人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊肉の一致

2020-02-21 12:00:21 | 回想
「私はいまどこにいるのか、市のなかか野のなかか
私は再びこの世界に戻っているようだ」
(ブラウニング「クリスマス前夜」)

昭和55年夏、それまでの一年半ばかしの間、私に恒常的に身に覚えられていた、あのこの世のものとは思えない、高揚感、幸福に充たされるような感じは自然消滅してしまいました。
その夏は、梅雨がいつ開けたのかも分からない、あるいは夏を通り越して秋になってしまったと思えるくらい、連日涼しく、曇り空が続いていました。
そうなってしまったことに自覚意識はあまりなく、いつの間にかというか、まさに自然にそうなったという感じでした。
そうなった切っ掛けは多分、当時バイト先で知り合った、奇しくも同じ大学の女子大生に熱を上げたことだと思います。
と言ってもこれは一寸微妙なことで、これは普通に胸焦がれるような恋愛感情を伴っていた訳でも無さそうで、これが元で肉欲的なこととか、ロマンチックなこととかがごちゃ混ぜになり、その季節外れの冷夏がそうさせるのか、独特のメランコリックな気分がどんどん私の内部に深く厚く侵し始めた、ということだったのです。
こんな気分になったのは、久しぶりのことで、その一年半の間は勿論、精神的な道に目覚めてからの二年半でもほとんど無かったのです。だからと言って"そんな俗な思いなぞ捨てなければならない!"、なんてピューリタンぶってた訳でもありませんでしたが...どこか超然としていてごく普通の青年が持つであろう、"肉身を持った"感情が希薄になっていたのも事実だったでしょう。
この間、読む本といったら宗教、哲学関係のものばかりで、その当時初めてちゃんと読んだ文学書が英詩人ブラウニングの詩集なのでした(この人自体かなり宗教的な背景を持った詩人でしたが)。
このことにより、私はあの精神の燃えるような高揚感から離れてしまい、普通の、俗なる人に改めてなることになったのでしょうか?
あの見えざる導きは、堕落した(?)私から離れてしまったのか...いや、見捨てられたという感じはしませんでした。
私は、どこかで超俗なことと、俗なることとを別のものと分けてしまっていたようです。
私は当たり前のことながら、元からして煩悩を持った、肉身を持った俗人に過ぎないのです。しかし、私は霊なるものの消息にも与っています。霊と肉とは本来一つのもので分けられないものではないのか? 
と感じているのは今の私なのですが、そう分離して理解されていること自体は実に観念的なことで、純粋に感じられることには分離などありません。
私は長い間あの感覚は自然消滅したものと思い込んでいたのですが、実はほとんど意識的になっていませんでしたが、別様の感覚も身に覚えていたのです。かなりメランコリックな気分が付随しておりましたが...
それは、今の私が愛というものを抽象的なものでない、具体的な感覚をもって感じられるものと通じるものがあるようです。
当時の私はそうとは知らずに、霊肉の一致の道を、これもやはり見えざる導きによって歩まされたようでした。
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一なるものを求めて

