訳じゃありません。それは又、別の"特別でないある道"への固執というものです)
もしそこで、理屈無しで言葉を超えたものに惹き付けられてしまう事態というものがあったとしたら、頭で理解出来ますか?
そうなってしまったら、自分が何を為すとか、到達しようとする発想が出てくるでしょうか?
あるいは又、訳のわからん神にたぶらかされているかも分からないから、もっと理性的になって何か分かってから出直すつもりでも...
そこで愛とリアリティというものに与っていたとしてもですかi 神は一分だって待っちゃくれません。
神は永久に賢いつもりの頭には訳のわからんものです。そしてその瞬間は一生あるかどうか分からないものだし、再び訪れる保証などありません。再び与るためには、"OOのための終わりなき戦い"に明け暮れ続けねばならないでしょうか?
神の道は、思われた自分の側にすべてを置いときたがる人間には決して開かれないでしょう。
どこまでも、思いを超えたものに場所を譲らなければならないのです。
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好きでしているだけですから...

2019-02-18 11:03:23 | 雑感
昨日のある会合での対話から。

「あなたは人が知らない、取り上げない映画や音楽など沢山ご存じのようですが、そういう人の知らないものをいつも追いかけているのですか?」
「いいや、ただの物好きからしているだけです。若い頃は確かにそういうヒネクレた気持ちから追いかけていたこともありましたが、それは本当に自分が求めているものとはつながる訳じゃないですからね。ある時から"ただそれが好き、それに惹かれる"、という気持ちを大事にするようになったのです。世の中の声とかは関係無しにね」
「(小さい声で)それが既にヒネクレたことなんじゃないかなあ...」
「えっ、何ですって?」
「い、いえ何でもありません。ち、ちなみに最近観た映画で、面白かったのは?」
「昨晩、観た"多羅尾伴内"が面白かった。片岡知恵蔵、知ってる?」
「知らなーいi」
"知らない"というのは、これは映画では特に言えることだけど、世代の違いということが大きいのです。私と同世代の人でもほとんどの人は知りません。せいぜい"聞いたことある"という程度です。しかし、私よりずっと年配の人に聞いてみたら「勿論だよi 懐かしいね。"ある時は、片眼の運転手..."」とやっていたので、物真似をしてみたら...
その私よりずっと若いべっぴんさん「それ、喜久扇師匠の物真似ですか?」ときましたi
話は変わり「あなたは古いことを沢山ご存じのようですが、お若そうに見えますね?」(べっぴんさんからはいつもそう言われるんだi)
「いくつぐらいに見えますか?」(これはいつも聞くことにしてます)
「40代?、せいぜい50代かな」(フフフ...これを聞きたかったんだi)続けて「どうしたら、そんなに気持ちが若くなれるんですか?」
「僕は成長が停まってしまっているようなもので...僕は今でも例えばキレイな夕日を見ていると感動を覚える(キレイな人を見てると胸がときめく...)...そう感じなくなってしまったら人生も潮時かな、と思ってます」
「随分ロマンチストなんですねえ...詩でも書いてらしてるんですか?」
「ええ、そういう真似事をたまにしています。普段は散文が多いですが」
「どっかでそれを発表しているのですか?」
「ええ、まあ...(小さい声で)ここだけの話ブログを書いているのです。他の野暮ったいおっさん、じっさんらにはほとんど知られていません」
「散文てどういうことを書いているんですか?」
「う~んと...何て言うか..."人間も人生も人がそう見たり、そう思っているだけじゃない"...というようなことですよi」
「何だかよく分からないけど、是非読んでみたいですね」
「こういう騒々しい(急に場内にディスコ調のバカでかい音量で音楽が鳴り出した)ところじゃなくて、もっと落ち着いた時とかお見せしたいです。多分あなたは読んでも頭から何かが噴出したりはしないだろうから...」
「書かれていること、うんと世に知られたらいいですよね」
「いえいえ、そんなウケねらいで書いているんじゃありません。ただ好きでしているだけなんですから...」
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マントラ、コトバ、ロゴス

2019-02-16 11:51:36 | 祈りと瞑想
「ちなみに、筆者のダラニは、"自灯明、法灯明"である。まさに煩悩が起ころうとするとき、この語句を思い起こすか、あるいは単にそのイメージを思い浮かべるだけで、ただちに起ころうとする煩悩、我執から解放され、自己そのものが安息処に変わる。すると、そのままがダンマの独活.独用となる」
(玉城康四郎「仏教を貫くもの」/大蔵出版刊)

