人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

変わる愛、変わらぬ愛

2020-01-20 12:01:45 | 
昨日付けのY新聞の人生案内の欄で、30代の主婦の方が幼児の時の我が子が可愛くて、その成長と共にそれが失われてゆくと思うと、悲しくなってしまい、この先どうしたら前向きに生きてゆけるか?、という旨のことを尋ねておりました。
回答者はいきなり、"そう思うのはあなたが成長したくないからですi"、と厳しい言葉を放っていました。
質問者は、おそらく子供の成長と共に変わってゆくその様態だけでなく、自分の可愛いと思う感情も失われてゆくであろうことにも悲しみを抱いているように感じられました。
回答者は子に対する愛情は、その成長に応じて変わってゆくものだと言っていますが、私は親子双方ともに、失われて行ってしまう場合の方が多いのではないか、と感じています。
その愛が感じられなくなる、失われてゆくという有り様がどんなものか?  連日の殺ばつとさせる報道に接するまでもなく、現代世界に如実に現れているのではないでしょうか?
もし、人間に愛を感じられなくなってしまえば、それは成長どころか、由々しき後退とは言えないでしょうか?(もっとも成長とは何なのか、このトシになっても分からないのですが...)
ここでは"神的な愛"といったことには触れませんが、人間の愛には情というものが付きまとうものですね。愛情。
それが憎しみに転じたり、執着となったりして、相手への負担となってしまうものです。
しかし、相手にばかり意識を向けるのでなし、自分自身の中にも愛を感じることが出来ないでしょうか?
その愛は、相手の様態の変化に応じたものとして表される(これが得てして失われたり、変質する)ものばかりではなく、ずっと変わらない愛そのものとして感じられないでしょうか? 相手がどうあれ、あなたはあなたでずっと感じていられる、ということです。
もし、愛というものを本当に感じられなくなってしまったら、それも自然の流れなのでしょうけど、自分が実際に感じられるものを周囲の良し悪しの声でその感情を押し殺し、その発露を閉ざしてしまうのが、この世の定めだとしたら、とうにこの世は滅び去っていたことでしょう。

この欄を読んだ時、母のことを思い出しました。
私が中学ぐらいの反抗期の時、母に何の事だったか忘れましたが、"うるせーi"、"ほっといてくれi"、とか乱暴な言葉を浴びせたら、母は"小さい頃のお前は可愛かったのに..."、と泣きながら言っていたのです。
母は普通の大人から見たらずっと後ろ向きで、問題を抱えていたかもしれませんが、その人生でもっとも私に対して、愛情を注いでいた時のことをずっと忘れずにいたのです。
これには、私が4、5才の物心付いた重要な時期、母は病気で長期入院を余儀なくされていた、ということが余計にそうさせたのかもしれません。
私はそんな母の姿が忘れられません。
私は未婚のままだし、子供も持ったこともないのに、とてもエラそうなことは言えたものではありませんが、たとへ、それが如何なる感情に基づく愛だろうと、そこに僅かなりともあの変わらない愛の息吹が感じられるならば、どれだけその人の人生を、世の中を潤すことが出来るだろうかと思わされています。
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現臨と原初的経験

2020-01-19 10:27:35 | 現臨、ハタラキ
昨夜は何だか心が落ち着かないまま寝入ってしまったのですが、夜半に目が覚めたら、又耳鳴りが"きん、きん"していて、意識も冴えた状態になってました。
寝ている時はどういうことになっていたのかは分からないのですが、今日の私の世の始まりはそういうことになっていた、ということです。
目覚めている時では、意識を向けるとか、意識的になってみるとか、ちょっとした意志的なものが動いたりするのですが、とにかく原初に私以上のものがあった、ということが実感されるのです。
ベルジャーエフが言うように、人間存在というものは、それを超えたものを想定しなければ、説明がつかないものなのでしょう。
考えてみれば、その意識を向けるということにしても、何にもないものには向けることなど出来ないものです。だから、"自ずと向いちゃうんだ"、とか付け加えたりしているのです。
又、何かに"ゆだねる"とかいう場合、"宇宙に、全体に..."とか、空々漠々としたものにはゆだねようがありません。
ゆだねられるものが元々あるんです。
これには、意識が向けられるとか、ゆだねられているという原初的経験があるからそうなる、と言うことも出来るでしょう。
では、本当の私の世の始め、"おぎゃあi"と生まれた時はどうだったのでしょうか?
さあ、よく覚えてませんが、微かに自分が何もので、ここがどこなのか分からなくて、何かに取りすがりたい一心で、そのように泣いていた記憶があります。
人間は生来、取りすがるもの(多くの場合親である訳ですが)を求めねば、生きてはゆけないものなのでしょう。
でも多くの人間は表側の親は知っていても、裏側の親のことは知らないのです。
私に現臨なるものが感覚される直前、意識が遠退き、自分が消えてゆくという恐怖に見舞われた時も、消え行きそうな意識の中で、取りすがれるものを求め続けていました。
その時、私には神とか守護の神霊といったものの知識はありましたが、とにかく観念でなしにその抜き差しならぬ現実に、生きてハタラくものでなければならなかったのです。
そして過ったのは、この私を私たらしめているもの、それ無くして私もこの現実も存在出来ないあるもののことです。
"命の親というべきものがあるはずではないのか?"
そうして"私はここに居る"という意識状態と共に、現臨なるものを実感するようになったのです。
これが私の自覚されている限りでの、原初的経験なのですが、そこに臨んだものはずっと今も息づいており、生まれる以前、本当の原初からそうなのでしょう。
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見えざる導き