2020-02-18 11:53:46 | 求道、探究
私は思いを超えたものー現臨を身に覚えて、主として書物との出会いから、教えも形も異なったいくつかの宗教的、精神的グループと関わることになりました。
その歩み方が普通と一寸違うところは、同時進行でそういう関係をもつこともザラにあったということでしょう。(これが異性関係だったら大変なことでしょうね)
これは自分の中から、その本を読まずに、その団体を訪ねずに居れなくなるような衝動を覚え、そう赴かざるを得ないような促しに従ったまでのことです。
これには具体的なあるキョーレツな感覚を伴っているのですが、それはどの場合においても同じものなのです。
これが実に肝心なことで、つまり一つのものに導かれたということなのです。
私は知らず知らずに、それぞれ色も教えも異なるグループのうちに、この一なるものが息づいていることを学ばされていたようなのです。
当然のことながら、その異なった道も大体がそれぞれの説き方で、そうした全一的な道を差し示していたのです。
この一なるものは、言うまでもないことですが、諸々の道から切り取った一なるもののことではありません。それは全一的な一ではなくて、相対的一というべきもので、数多の不調和、相克、そして狂信、妄信を作り出すものです。
これは端的に言って、思念が超えられるか、否かということで分かれてしまうものでしょう。
程度の差はあれども、全一的な道を示した、私に縁のあったグループでも、こうした"我々の道は、他の道とはかくかくの如く違う"式の分離した教説に接したこともありますが、私はその度にある生理的な拒絶反応を示しました。
そういう全一のものから切り取られたような教えを理解することも、理解しようとする気も起きてきません。その団体が全一的な道を説いているから余計にそうなるのでしょう。
そして、私は真の一なる道はこの現実世界では求むべくもない、という結論に至り、それを求めることは諦めてしまいました。
人間がこの世に生きることは、相対的宿業を背負わざるを得ないものです。
勿論私も例外ではありません。私が自覚されている限り、古来より宗教、精神的道にまとわりついた、かかる相対的宿業といったものに対し、強固な相対的心情を顕わにすることは認めなければならないでしょう。
でも、一なるものは今も私に息づいているのも確かなことです。
もし、人間の根底にこの一なるものが息づいていなければ、この人類世界はとうに滅び去ってしまったことでしょう。
しかし、相対的人間は自らこの一なるものに帰ることが出来るのでしょうか? いや、だからでしょうか、私は一なるもの自ら現れ出でようとしているのもヒシヒシと感じています。
それが果たしてどのように、この現実世界に表れ、結実されるのかは知る由もないですが、今はこうして何ごとかを書き記しているだけです。促されるままに...。
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愛と戒め

2020-02-16 09:48:30 | 
イエスは言われた「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なる神を愛せよ。これが第一の戒めである」

私は我が主からこのような戒めは受けたことがない
私にはことの他甘い主よ、これはあなたが本当に望んでおられるのですか?
主はそっとささやいた...

"違うi 私はお前が全身全霊をもって私を愛することを望む
お前は真のものを求めているのではないのか?
真の神に出会いたいのではないのか?
それとも偽りの心をもって、心を取り繕って私を求めるというのか?
偽りの心には、偽りの神が、神ならぬ別のものが寄りつくだろう
私の前には如何なる虚飾、取り繕いも出来ない
私の前に素のままのお前自身のものでない、別の何かを立てようとするのか?
その盾に遮られてお前が見えない
その盾には私の姿、名前が刻まれているとでもいうのか?
石で作られた神は死んでいる
お前はどこまでも直に、私に真向かいに会いたいのではないのか?
たとえ、どんなにお前が罪に押し潰され、堕落し、私の前に顔向け出来ないようになったとしても、そのままの顔を私に向けて欲しい...
そうだ、向けられないままに、こっちを向いて...
それが真の心ではないのか?
それが真の...お前の望みではないのか?
お前の望みは我が望み
我が望みはお前の望み...
だから...
お前は全身全霊をもって私を愛さなければならないのだ
この戒めは我が愛である..."
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精神と現実

2020-02-15 10:50:38 | 人生の裏側の図書室
「精神こそ現実である...精神とは自由である。創造的行為である」(ベルジャーエフ「精神と現実」.著作集第五巻/白水社刊)

