人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

直接的な道

2019-02-10 11:57:57 | 求道、探究
私が所謂ノンデュアリティに幻滅を覚えたことの一つは、例えばそのブームの立役者阿部敏郎さんのブログのコメント欄に、阿部さんへの"お追従"的な内容のもので溢れかえっていたのを見たからでもありました。
ノンデュアリティのある在り方の一つとして、"ダイレクト.パス"と形容される言葉があります。これは"直接的な道"という意味で、このこと自体、現代という時代相に、そういうものが現れたことの意味合いを伝えるもののように感じます。
それは、これまで我々の前に数多の思想、宗教、修行法というものが設えられ、それらに依拠して神なり真理なりに到達せんとすることが当たり前のように考えられてきたものが、その間に何ものをも介在させることなく、自己と対象とされるべきものの二元性の無い道が現されたということです。
しかしながらこのダイレクト.パスにも又、二元的な教えへの敵視などに、その説かれる"非二元的な教え"への固執、囚われも見受けられるのです。これが私が幻滅を覚えた主たるものだった訳ですが。
"非二元的な教え何てのは無い"という観方もあるでしょうが、囚われてしまうこと自体の中に既に自己と対象との二元性が横たわっている訳で、今までの"ある相対的な教え"に依拠しようとする在り方と何ら変わらないものがあるのです。
そういうものは結局は流行に肖ろうとしたエセ非二元の道、エセ直接的な道という他ありません。
こう言えばあることが見えてこないでしょうか?
直接的な道とは、非二元であれ、二元であれ何が説かれ、何を信奉するかということじゃないのです。
それは、全くもって我々の心の姿勢というか、意識の在り方と関わっているものなのですi
他人の言説に容易く迎合してしまう在り方とは、全く相容れられない道なのです。
あなたの前には追従するべき何ものも、守り、固執するべき何ものもありません。
全く他の何ものでもない、私やあなたにしか開かれることがないのです。
それについて、あなたが頭脳知によっていくら考えても、あなたに直接開かれることはありません。
所謂非二元の道では、平然と"私という個人は居ない、起こることが起きるだけ"といったことが説かれています。
成る程、そういうことを実感することもあります。
しかし、それは私が"思いを超えたものにあって"、そう感じることが出来るのです。
この事が抜け落ちてしまえば、我々は頭脳知で"私は居ないって、じゃ、こうしてしょーむないこと考えてるのは誰だ?"とか、あれこれ考え巡らすしかないのです。最初から考えようとしない人は"アベちゃん、アベちゃんi"、と連呼し続けるしかないでしょう。
非二元の道とは、本来我々を取り巻く諸々の思いから離れることを、よりダイレクトに示すものであったはずです。
然るに、あのコメント欄に飛び交っている言葉から感じられるのは、もう息が詰まるような、どこにも行き着かない思考の群れみたいなものです。あまりにも不毛な言葉のキャッチボールが多すぎやしないでしょうか?
結局、とりつくシマの無いことを頭脳知で考えてしまうしかないことを物語っているように感じます。
どこにも行き着かないことを考えるより先に、真っ先に知らなければならないことは、この私をかく在らしめているものは何かということではないでしょうか?

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みんな救われる?

2019-02-09 11:50:21 | スピリチュアル?
阿部敏郎さんの過去記事を読みたいと思ったのは、故.エンライトさんの遺稿をブログでリリースされ続けている、その実妹さんの美雨さんの最近の記事に触発されたものですが、そこでの阿部さんに対する検証内容とは別に、私自身が感じたことを書いているまでです。念のため。

