人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛と真理②

2020-02-11 10:31:35 | 
私が"人生の裏側"に踏み入れたことで大きなことは、それまで受けたことのない真理というものを実感したことでした。
それは思考が後退している故に、まさしく感じることしか出来ないことであり、それについてあれこれ考えを巡らすということではないのです。
感じているということは、実にその感じている自分と真理というものに乖離が無いようなことであり、"真理を目の当たりにする"としか言い様のないものです。
これに照らせば、いかに世の中で真理というものが、抽象的概念ばかりで捉えられているものが多いか、ということが分かるのです。
それは表層的思考が超えられていないということなのです。
抽象的に考えられている真理など、宗教、スピなどの精神世界に蔓延しているように、現実から離れて浮遊しているか、ある思想にコリ固まっているか、どっちかと言ってもいいのではありませんか? 
では、その具体的に感じられる真理を具体的に言い表せばですね...
それは言えない...言うとすぐ又思念で取り込んでしまうのでしょ?...いいや、言えないから思いを超えているのですよi(言えないという、足りん頭のただの言い訳?)
しかし、少なくともこれだけは絶対的に言えます。本当に実感されたのはこれだったi
感じるしかない、ということは愛というものと同じだということです。
つまり、愛と切り離された真理は実感されないということです。
それは又、人間の知性と感性は内奥では一つにつながっている、ということでもあります。
このことは人間一人一人にとって絶対的な意味を持っているものです。
"真理が腑に落ちた"、とか"体で感じたi"というのは、この消息を伝えるものでしょう。
ところがこの真理が愛と切り離されて、頭脳知に支配されるや、絶対的な信念といったものがとびっきり相対化し、暴走して世の中に不調和、相克の地獄を現出することになってしまうのです。狂信者ほどこの真理に暗いものは無いでしょう。
どこまでも、絶対的真理というものは私やあなたのうちに、愛と共に息づいているものなのです。
人間誰しも真理を探究することは、本性から然らしめることでしょう。しかし、今こそ本源に立ち返って愛と結び付くことが極めて大切なことではないでしょうか?
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愛というもの

2020-02-09 10:52:08 | 
「愛なるものは、抽象的なものじゃない、実存的なものです。愛というものです」(手島郁郎「ヨハネ書簡講義下巻」/手島郁郎文庫刊)
「もし、あなたが心を開いてみるなら、あなたが必要とする愛がもうすでにすべてあなたに備わっているのが分かる。...私たちは、まさにここに、私たちの内側に愛があるにもかかわらず、その愛が見えないだけなのだ」
(ドン.ミゲル.ルイス「愛の選択」/コスモス.ライブラリー刊)

私が書いているものは、私自身がそうとは知らずに、朧気に昔から感じていたことが、そうして書いているうちに、ある時から意識的になり、そのことがいっそうありやかに写し出されるようなことが多いのです。
実に書くことは魔法みたいです。
ずっと、"誰が読むのか、又読んでどう受け取って、理解してもらえるのかなど、わしゃ知らんi"、というような心持ちで書いていたのですが...今、私はこのことを多くの方に伝えたい、受け取ってもらいたい、という気持ちでいっぱいなのですi
何より、こうして書いている私自身が、"幸せでたまらないi"、って気分になってしまうのです。私はとうていこんなことを言える人間ではなかったのに...

私は幼い頃から恵まれた家庭環境になく、人並みに愛というものを知らずに育ってしまったようで、人の痛みも分からず、対人関係もぎこちなく、ずっと孤独であることが当たり前のように生きてきたのです。
でも、その人生を本当に恨んだことはありません。ということは本当にそんな自分を"嫌いになる"、ということは無かった、ということです。
何かと問題がある私ですが、自己嫌悪を他者にぶつけて、破滅的になり、非行に走るとか、又は引きこもりになる、ということも特に無かったのです。
ずっと孤独で居ることが好きだったですが、本当の意味での孤独感というものは感じてこなかったようです。
常に本当に大切なものと共にある、それに守られている、という感じがありました。これを思うともうたまらない...
世の中で愛というものは、他者、特に人間であるのは言うまでもないですが、与えたり、与えられたりという相手との関係性の中で生まれるものとされるようです。
それも確かなことに違いないでしょうが、ではその相手が離別、死別などで失ってしまったら、あなたからその愛も無くなってしまうのでしょうか? むしろそうなることで一層強くなることだってあるのではないでしょうか?
そして、この愛は相手からだけでなく、自分に元々備わっていた、内側からあふれでてくるものでもある、ということが分かると思います。
そして、かかる愛は、"愛する、愛される、ということ"であるよりも、"愛というもの"、ということが分かるでしょう。この意味での愛とは具体的なものなのです。
しかし、この愛も単独の自分のみから生まれるものではないでしょう。そこには私という個に先立つ、私を超えた神的なものとの原初的関係性というものを抜きに考えることが出来ません。
この愛をふかーく味わってみることで、自己嫌悪でなく、自己信頼が生まれるのです。
自分を信じ、愛せない、ということは、人も、神も何も信じ、愛せないということに等しいことでしょう。
愛というもの...それはこの現代世界が見失ってしまったもので、もっとも大切なものに違いありません。



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人生に結論なし

2020-02-08 09:51:18 | 詩的文章
「人生に結論なし。ただ創造の一途あるのみ。意味は発見し得る者にのみ輝く」
(石丸梧平。明治から昭和にかけて活躍した作家、思想家)

朝起きる...
全く新たな人生が始まったように感じることがある
僕は一体何だったのだろうか、何を生きていたのだろうか?
何を後生大事にしてきたのだろうか?
僕の信念とか信仰とか信条とか...
この朝の息吹に吹き飛んで行くしかない
真理はこれっきゃない、この教えでなきゃならない
私は悟った、究極の真理が分かった...
なんと御大層なことだろうi
何かの結論に達したら、何かが抜け落ちて行く...
昨日分かったことは、今日は出がらし...

