私が所謂ノンデュアリティに幻滅を覚えたことの一つは、例えばそのブームの立役者阿部敏郎さんのブログのコメント欄に、阿部さんへの"お追従"的な内容のもので溢れかえっていたのを見たからでもありました。
ノンデュアリティのある在り方の一つとして、"ダイレクト.パス"と形容される言葉があります。これは"直接的な道"という意味で、このこと自体、現代という時代相に、そういうものが現れたことの意味合いを伝えるもののように感じます。
それは、これまで我々の前に数多の思想、宗教、修行法というものが設えられ、それらに依拠して神なり真理なりに到達せんとすることが当たり前のように考えられてきたものが、その間に何ものをも介在させることなく、自己と対象とされるべきものの二元性の無い道が現されたということです。
しかしながらこのダイレクト.パスにも又、二元的な教えへの敵視などに、その説かれる"非二元的な教え"への固執、囚われも見受けられるのです。これが私が幻滅を覚えた主たるものだった訳ですが。
"非二元的な教え何てのは無い"という観方もあるでしょうが、囚われてしまうこと自体の中に既に自己と対象との二元性が横たわっている訳で、今までの"ある相対的な教え"に依拠しようとする在り方と何ら変わらないものがあるのです。
そういうものは結局は流行に肖ろうとしたエセ非二元の道、エセ直接的な道という他ありません。
こう言えばあることが見えてこないでしょうか?
直接的な道とは、非二元であれ、二元であれ何が説かれ、何を信奉するかということじゃないのです。
それは、全くもって我々の心の姿勢というか、意識の在り方と関わっているものなのですi
他人の言説に容易く迎合してしまう在り方とは、全く相容れられない道なのです。
あなたの前には追従するべき何ものも、守り、固執するべき何ものもありません。
全く他の何ものでもない、私やあなたにしか開かれることがないのです。
それについて、あなたが頭脳知によっていくら考えても、あなたに直接開かれることはありません。
所謂非二元の道では、平然と"私という個人は居ない、起こることが起きるだけ"といったことが説かれています。
成る程、そういうことを実感することもあります。
しかし、それは私が"思いを超えたものにあって"、そう感じることが出来るのです。
この事が抜け落ちてしまえば、我々は頭脳知で"私は居ないって、じゃ、こうしてしょーむないこと考えてるのは誰だ?"とか、あれこれ考え巡らすしかないのです。最初から考えようとしない人は"アベちゃん、アベちゃんi"、と連呼し続けるしかないでしょう。
非二元の道とは、本来我々を取り巻く諸々の思いから離れることを、よりダイレクトに示すものであったはずです。
然るに、あのコメント欄に飛び交っている言葉から感じられるのは、もう息が詰まるような、どこにも行き着かない思考の群れみたいなものです。あまりにも不毛な言葉のキャッチボールが多すぎやしないでしょうか?
結局、とりつくシマの無いことを頭脳知で考えてしまうしかないことを物語っているように感じます。
どこにも行き着かないことを考えるより先に、真っ先に知らなければならないことは、この私をかく在らしめているものは何かということではないでしょうか?
ノンデュアリティのある在り方の一つとして、"ダイレクト.パス"と形容される言葉があります。これは"直接的な道"という意味で、このこと自体、現代という時代相に、そういうものが現れたことの意味合いを伝えるもののように感じます。
それは、これまで我々の前に数多の思想、宗教、修行法というものが設えられ、それらに依拠して神なり真理なりに到達せんとすることが当たり前のように考えられてきたものが、その間に何ものをも介在させることなく、自己と対象とされるべきものの二元性の無い道が現されたということです。
しかしながらこのダイレクト.パスにも又、二元的な教えへの敵視などに、その説かれる"非二元的な教え"への固執、囚われも見受けられるのです。これが私が幻滅を覚えた主たるものだった訳ですが。
"非二元的な教え何てのは無い"という観方もあるでしょうが、囚われてしまうこと自体の中に既に自己と対象との二元性が横たわっている訳で、今までの"ある相対的な教え"に依拠しようとする在り方と何ら変わらないものがあるのです。
そういうものは結局は流行に肖ろうとしたエセ非二元の道、エセ直接的な道という他ありません。
こう言えばあることが見えてこないでしょうか?
直接的な道とは、非二元であれ、二元であれ何が説かれ、何を信奉するかということじゃないのです。
それは、全くもって我々の心の姿勢というか、意識の在り方と関わっているものなのですi
他人の言説に容易く迎合してしまう在り方とは、全く相容れられない道なのです。
あなたの前には追従するべき何ものも、守り、固執するべき何ものもありません。
全く他の何ものでもない、私やあなたにしか開かれることがないのです。
それについて、あなたが頭脳知によっていくら考えても、あなたに直接開かれることはありません。
所謂非二元の道では、平然と"私という個人は居ない、起こることが起きるだけ"といったことが説かれています。
成る程、そういうことを実感することもあります。
しかし、それは私が"思いを超えたものにあって"、そう感じることが出来るのです。
この事が抜け落ちてしまえば、我々は頭脳知で"私は居ないって、じゃ、こうしてしょーむないこと考えてるのは誰だ?"とか、あれこれ考え巡らすしかないのです。最初から考えようとしない人は"アベちゃん、アベちゃんi"、と連呼し続けるしかないでしょう。
非二元の道とは、本来我々を取り巻く諸々の思いから離れることを、よりダイレクトに示すものであったはずです。
然るに、あのコメント欄に飛び交っている言葉から感じられるのは、もう息が詰まるような、どこにも行き着かない思考の群れみたいなものです。あまりにも不毛な言葉のキャッチボールが多すぎやしないでしょうか?
結局、とりつくシマの無いことを頭脳知で考えてしまうしかないことを物語っているように感じます。
どこにも行き着かないことを考えるより先に、真っ先に知らなければならないことは、この私をかく在らしめているものは何かということではないでしょうか?