14年の夏、阿倍さんとエンライトさんのお弟子さんでもあった、やはり故人になられた、さくらさんこと光速かんながらさんとの間で起きた論争は、阿部さんが"死んで迷っている霊(生きてる人でも迷っていたら一緒だと思われますが)でも、誰でも死んだら光の世界へ行ける"、と決めつけたことを述べたことから、かんながらさんが反論したものでした。
阿部さんは、それを弁証するような記事でも「あなたは最初から救われています。死んだら全員が大いなる源(本当の自分、光の世界)へ帰ります。だから安心して下さい。これは気休めでなく、事実です」と結んでおりました。
えーっと...何で一個人(安心して下さい。そう言っている人が居るのですi)に過ぎないのに、すべての人類のことが分かってしまうのでしょう。
事実なのだそうですが、実証された訳(件のことは実証される訳が無い)でも無いのに何で唐突にそういうことになってしまうのでしょうか?
本当に救われているのか、どうかはその迷っている人なり、魂なりに当たって見なけりゃ何とも言えないでしょう。
ひっきょう"救われ"とは、当人が本当に"救われている!"と感じているか、どうかということではないでしょうか?
ここでは死後の世界、霊界、幽界などと言われている世界については触れません。
単純に私には、そういう方面を知覚する能力を与えられておらず、あまり直接縁が無く分からないのです。(ついでながらそういう私でも、いつも霊的ーこれは言葉の本来の意味でスピリチュアルなことですーなことを書いていると自認してますが、死後の世界とか霊魂のこととかは、上記の理由からほとんど書いていません。私はそれらのことを"心霊的なこと"と言って区別しているのです)
改めて考えても見えない世界(心霊的な意味ばかりでなく)に関することは分からないことだらけなのです。何で短絡的に決めつけることが出来るのでしょうか?
第一、自分以外の他人、その他大勢、"ん、何?全人類!"のことなど、何で知ったようなことを言わなければならないのでしょうか?
あなたはそういう定見を聞かされただけで、それに迎合して安心しちゃうのですか?
どうか、誤魔化さないで、あなた自身に聞いてみて下さい。
すると...あなた自身の神が答えてくれる...かもしれない。

私自身は"たとえ、上部の私がどんなに迷っていても、苦難に陥っていたとしても、私は根底において救われている!"と実感したことがあります。
そこには如何なる迷いも苦しみも持ち込むことは出来なかったのです。如何なる思いも超えられていたから...
ただ愛、平安というものはあります。それは実に思いを超えて原初的にあるものだから...
だからと言って、このことはすべての人に当てはまると私が述べてしまうのは、全く僭越なことと言う他ありません。
このようなことを実感したのは、実に私に現臨が訪れ、神的なものと共にあったからです。
安部さんがあのように述べていたことも、おそらくこうしたものに与った実体験からだったと思います。
誰でもが、根底において神的なものとつながっているとは私も感じているとはいえ、すべての人がそういうことに導かれるのか、どうかは結局は分からないのです。人間には、この本源的なものへの回帰を望まない自由というものもありますしね。
しかし、その本源の方から我々に現れようとする意志みたいなものを、先の時にも、今もずっと感じていますが...
それでも、思いを超えたもののこととて、その有り様のことはやはり分からないのです。
事実はどうなのかは知らないけど、すべての人が救われればという願いはありますが、考えも、行いも及ばないことは、結局はどうでもいいことなんでしょう。

「世界や人類のことは神が面倒みることだろう」(ラマナ.マハルシ)




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私はちゃんとあるi

2019-02-08 11:33:53 | スピリチュアル?
悟り系スピの人気ブロガー阿部敏郎さんの、14年4月26日の過去記事にこんなことが綴られていました。その大意...

"「神はあなたを愛している」
あなたが何を感じ、何を考えているか、隠してきたことも、誤魔化してきたことも全部知っている...その上で神はあなたのことをどうしようもなく愛している..."
"この世に生まれることが最初の扉で、死んで行くのが次の扉。そしてその二つの扉の間にあるのが愛の扉。その扉を発見するために生まれてきたと言っても過言ではない..."
"何が起きてもあなたの存在は根底から救われている..."