ここで取り上げる書物は、元々私個人に縁の深い、私が偏愛しているものを扱うつもりでいたのです。
ところがそれらは絶版になっているとか、諸々の事情で入手が困難なものが多く、一寸紹介するのを躊躇する気持ちもあったのですが、ここへ来て、極私的なことを書くという、当ブログの基本のコンセプトに帰ろうという風に傾いてきたのでした。
そうなると、この絶版になって久しいこの本を取り上げない訳には行かないというものです。
この書物は言葉の深い意味で、私にとっての"啓蒙の書"に他なりません。
啓蒙とは、暗い部分に光が照らされることです。それは傲慢にも誰かが誰かにそういうことを施すということではありません。
誰の所有にも、使役にも関わらない、人の思いを超えた、高きよりの光、即ち神的な、霊なる光を受けるということ...イリュミネーションに通ずるもののことです。
この書の前半部分は、この霊なるものについて述べられています。邦訳の"精神"という言葉に限定されると、著者の言わんとすることは伝わりにくく、英訳の「Spirit & Reality」の方が感じがつかめそうです。
つまりこの書は、"スピリチュアリティそのもの"に多く言及しているのです。こういう真の"霊学"というものの類書がほとんど無いというのは実に不思議なことです。
"いいや、スピ関連の本なら巷で溢れかえっている"、などと言うなかれi...例えば、心霊的なものの存在、霊界といったものの実在性などに躍起になって、霊なるものをモノとしてしか理解しようとしない思潮など、"スピリチュアルな物質主義"と言うべきではないですか?
真に霊なるものは、頭脳知、概念で捉えられるものではありません。エセ.スピにかかるとその観念に取り付かれ、奴隷となるのがオチでしょう。
これに反して霊のハタラキに与ることには、自由がある...それは思いが超えられるということだから。霊とは存在というよりハタラキなのです。
では前記の、私の啓蒙体験とはどのようなものかというと...
幼少の頃より時折どうもこの現実世界で生きていることに、その現実感が感じられないというか、夢を見ているように感じてならない、という精神状態に陥ることがあったのですが、この書を読んでいる時、突如私の内部に、"そうだったんだi、僕はああなっている時、思われたものでない、別の、夢でない現実を仄かに見ていたのだi"という直感が電撃的に閃いた、ということだったのです。
又、心に思い描いていた宗教的な共同体、教会というものが、現実に関わってみて、私の内部に生きているものとまるっきり異なった、外的な死んだ構築物のように感じるのは何故か?、ということなど(これはベルジャーエフの主要なテーマの一つ、"精神の客体化"という問題と関わるのですが、ここでは触れません)...これは本当に電撃的なことで、心身に震えを来してしまったほどです。
こういうことを真実に自己の内奥に受容され、根付くことになれば、そのこと自体が精神的目覚め、エンライトメントに導かれることになるでしょう。それは前記イリュミネーションと結び付くことだから...
元より私のこの読書体験は、その一歩手前の事態のことであり、あの変容の瞬間を予感させるものだったのです。
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魂の読書

2020-02-13 11:37:46 | 人生の裏側の図書室
何度か書いているように、昭和54年春、私は現臨ともいうべきものを恒常的に身に覚えることになったのです。
それは勿論今でもそうなのですが、その感覚は一端翌年夏、(自覚している限りでは)突如自然消滅してしまったのでした。
人が宗教であれ、スピであれ精神的な道の縁に触れる端緒となるもの、その媒体として、現代では書物との出会いというものが不可欠なものと思われるのですが、私のこの秘儀参入入門期間(?)に出会った書物たちとの縁というのは、取り分け忘れ難いものがあります。
これを揚げれば...「無者キリスト」(小池辰雄)、「解脱の真理」「心身の神癒」(マクドナルド.ベイン)、「精神と現実」(ベルジャーエフ)、大調和協会会主、命御口述による「大調和世界観開顕之聖業発祥」、「日月神示」、それを継承すると思われる、知られざる神示「要之神示」...
これらは、あの燃えるような意識の高揚感と、身震いするような(本当に震え出してしまったこともあります)一種の内的感覚と共にあるものです。
無論、これに限ったことではありませんが、このことはこの期間に特徴的だったことなのです。
理由はよく分かりません。ただその書き物を手に、否「取ってみよi」とばかりに何者かに促されるように取り、そしてページをめくるやいなや、「これをとくと読め、味わえi」とさらに畳み掛けてくるものを感じて、例のような事態になってしまうのでした。
私はそれらの書物から何を求めようとしていたのでしょうか? 何かの知識を得ようとしてないのは明らかなことです。
改めて考えるまでもなく、そういう類いの本などは一切ありません。
又、私はこれまで例えば、何かの瞑想方法であるとか修行マニュアルなどに関しての本はほとんど読んだことがありません。
もとより、そういうものに赴くことが無かったということなのですが、もし、その方法なりが思いを超えた、神的なものとつながることを企図したものだとすれば、手にして、読むだけで何かじんじんと感応してくるものを覚えさせられていたからなのかもしれません。
"それを読むことでああなってしまうのか、ああなってしまうから読まされるのか?...言葉を通して言葉を超えたものに会おうとしているのか?...確かに、知的概念を求めているだけなら、ああいうことにはならないだろう..."
ある人は"魂の読書"ということを言っています。
それは、全く誇張でなく、魂が求め、魂で味わうという読書体験というものはあるのですi
読むだけで精神的目覚めに与る、ということもあるでしょう。私自身その一歩手前だった、ということも経験しています。
読書は、ともすれば頭でっかちの知的遊戯に流れるだけのものになるかもしれませんが、頭だけの読書など、その半分も価値を見つけることは出来ないでしょう。
魂の読書は、あなたの人生を変えるかもしれないのですi
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