僕の人生はいつ始まったのか分からない
気が付いたら、ここにいた
ここにいる
ここにいるだろう...
いつ終わるのか分からない...
"ハイ、あなたはもう終わりですi"、と誰かが言うかもしれない...
そうだi それはどっかの誰かしか言わないのだi
朝、小鳥のさえずりが...
僕に"目覚めよi"、と告げている...
たとえ、今日で人生が終わったようなことが起きたとしても...
明日はきっと目覚められることだろう...
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闇の道

2020-02-07 05:54:25 | スピリチュアル?
思いを超えた、神的なものにある時、そのものと一つになるように示されたりします。
しかし、私は私自らが、自らのみでそのようになる、ということはただの一度も示されたことなどありません。
当然のことでしょう。これはどこまでも"そのものにあって"なされ得ることなのです。
キリスト.イエスは、「私自らは何事もなし得ない...ただ父のみ心のままに行うのである」
仏陀は、「非我なるものは、我のものではない」
ソクラテスは、「私は自分が何も知らない、ということを知っている」と言いました。
古の聖者たちで、悟りなどの事態を自らに帰してしまう者など居たでしょうか?
自分で到達出来るような悟りなどというのは無いのです。
私はエゴマインドがすっかり無くなったとか、超能力みたいなのが開発されたとか自分で宣っているのは、まさしくそう思いたいからでしょう。
これは、上よりの力によって自分の力、思いというものが断絶される(これが"超えられる"ということで、それで無くなるということではありません。)というプロセスが蔑ろにされているためでしょう。
それは光に与ることに先立ち、闇のうちに置かれるようなプロセスです。否、この闇の道そのものが光の照射によるものなのでしょう。
そして、自らの限界を示されることがなければ、思いを超えた世界の消息を自らの思念で取り込もうとするのです。
主に取って代わろうとすること...神も思念の下に置かれるという訳です。
小池先生はこれを"霊的傲慢"と言って、特に戒めていました。
しかし、元々が自我性が強く、弱い私のこと、"私が..."という思いがもたげてきて、悟った人間のフリをしようとする誘惑に駆られたこともあるし、今後も危ういものです。
この誘惑に対する大きな歯止めとなっているものは、愛の鉄槌を受け、闇の道を示されたことが内奥に刻印されていることです。
人はスピ界隈に蔓延しているような、光に包まれた至福の世界のことは容易に想像出来るでしょう。
しかし、身体や思考の機能が後退して、闇に包まれた世界は想像出来ない...否想像したくもないのではないでしょうか? 特に自分を何ものかになろうとしている者にとっては...
だからこそ、それは我々が思念に囚われることのない、思いを超えた上よりの恩寵の消息を伝えるものと言えるのでしょう。
そこに本当の至福があるのかもしれません。


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現臨と現実

2020-02-05 11:42:34 | 現臨、ハタラキ
ちょいちょい言っているように、思いを超えたもの~現臨にアクセスするには、現実に向き合うことが極めて大切なことです。というよりも、現臨にある、ということは現実と向き合わざるを得ない、ということなのですが...
どうも、こういう話をし出すと、"現実を直視しなければならないi"とか、"それを見ようとしないのは現実逃避だi"、なんてことに流れてしまうものですが、私はこの場合、そういうことを言っているつもりはありません。
いや、逆に"直視しなければならない!"と、意念を働かすならば、現臨に与ることは不可能になるでしょう。
そんな、心を構えたり、緊張するようなこととは全く違います。
じゃ、どういうことなのか?、どうすりゃいいのか?、って説明など要しないことです。そのままなんだから...
現実を見たくないのなら見たくないまま...弱いのなら弱いまま...そういうありのままの自分を受け入れる。
もし、ありのままでない自分がありのままになろうとしたら、ありのままでなくなりますよi
要するに、これは、"こうあるべき!"という、作為的なハタラキを加えないで、無為的な現臨のハタラキにゆだねる、ということに他ならないのです。光に照らされるまんま、ということです。
こう言うと、又"作為、人為的なものは捨てなければならないi"、なんて取られかねなくなるんだから、もーっ...こういう現実を受け入れなければ...
どうしようもないのが現実...その前には我々は無能無策でしかない、だから受け入れざるを得ないのです。
ぶっちゃけた話、現実というのは、自分が本当にリアルに感じたものを置いて他には無いものでしょう。現臨にあるということはそうなっているということです。
ただ何事でもそうですが、意志的なことで、受け入れようという意識、意識的になることは必要です。
ここが微妙なことで自分の意志に先だって、無為的意志みたいなのがハタラキ始めるのです。こう書くと難しいですが、何もせんでもそうなるのでこんな簡単なことはありません。
こうした思いを超えた現実の事態のことに、考えても分からないような何次元だの宇宙パワーだので飾り、空想、妄想ごとにうつつを抜かしていることが、この場合現実逃避につながるのでしょう。
そして得てしてそういう人間は、思いを超えたところから来る、無為的なものと、自我に起因する思いから来るものの区別が付かなくて、自分がデキルものと錯覚し出すものです。
彼らは自我の人為的な思いというものの限界を知らず、その現実に向き合おうとしないのです。
目覚めとは、この現実を受け入れ、目覚めるということの他に無いのではありませんか?
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