2020-01-16 12:05:51 | ガイダンス
私が40年前、現臨らしきものを感じ始めてから約一年間、ごく短期間のうちに次々と気付きをもたらすような縁と出会わされました。
多くは書物を媒体としたものでしたが、小池辰雄先生、ベルジャーエフ、マクドナルド.ベイン...それ以前から知っていたものでも、日月神示、要之神示(カナメノツタエ。丹後から今でも発信されている、三六九神示の前身と言えるもの)などにさらに共感するようになり、又それまでは難しくて中々読みこなせなかった、大調和協会の命御様の書き物が急に読めるようになったのもこの頃でした。
私はこういう縁を頂いたことを忘れたことがありません。
それらの書物に触れる度に、何か意識が拡大し、高揚してくるのを覚えました。
それと同時に、これはこの頃の特徴だったのですが、もっと具体的な感覚で、手の辺りに暖かみを感じ、それが顔の辺り(特に耳と顎の中間やヒタイの辺り)まで広がるというものでしたが、今もずっとあるもので、そういうことになっている間、ずっと感じられるものは、そう、"じんじん"とした感覚です。
これがあるから忘れることが出来ないとも言えるのですが、こうした出会いがその後の私の歩みに大きなトレースを残しているのです。
私は不思議とそういう縁に引き合わされ、そういう感覚が芽生えてくるのを感じる度に、何かに導かれていることを感じずにおれませんでした。
それが"見えざる導き"と言っている由縁なのです。
いつも言っているように、これはその姿が見えないのは勿論、"ああしなさい、こうしなさい"といった、言葉を持ってするものでもなく、"内なる促し"として感じられるものなのです。
言い換えると、導かれる方に意識が向かう、向かわされるというか...内側に意識付けられるというか...そこから声なき声で、"Go On!"と促されているような感じです。
上記したようなことは、上っ調子に関心が移ってゆくように感じられなくもなく、"これでいいのか?"と思ったりもするのですが、"それでいいんだi"、とこれ又自ずとそう思っている頭でなしに、身が頷く感じになったりするのです。
まあ、それらの縁に触れる度に、言葉では言い表されない高揚感を覚えるのだから、悪い訳が無いのですけど...
私にはこうなる以前に、一つの宗教教団に従属させられて不自由な思い、それが如何に相対観念に囚われていたかが思い知らされていたから、そのように導かれたのだと思います。
言うまでもないことですが、これは私の人生でのことであり、誰にもマネなど出来ないものです。ヘタにマネして"へんてこりん"になっても知りませんよi
あなたにはあなたの導きがあるのでしょうから...。
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本心に向き合う

2020-01-14 12:12:12 | 求道、探究
宗教的な道に関わる人の中には、例えば、"人間は肉体界のみで生きているのではなく、幽界、霊界にも同時に生きているのです..."とか、"前世とか来世というものがありまして..."、などと本当に自分が得心している訳でもなく、他人が言っている言葉を丸のみにして、さも自分の言葉のように言ってしまう人間もまま居るものです。
人の言葉を借りるのも一向に構わないし、そう述べられることも事実かも知れませんが、私にはこういうのはある種の"盗用"にしか思えません。
本当に自分がそう思え、そう感じてこそ自分の言葉として表されるものでしょう。
これは信者意識に囚われているということで、その教祖さんの意向なのかどうかは分かりませんが、教団側は、"教祖の言葉に疑いを持ってはならない、私情、私心を持ち込んではならない"、などと誘導してくるものです。私はある教団の信者だったからよく分かるのです。
こういう人は、おそらくそういう思い方のクセから抜け出せないのでしょう。
これでは中々本心に光が照らされ、開かれることは難しいでしょう。
又霊界とか前世など、常人には確証出来ないことに思いが囚われること自体、本心に意識が向けられず、そこから離れて行くことにもなりかねません。