様々な宗教で、インド.ヨガでマントラと言われる短い語句を唱えたり、念じたりすることを伝えていますね。
仏教の「南無阿弥陀仏」の念仏や、「南無妙法蓮華経」の唱題などは、ダラニと言われる呪文、呪句が簡素化されたものですが、パッと言葉が出てくるだけで、意識が集中してくるなど、とても即応性が強いところがあります。
このマントラというのは、人によってどの文句が適しているかは異なっているので、いくら「これを唱えたら感応、霊験がある」からと人から勧められても、それが自分に合っているとは限らない訳で、押し付けがましい勧誘は有り難迷惑という他ありません。
ちなみに私の場合、数少ないそういう修法と接してみた限りでは、かなりマイナーですが、道院紅卍字会に伝わるいくつかの神呪なのでした。
私が割りとしっかり修行らしいことをしていたのは、40年くらい前、同会に入る前の見習い期間の三ヶ月間くらいで、ほぼ毎日その神呪を心に念じながら、公園やどっかの休憩所など場所を選ばず、同じく伝えられたその静坐法を修していたのです。
すると、決まってまず、ポカポカと手の辺りに暖かみを覚え、時にその周辺、全身へとそれが拡がっていく感じになったこともあります。
そして自ずと意識がある中心に収斂してくるようになります。
それは、神呪を念じることでそうなることが多いのですが、理由は何故だかよく分かりません。
こないだビルの休憩所で、久しぶりにそれを修していたら、同じように手がポカポカしてきまして、40年前とつながったようになりました。
この暖かみというのは、実際に温度が上がるのかも知れませんが、物理的な暖かさだけではありません。
これは心(多く意識も含む)身両面に関わるものなのでしょう。
ハッキリとは言えませんが、私が"意識を向けると、パッとなる"ことを覚えたのは、この修法と関係があったかもしれないのです。
ただ、そこから離れたところで起こる場合は、もっと意識が拡大するなど、意識的になっているとは言えます。
それはマントラを唱え、あるいは念じなくともそうなります。言葉が介在しなくとも、人為的な意志を超えて、身に覚えているためでしょう。
何て言うか、そうなった感覚が無為的に思起されることでそうなるのです。
思起するということは、原体験があることが前提だと思われるでしょうが、必ずしもそれは今生?でそういうものに与らないとならない訳でも無いと思います。我々は元々そういう覚えのあるものを持って、生まれてきているとも言えるでしょうから。
エンライトメントの体験などでは、しばしば今生で経験していないことが、意識の覚醒と共に思い起こされたりするのです。
そこには言葉を超えたーと言うからにはどう言い表していいか分からないですがーものが既に意識の内奥では知られているのです。
それはある契機で表顕された時、その思起となったりするのでしょう。この言語化される以前にあるもので、それが相対化される中で言語として表されるものを西欧で"ロゴス"と呼んでいるものだと思われます。
ロゴスは単純に"言葉、論理"という意味に解されるようですが、その"原態"というものが伝わらないと、聖書のヨハネ伝の"ロゴスは神なりき"などにある"神のみことば"は人間の言葉として置換されてしまうだけでしょう。
マントラは、こうした未分化以前の"原言語"と共にあってこそ、生きたものとなり、原言語が表に伝わったならば、形としてのコトバを介することも必要ではなくなるものでしょう。
玉城先生の"自灯明、法灯明"なるものも単なる言葉以前の響きが感じられます。
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優しい日光に照らされながら

2019-02-13 03:59:17 | 意識、照明
このところ一寸考えることがあって、こないだ内省というか、フツーに自分自身のことに向き合おうとしてみました。
これを修行的な人はもっと意志的に、自己観察とかヴィパッサナー瞑想と言われているような行に取り組むのでしょう。
しかし、私の場合決まって意志的にそうやろうとすると、自ずとその意志的、随意的ハタラキにストップがかかってしまいます。
あまりその事を意識したことは無かったのですが、明らかにストップがかかるのです。
そして何だか心身共に拡がり、弛緩したような感じになり、内省しよう、自分を観察しようとする意志的なハタラキが、自ずと自己を超えて観照するものに明け渡されるのです。
私はそれを仮に"照明"と言っている訳ですが、実にこのものが立ち上がってくる時、そういうことが起こるのです。
そこで何をするのか? 為すべきことは何もありません。
ただ僅かな意識的な動きがあります。この意識的なことは意志的なものと区別して言っているのです。
それは意志的に、人為的に"動かす"ことに先立つ、無為的に"動く"感じのものですが、それでも"神の手がかかる"ような、為す術が全く無くなる事態というものよりも、大分ユルい感じのもので、全く受動的になってしまう訳でもありません。
ただ、それについて観察したり、考えたりすることは難しいです。受け入れる、ゆだねるだけ...ただ感じることは出来ます。
"じんじん"と...
そしてある気になっていることがあると、そこに光が当たるように感じます。これが意識的な動きに関わることですね。
そこでどうこうすることがある訳でなく、光が当たるということが肝心なことなのです。
それにより、あるインスピレーションみたいなものが与えられることもありますが、ずっとその"お照らし"を受けているだけでもいいのです。
それは、愛、平安に包まれることだから...それ自体が癒しともなり、自分自身を取り戻すという感じに導かれます。
私はこういう事をずっと昔から身に覚えていたのですが、意識的に自覚するようになったのは、15年秋、自己観察、自己観照を重視しているエンライトさんのブログを読んだことがきっかけで、優しい日光の照らしに浸っている中、気付かされたのでした。
エンライトさんの記事には、"純粋観照"といった表現で、ハッキリとこの無為的な観照のことを伝えています。
これは実に見えない導きであり、現臨が臨むことであり、思いを超えることであり、神と共にあることとつながることなのです。
このことで先ず何が示されるかと言えば、"自分が生きている、ということより先に"生かされている"ということ...そして"生かされている私はここに居る"ということです。
この事は本当にあの40年前、私が意識が遠退き、精神錯乱に陥りそうになった時、そのものが臨み、小春日和のやはり優しい日の照らしに浸っているうち、その"お照らし"を受けることで実感されたことだったのです。
これは、もっとシンプルに太陽の光の恩恵を思い浮かべ、それを自分自身のこととして、自分の内に深めてみれば、自ずと示され、頷かされてこないでしょうか?
そうして祈り心地でいたら、いつのまにかこの見えざる日照が芽生えてくる...かもしれません。
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小鳥の自由

