人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

宗教信仰の盲点

2020-09-22 10:34:11 | 宗教
「純粋な一神教は是認し難い。それは偶像崇拝の最後の形式である。...宗教は人間の依存感情ではなく、人間の独立感情である、と私は信ずる。...神は精神(霊)的存在として、私の自由、尊厳である」(ベルジャーエフ.著作集8巻「わが生涯」/白水社刊」

多くの人は、宗教信仰というものに対し、帰依という言葉で連想されるように、自己を超えた神的(私自身何回こういう言葉を使ってきたことだろう)な存在への依存感情を表すものと捉えているのでしょう。
これは多くユダヤ、キリスト、イスラムなどの聖書の宗教、インドのバクティ、浄土系仏教など祈りを伴う宗教について言えるものですが、極端になると神への究極的帰依とは、自己の神的なものへの溶解、無化を意味するらしいです。
私もここで神的なものへの帰依、祈りについて、そしてそれは自己の無化を伴う、と何度も触れてきました。
しかし、それは自己そのものがどこかへ溶けて、消えてしまうこと、自由というもの、主体性を失うものだとは言っていません。
神への服従という。それは自らの自由意志を殺して、神の意志に従い、人間存在は神の意のままに操られることを意味するのでしょうか?
そういうものは、神に"擬態する"カルト宗教などに見られる信仰形態なのであって、独一無二の人間存在の道ではないのです。
ベルジャーエフは、キリスト者を自認する哲学者でしたが、読み返していて、かような言葉を残していたことに気が付き、驚きを禁じ得ませんでした。
この言葉は宗教信仰の盲点を激しく、革命的に突いていると言えます。
もし、神に純粋に帰依し、祈り、意識がつながるならば、我々の内なる光が中から輝かずにおれないであろう...そしてそれは、我々の本来的自由、主体性を取り戻すことにつながる...。
神的なハタラキにあって、我々は人間人格の根源にあるものを呼び覚まささずにおれないのです。それは又、我々の精神に十重、二十重に取り巻いている、諸々の業的な力から解放されることを意味しているのです。
ベルジャーエフは、人格について多く語っていますが、それは通常思われているようなものではありません。
その表層意識に隠れているもので、"この私より私に近い、私そのもの"と言っていいもの、真我につながるような私なのであり、そこで無化されるものは、"私ごと"ではなく、自我的な思いということです。
"私は私でないほど私になる"、とはこういうことかと実感されます。
宗教的な道でこのことが蔑ろにされるならば、思考停止状態の、悪しき依存感情が助長され、ゾンビの如き、魂の抜けた精神ばかりがはびこるようになるでしょう。
とはいえ、人間は弱いものです。私はベルジャーエフのような貴族的精神を持ち合わしてはいません。
助け主、最愛なるものに"頼みもうす"という思いは捨てきれません。
いや、しかし...今感じていることなのですが...
"み親"を呼ぶ、ということと、"呼び覚まされる"ということは、全く同時の、切り離すことが出来ないものなのではないかi?
それはやはり、神(的なもの)にあってのものでしょう。
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何で私に...

2020-09-21 09:16:04 | 独語
"何で私に、こんな今生で味わえないような恩恵が与えられるのだろうか?
少しも取り柄の無い、性格も捻じ曲がって、到底改善の余地など無い、この私に..."