40年前、私に"現臨"らしきものが芽生え始めた頃、東京の道院という宗教結社に行った時、ある若いメンバー見習い?の人が、霊界に移行して、"そこはこうなってて、ああなってて..."、と詳しくはいちいち覚えていないですが、さもそれを見てきた景色のように描写して語っていました。
私は聞いていて少しもリアリティが感じられず、"だからなんだ?"と思ってしまったのでした。
何故そう感じるかというと...その時は現臨にあって、意識が自分のうちに向かわされることにリアリティを感じていたからです。それは見たり、聞いたりする感じとはまるっきり違うのです。
ちなみに道院というのは、フーチによる神霊のお告げがあるので有名なのですが、そこでは"奇異なことをみだりに語るのは、慎むべしi"、という、さほどきつくないルールがあり、当時毎月のように降された、その神霊の訓示というのは、もっぱら"本心を明らかにせよi"というものだったのです。

私は霊界も前世といったこと自体を否定する者ではありませんし、先人の残した言葉にも多いに共感もしています。
でも、それが本当に自分自身の真実として受け入れられ、理解されるには、外からの言葉を丸のみし、又丸投げしてしまうのでなしに、自分自身の本心(それが現臨でなるものあろう)に向き合い、そこからの光に照らされなければならないでしょう。
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天国と地獄のおはなし

2020-01-13 10:35:40 | 創作
あるところに小さい女の子がおりました。
その子は目の前に一コのチョコのお菓子を見つけたので取ろうとしたら、横からその子のもう一回り大きなお兄ちゃんが出てきて先に取ってしまい、「やーい、先に取ったもん勝ちだよーっi」と言って、行ってしまいました。
その子は「わーん、わーん、お兄ちゃんのいじわるう...」と、泣き出してしまいました。
その泣き声を聞いて、おじいちゃんが出てきました。
おじいちゃんは「あー、よし、よし、かわいそうになあ...そうだ、あれをあげよう...」と、おいしそうな、イチゴのケーキを持ってきて女の子にあげました。そして...
「どう、おいしい?」
「うん、とってもi」
「じゃあ、いい子だから、面白いおはなしを聞かせてあげよう...」
と、おじいちゃんはおはなしを始めました。

"ここは死後の世界です。
そこに男の子の兄と、女の子の妹がやって来ました。
すると、上からスルスルと綱みたいなのが降りてきました。
天使がいっしょに舞い降りてきて、その綱につかまっていれば、上に引き上げられて天国に行けるのだと言いました。しかし、その綱はとても切れてしまいやすく、一人しかぶら下がることが出来ないのだそうです。
妹は困ってしまい泣き出してしまいましたが、兄の方がすかさず「天使さん、どうかこの妹をその綱で天国に行かせてあげて下さいi」、と懸命に頼み込みました。「ダメよ、お兄ちゃんと一緒じゃなきゃいやi」と泣いてとりすがる妹をつっぱねて、兄はどこかへ行ってしまいました。
そして...兄が行くところを知らずに着いた所は、先に来ていた妹がいる天国だったのでした。

すると、今度はもう一組同じような兄妹がやって来て、又例の綱と天使が降りてきました。
今度はその兄の方が、やはり困った様子の妹のことなど、そっちのけで真っ先に綱に飛び付きました。
しかし...綱はすぐプツンと切れて、あわれ兄はそのまま真っ逆さまに地獄へ落ちてしまいました。
そこにはおそろしい顔した鬼どもが沢山いて、その兄におそいかかろうとしています。
そこに「キャーi」という悲鳴が聞こえ、兄がそっちの方を見てみると、なんと妹が鬼どもにおそわれているではありませんかi
「そ、そんなバカなi ...何で妹がi...妹は何も悪くないのに...」
そして兄は泣きながら、懸命に上の世界にいる、さっきの天使や、見たことのない神様にこん願し続けました。
「お願いです。妹は何も悪くないんです。悪いのは僕なんです。僕のことなどいいですから、どうか妹を助けて下さいi」と。
そうして、何度も何度もとりすがり続けているうちに、疲れてきて眠ってしまいました。
そして、目が覚めてみたら、そこは妹がいる天国なのでした。
めでたし、めでたし"

「どう、面白かったかい?」とおじいちゃん。
「うん、まあ...ねえ、ねえ、おじいちゃん、悪いことすると地獄に行ってしまい、人のためにいいことをすると天国に行けるの?」
「そうかもしれないね...でもこの二人のお兄ちゃんは妹が可愛くなって、かわいそうになってたまらなかったんじゃないかなあ...」
「ふ~ん、そうかあ...かわいそうなあたしのお兄ちゃん...」
「どうして?」
「だって、こんなにおいしいイチゴのケーキ食べられなかったんだもんi
甘くて、ちょっぴりスッパイ...おじいちゃんがくれたケーキ...」
(おしまい)
コメント (2)
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