2019-02-11 11:29:22 | 独語
私は動物を飼うのに、オリやカゴに入れたり、鎖でつないだりすることがどうしてもイヤだ。
世話をするのがメンドクサイからなのかもしれないけど、あのショボンとした顔して"出たいよ~、離してくれよ~、自由になりたいんだよ~"何て訴えかけられりすると、つい...
犬を飼っていた時など、幸いあまり家に帰ってこない、うるさいオヤジ以外家族全員ズボラだったので、放し飼いにしていたくらいだ。
これでメンドクサそな訪問者の相手をする必要もなくなるし。
その"ポチ"は、庭をところ構わず駆け回っていたものだが、度々柵を破って外へ逃走していた。
もっと鉄を廻らした頑丈な柵に替えてみたのだが、ポチは柵の下を掘って、トンネルにして脱走を謀っていた。
ポチときたら「大脱走」のスティーブ.マックイーンみたいにいつも脱走に執念を燃やしていたものだ。
そんな我が家にある日、一羽の可愛いインコが迷い混んできたことがあった。
全然逃げる素振りがない。人懐こい。
どっかで飼われていたのだろうけど、主が分からないので、そのまま自由に居させてみた。
いつもチョンチョンとサイドステップするように動いている。
飛べないのかな? 否、どういうわけか家族が"エサにありついている"時だけ、"ぱた、ぱた"と部屋中飛び回ってる。
"くれ、くれ"のアッピールなのだろうか? ご飯粒あげてみたら、"ウマイ、たまらんi"と、そのちっちゃい目を細め、恍惚の表情を浮かべたかと思うと、すぐうっとおしそうにクチバシを柱などに擦り付けてその粘着質を落とそうとしていた。
いつも"ぴーぴー"鳴いているので、"ピーコ"と名付けられた。
我が家にはもう一匹先住者が居た。小鳥の天敵ネコの"ミーコ"である。
ピーコは特にミーコを恐がってる様子は見せないが、ミーコの方はどうも当惑している様子だった。
虎視眈々と例の邪悪な目付きを時折見せて、じーっとピーコから目をそらさないのだが、私の方をチラッと見て"ねえ、ねえ、あれ襲いかかっていいのかなあ...食べちゃおうかなあ...でもなあ..."、と、何か思案しているようだった。
そして唐突にミーコに向かって"ぱた、ぱた"と飛びかかろうとすると..."やばっi"
ミーコは一目散に逃げるのだった...。
よく考えたら、この三匹たちはみな迷い込んできたのである。自由に居させて、いつのまにか居着いてしまったのだ。ミーコの先輩の先代のミーコなどは自由に、どこかへ行ってしまった。
そしてピーコも又僅か一週間くらいで、どっかへ行ってしまった。
飼い主のところへ戻ったのだろうか? それとも野生に? あんなに人懐こかったら、生きて行くのは大変だろう...
それとも自由に外へ飛び回りたかったんだろうか?
小鳥に自由意志があるのか、どうか分からないけれど...人間なら"そんなんは無い!"と言うだろう...
小鳥に、犬に、ネコに聞いてみなければ分からない..."ぴー、ぴー"、とか"わん、わん"、とか"にゃー、にゃー"しか言わないだろうけど...
もしも、ただすべてが決められている、摂理のままに生きているだけなら、何が自由で、何が救いかも分からない。
"自由だ、救いだ"と感じなければ何の意味も無い。
ただ例えば、ネコの気ままさを見ていると、人間どもが言っている自由など、コンピューターか何かでデータとして出されたものみたいに思えてくる。
自由の何かが保証されでもするのだろうか? 保証された、予め決められた自由など一体どこに自由などあるだろうか?

動物たちに自由が、救いがあるのかどうか分からないけど...オリに閉じ込めたり、鎖につないだりしたくはない。(飼うんならネコがいい)
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