初めて神の愛の一撃を受けた時、こんなことが過ったが、それは今も同じだ...
いつも発信していることにどのくらいの人が共感しているのか、これは全くほんの一握りの人にしか伝わらないものなのか、あらゆる垣根を超えた普遍性に通じたものなのかは分からないが...
これはもしかして私が思っている以上に、比類の無いものなのかもしれない...
この私が臆面もなく語ることは、全く場違いな、不相応なことなのかもしれない...
私は今、臆面もなく、"私は私で無いほど私自身になる"、などと言い表すことを許されている
許されているということは、現にこうして言葉に表せるということだ
あの劣等感が強く、それと隣り合わせの、キツネもたじろぐような高慢な思いに支配される、この私が...
確かにあれは許されていなかった...ああいう言葉はどうしても出てこなかった...
私の捻れた精神が改善されたなどとは思っていない
でも、出てしまう...それは捻れた精神とは別に、それが絶たれた場所で、全心身が震えるような歓喜の中で、紡ぎ出されるものだ
つまりは...この私からは出てこないi
この業生の私の到底与りしれないことなのだ
何で、ずっと日の当たらない片隅で蠢いているようなこの私に...
もっと相応しい人間ならいくらでも居そうではないか?
私という人間は信用出来ない...そう、誰からも信用されていないi
だから、私の語ることなど、誰も信用しなくて当然だ
そうだi 簡単に信じちゃいけないi
そんなに安っぽくはないi
信じたらどうにかなる宗教なんかと同類にしないでもらいたいi
あの教え、この教え、メソッド...数多ある、そんじゃそこらにあるものと同類にしないでもらいたいi
魂が揺すぶられることに安っぽいものなど何も無いi
一人一人の内に息づいているものは何一つ安っぽくは語れないi
それは全くもって我々の思いを超えたものなのだi
だから...思われたままの自分の言葉を信用してはならないのだi
"私以上に私そのものの私が居る"
それはこの私からは出てこない
だから...この私、私の言葉は信用出来なくても...
あなたの神に絶対の信を向けて欲しい...
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祈りは待ち望むこと

2020-09-20 09:13:12 | 祈りと瞑想
何度も言っているように、神(的なもの)に意識を向けるということ、これは祈りの根本にあるようなことを言っているのですが、"思い方"のことを言っているのではないのです。
例えば、マイナスのことを思わないようにしようとか、それをプラス思考に変えようとか、そういうことをイメージしようとか...ではなくて思考を超えたものにアクセスすることなのです。
まあ、このことですら、"思いを超えなきゃ"、とか"思いを超えたものって何だ?"と思念してしまう人も居るのでしょうけど...
中には何十年も祈りの修行をし続けている人でも、"念"というか自分の思いでどうとかしようとすることと、思いを超えたものに与ることの区別がつかない人も見受けられるのです。
(これは、その修行に対する思いというものがアダになっているのかもしれませんが)こういう人は、とにかく色んなオカルト的教説などに思いが囚われハマってしまいます。
その先入観、定見などで思いが囚われることは、"神的なハタラキが流入してくる"のを閉ざすものだということが分からないのです。
そういう人間も"精神的覚醒"について思ったり、口にすることもあるようですが、確証の無いことをやたらと信じ込んだり、ある特定の教えを狂信したりしている人間には、まずその門は開かれないでしょう。
ということは、自由な、開かれた意識に上よりの光が差し込むということなのですi
どこまでも思いの通路は、最愛なるものが通られるように開けとかなければならないのですi
しかしながら、人間はどこまでも考え続ける、どんな自然なことも、思いを超えた神でさえも思いの中に取り込んでしまう生き物です。
神的なハタラキによらずば、その幾重にも重ねられたフタは開かれることが出来ないことを知るべきなのです。
そして、そのハタラキの流入を待ち望まなければなりません。
その瞬間は、"こう思った"という、抽象観念でなしに、窓を開ければ新鮮な空気の流れが入ってくるような、具体的な感じを伴うものなのです。
感じ方はそれぞれでしょう。"あふん"となることかも分からないし、いつの間にか、寝て起きたらそうなってた(私の場合、これは結構あるのです)ことかも分かりません。
とにかく、そういうものに与ったならば、思ったり、信じたりする観念ごととは違うことが知らされるでしょう。自ずとそこに区別が、秩序(思いが先走らなくなるようなこと)が生まれるのです。
"そりゃ、どんなことだろう?"、なんて考えてたってしょうがありません。なってみたら分かります。
こうしてみると、祈りというのは、待ち望むこととも言えるでしょう。
そうなることを待ち望むというよりも、最愛なるものとの再会を...
もっとも、そうなる前から、理屈抜きに神的なものに惹かれてやまないものを感じられる人には何の説明も要らないでしょう。
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現実に臨むこと