阿部さん、もうこういう記事は書けない、あるいは書こうとしないだろうか...
私はとても共感を覚えます。彼はおそらく私と同じ頃こういうことを目の当たりにしていたのでしょう。
言葉に言い表されない、思いを超えたものの消息がシンプルに伝わってきます。
彼が与ったものは、私と同じ質のものだったのかな、と感じています。
ここには非二元、あるいは二元でなければならないと、特別な教えを立て、切り取られた真理というものはありません。
"これが究極の真理!"といった相対的価値判断も付加されていません。
こちら側が、真理が、境地がどーたら、こーたら、なんのかんのと物言いしているんじゃない...神が示されたことを伝えているのです。
神?...それは何と呼ばれようとこちらの一切を超えたもの...そもそもそういうものがここに臨んでこなければ、こういうことは起きてこないものでしょう。
阿部さんは元々ある面で、引き出しが沢山ある人で、その限りではマントラ瞑想とか、神社で"ワッショイ!"とか、引き寄せの法則だとかに関わったりするのもアリなんだろうな、と思います。多分"借りる"という意味を知っているのでしょう。要するに二元だとか非二元のヘッタクレなど無いのですi
ところが...
このすぐ後故.光速かんながらさんと、周囲の人を巻き込んでのネット上での論争が起こり、(あくまで私の想像ですが)それを通じてそれまであまり明確になっていないなかった自説?に、当時流行の兆しを見せていたノンデュアリティの教えを借りてより強固なものにし、そしてそれが又、あの抜き差しならぬノンデュアリティ路線に邁進させて行ったように思います。
これに加えてビジネスを展開する必要が生まれたことが大きかったのでしょう。
(私は同じ頃その道に幻滅を感じて離れて行きました)
ノンデュアリティというのは全く未消化なまま、我が国のスピ界に伝わり、ブームになってしまった(この現象事態私にはとても訝しい)感があります。
これは元々良くも悪くも雑然とした土壌を持っていた、そのブームの火付け人とも言える阿部さんのフィールドにあって、様々な矛盾、混乱が生まれるのも当然だったと思います。
それでも、私は阿部さんには、なんか方向違いなことになっているようでも、根源論などはどうでもいいけど、ずっと奥の方でずっと息づいているものが今もあると...信じたい。
そこには至福に与っている、救われたと感じている私がちゃんとあるi

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即天即魔

2019-02-05 12:00:39 | 雑感
"暖かい南風から厳しい北風に切り替わったら幸福は翔んで行ってしまうだろうか?"
...なんてことをウカツに書くもんじゃない...
昨夕の帰り道、突然それまでの季節外れの暖かい風が冷たい北風になった頃、用事を思い出し、一寸ばかし原付バイクを大通りの歩道に停めて戻ってみたら...駐禁のシールを貼られてしもうたi
"わ~ん、どうしたらいいんだよう~、財政ピンチだというのにい~、もう今月の不幸確定i...あの緑の爬虫類人種めi どうせ違反金は○暴関係の資金源になるんだろi 元刑事がそう言ってたんだから間違いないi "公共の正義のため"みたいな顔して、やってることは偽善じゃないかi 邪魔にならないように、ほんの20分ばかし停めてて何が悪いi...
何だか故.西城秀樹さんの歌のリフレインが聞こえてきそうだ..."ブーメラン、ブーメラン"