2020-09-19 09:00:07 | 雑感
ブログを書くにあたって、"今日はこういうことを書こう"、と一応テーマというものはいつも考えています。当たり前ですよね。
これはスピ的なネタについてですが、けっして霊感のまにまに、自動書記のように文章が出てくる訳じゃありません。
ただ、夜中が多いのですが、目覚めの時、じんじんと"現臨"にあるような意識状態になっていて、何かの啓示めいてますが、そこで表現したいことが強く迫るように感じられたら、そちらを優先的に書くことが多いのです。
これはとても臨場感を持っているということ、今の現実に感じているということなのです。
表される内容は、いつも書いていることの繰り返しもあるかもしれません。
でも、その"現実に臨んでいる"ことを書き表すことに駆られざるを得ません。
現実に臨むことは、いつもの繰り返しではあり得ないのですi
同じようなことが起きたとしても、そこで与ることは毎回が"なう"なことなのですから...
ただ、如何せん、表現が拙いのと、言葉の限界などにより、上手く読み手にその"生きた現実"が伝えられるか、どうか分からないという次第なのです。
本当に伝えたいことというのは、読んで、聞いて、考えて分かったつもりになるような抽象的な教えとか理屈じゃないのです。
しかし、毎回がそんな感じで書き表される訳じゃありません。
悪い夢でうなされて目覚めることだってあるのです。
色んな雑念が飛び交っていて、あの明晰な意識状態とは程遠いことになっている時もあります。
そういう時は、知恵不足の頭からひねり出すように書いちゃうこともあります。
"そんな時は無理に書かんでもいいのかなあ...ロクなことは伝えられないし..."、と思うこともしばしばです。
だけど、そんな調子で書いていて、いつの間にか"じんじん"としてきちゃう場合もあるから分かりません。
神的なものに意識が向けられるためです。
どこまでも"現実に臨むこと"にあって、書き表すことが主眼なのです。
"人を説き伏せようとか、多くの人に認められたいとか、へんな色気が出るようだったらさっさと閉じてしまおう..."
そんな訳でブログを書くことは、何よりも私自身が"生命の光"に与らんがために他なりません。
そのことにより、わずかでも共感され、そのものが伝われば、ということが今の私の"現実に望むこと"なのです。
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最愛なるものと思いを超えたもの

2020-09-17 12:27:18 | 
私はやたらと"神"という言葉を使うようですが、いつも読まれている人にはお分かりと思いますが、あまり宗教というものにとらわれる必要は無いのです。
これは"現臨"、"見えざる導師"と言ったり、いわく言い難いものを分かりやすく言っているまでです。要するに"神的なもの"なのです。
もう一つには、ある意味"隠れ蓑"のように言い表している部分もあります。
どういう訳かと言うと、"自分が..."という線を表に出さないようにするということです。
というのも、私は元々自意識が強く、すぐ自我肥大に陥り易いことを自覚しているので、なるべく、そういうクセは、神の名を借りて隠してしまおうと、まあ、小賢しい意図からでもあったのですが...
ところが...いつの間にか、そんな表層の思いを超えて、本当にその神的なものの方が表に顕わになるにつれて、このチッポケな自分は、段々と後退して行く感じになってしまったではありませんかi
これは、"神的なものに意識を向ける"ことでそうなったということ、もっと的確に言えば、いつの間にか、向いちゃったってことです。
神は、本当に、ホントーに思いを超えている...こちらの思惑でしたことが、思いを超えた方に取られて(化されて)しまうのです。
もう、"私は段々自意識は無くなり、無の境地に近づいて来ましたよ~"とか、エゴをくすぐることを思わなくてよくなったのです。(といって、こういう微妙な表現で、自意識は消えて無いということが分かるでしょう)
(私が)霊的に進化したんじゃありませんi 神が表に顕わになったのですi
(私が)真我に目覚めてきたんじゃありません。現臨にある時、思われた自分から離れた、真の自己が写し出されるのですi 私は私で無いほど私自身になるのですi
もはや、私が進化しようと、後退しようと、無になろうと、強欲だろうとどっちでもよいi
こういうことは、私自らが自意識を引っ込めよう、欲望を抑えよう、心持ちを変えようと、いくら努力しても、その気根の無さを思い知らされるばかりで、少しもそうなった試しなど無いことだったのです。
これが、チョイと意識を向けるだけで...否、神はこちらの意識が向かわざるを得ないものなのでしょう。
それは最愛のものだから...どうしたってそっちに意識が赴き、他には向けられません。
"自ずと意識がある中心に収斂される"、というのはこういうことなのです。
そして、それが思いが超えられる、ということなのです。
神...このいわく言い難いものは、(言葉に尽くせぬものなれど)"最愛なるものと思いを超えたもの"の代名詞たる所以なのです。

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