天候のことを始め、とても物事の移り変わりが激しいです。
私の気分も風向き次第みたいなところがありまして、とても悟った人のように不動心で居られるようには行きませぬ。
これは物事の変転サイクルがとても早くなってきた、ということを物語っているようです。
(私がいつも言っている"意識を向ければパッと..."ということもこの辺りの消息を伝えているのかも分かりません)
SNSでも、指一つで観たいもの、知りたいものにつながることが出来ます。
これはヴァーチャル世界のことにすぎませんが、それはそこに隠れた実相を映し出しているとは言えまいか?
スピ界隈でも言われているように、我々は直ぐになりたい自分になれる時代を向かえているのかも分かりません。
しかし..このことは明るく、ハッピー、ノーテンキなことばかりを見させてくれる、という意味にはならないでしょう。
我々はそう望めば、これといった努力無しでも、即真我、神的なものとつながることが出来るかもしれない。
だが、その一方我々は直ぐに真我に目覚めるどころか、自分が自分で無くなってしまう、得たいの知れない化け物になってしまうか、身も心もそれらの容れ物になってしまうような、オソロシイ時代を向かえているとも言えるのではないでしょうか?
つまりは、今、即天にもなれれば即魔ともなり得るということです。
そこで何が神的なもので、何が魔的なものかが問題になります。ひっきょうそれは善悪の問題にもなってくるでしょう。
そんな時と所で変わってしまうようなもの、よお分かりませんでしょう?
結局、正しい神とか、悪魔とか、正統とか異端とか言うのは、人が世の中がそう言っているだけじゃないですか?
だから神も魔も、善も悪もないのですi...って、本当にあなたはそれで済むのですか?
あなたは本当にあなたの気持ちからそれをし、やらされているのですか?
他人事にしてないで、あなた自身に聞いてみたらいいのです。
善悪とか、正義とか倫理とかの論議には、もっとも肝心なことが蔑ろにされているようです。
それは、善とか悪とか言われているものの狭間にあって、そこに自分が本当に愛、平安、リアリティというものを感じているのか、どうか...
"感じなんかでは話にならない"のかもしれませんが、現実にそういうものが我々にハタラキ、それを感じることで自ずからなるある種の抑制がなければ、ただその場で巻き起こる集合的無意識からくる思いの成るまま、為されるままになるしか無いでしょう。
自分の本心という回路、あのすべてを見透す照明を通ることが無いのです。これは"良心"というしばしば倫理観念と結び付くものに似ているけれど、もっと我々の内奥に根底的にあるものです。
要するに、事の良し悪しを根本的に律しているのは、他律的な法律、モラルではなく、自ずから赴こうとする"法なき法"にあると言えるのではないでしょうか?
それは集合的無意識を外側から律し、罰する法的なものにあらず、我々一人一人に元から与えられている天律ともいうべきものです。
この意味で、自分が自分で無くなってしまえば、それは生きてこないと言えるでしょう。

倫理モラル低下の声はますます強まっています。否、それはもう破綻しているようにも思える。"くそくらえ!"ではないかi
自分を自分と感じられない、思念の集合体を外から律することは困難なのかもしれません。
しかし、このことは同時に"隠された律法"を呼び起こす契機となるのかもしれません。




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幸福の方が追いかけて来る

2019-02-04 12:37:58 | 独語
"私は今、常に幸福で居られる境地にあるんです"

けっこうなことなようだけど...何かなあ...
今、幸福だったとして...それがずっと続くものだとして...
自分がそうなろうとしてそうなった訳でもなし
それがずっと続くように自分がそうした訳でもなし
そうなろうとして、そうなったことなんてあっただろうか?
境地...自分がそこに居る
居なければ一体何の境地だろうか?
あるいは、そう感じる自分も居ないという境地ってのもあるのかもしれない
何の境地だか知らないが...

"自分は今、そういう境地にあるんです"

幸福に感じなくなったらどうなるんだろう?
幸福でない境地?
それでもずっと幸福で居られる境地に...居たい?
幸福がずっと続くことなど誰にも保証など出来ない
それを求めてそうなれるという保証も...
境地に到達しようと、それを確たるものにしようとする自分
自分から離れようとして...そして離れたとして、その事を常に自分の側に置いときたがる...自分...
自分で分かろうとする自分...自分で目覚めようとする自分...
そういう自分なんだからしょうがないではないか?
だから...
そういう自分を自分で超えようとか、無くそうとか...
しょーむないことに明け暮れてても...全くしょーむないi
自分に固着してようが、不幸になってようが、おバカなことをやってようが...
風は必ず吹く...
自分がどんな境地に居ようが、居まいが吹いてくる
吹くままに吹く
気ままに幸福を運びながら...
幸福になろうとしなくても、そうなってしまう
幸福を追いかけなくとも、幸福の方が追いかけてくる
暖かい南風から厳しい北風に切り替わったら、幸福は翔んで行ってしまうだろうか?
風は吹くままに吹くだけ
何かになりたい、何かにとどまりたい自分のことなどお構い無し
この風当りがあの重い"くびき"を軽いものにしてくれる
コチンコチンでなく、風のように気ままにああなったり、こうなったりしてることが...
結構ずっと幸福なことだったりする...

それにしても毎日風が強いこと...

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