人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

古くて新しい神の道

2021-01-23 10:32:38 | 
今度カテゴリーに「神」を加えることにしました。
今さらという感じなんですけど、ここ最近バカの一つ覚えのように神について書かされているようだし...
改めてなんですけど、神というのは、ひどく抽象的で、捉えどころのないものですね。
考えれば考えるほど、掴もうとすれば掴むほどそうなる...これは既に我々の現前に神的なものは、お在さなくなってしまったことを意味しているに他ならないのです。
もし、それが我々に現存するのであれば、我々は既に神に捉えられているだろうから...これに捉えられてみれば、これほど具体的で、アリアリと感じるものは無いといっていいくらいなのです。
神はこのように知的概念によって知ることは出来ません。それは思いを超えたものだから...それは、それ御自ら臨むことで知ることが出来るのです。
我々が神を慕い求め、神が御自ら現れ、臨み、導きたもうことは、ごく自然な流れと言ってもいいでしょう。ああ...神を切に待ち望むものに神が応えたまわないことなどあるでしょうか?
私が現臨、見えざる導師、照明、聖霊等々と言ったりしているものは、すべて神的なもののことを言い表しているのに他なりません。
というより神は、私の、人間の、世界の、宇宙のすべてに関わっていると言ってもいいでしょう。
神をこのように(直接)知ることは、本当の自分を知るということと一つのことなのです。
この意味で、ラマナ.マハルシが言うように、正に"神、導師、真我は一つのもの"、と言えるのです。
以前の私は、あまり"神、神"と言うことに躊躇いを感じていました。
それは、先のように書く方にも、読み手にも漠然とした感じをもたらしてしまうように思えたのと、過去の宗教のように、二元的な印象を与えてしまうと思ったからです。
"新たな道はノンデュリアリティだi"、などと一寸、非二元の教えにカブレていたところがあったのです。
しかし、そうあろうと、信じ、従おうとする自分が居て、向こうに見て、そう合わそうとするような分離した在り方に、ノンデュリアリティのへちまもありゃしません。そして、今やあれらは一時の過ぎ去ったブームだったとの感があります。
真実は、一元も二元もなく、我々が求めるそのものに自然に会わされ、合わされてゆくということがあるだけでしょう。
そして、古来から悟りや救いということは、宗教的な道、即ち神的なものへの帰依と切り離されたものではなかった、という事実を知るべきなのです。
私が書いているものには何ら特別なものはありません。古来より宗教的な道で、先師たちが言い伝えてきたものばかりです。
(過去のものになったように見える)宗教で説かれてきた神は、我々の思念に取り込まれて、生きたものでなくなったに過ぎません。
しかし私は、"神は今もなお人の思いを超えて、アリアリと我々の現前に生きたもうi"、ということ、"神の道は、いつでも古くて、新しいのである"、ことを伝えずにおれない気持ちからかく記している次第なのです。
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もはや夢じゃないi

2021-01-20 11:53:27 | スピリチュアル
"今朝は何とも清々しいなあ...何かこう、この新鮮な空気が体で感じる心地よさを通り越して、身も心もすべてを覆って、浸透してくるようだよi...ただ、こうして立っているだけで...ほーら、来た、来たi...じん、じん..."

誰と話していたのか定かでないのですが、いつか見た夢のことです。夢の中で"じん、じん"と現臨というか、霊なるものに与っていたのです。
普通は夢から覚めたら、"ああ、夢だったかi"で終わるのですが、その感覚はこの現実においても続いていたのです。
まあ、大概は二度寝をしたら、すっかり消えてしまうのですが、何とかそれをキープしようとか思っている間に、微睡みの中に...ってどうしてもなってしまうのですが、自分の思いでどうとかしようというのは邪念かもしれないし、それでいいのかもしれません。
こういうことは、何年か前、今生で一度もお目にかかったことの無い、手島先生から按手(手をかざすこと)みたいなものを受けた時などもそうでしたが、覚えている以外にも結構あるようなのです。もしかしたらあまり意識的になっていない、幼少の頃からあったようなのです。
これは、自分の側からそうなろうと思ったって、目論だってそうなりゃしません。
それとは別に、"祈り心を持って寝に付く"ってことは(私などそうしようとして、いつの間に寝てしまうことも多いのですが)いいと思います。それを何か百発百中みたいに思うのはオカシイですよ。与れるものというのは、与り知れないものなのですから...
で、こういうことが私がスピリチュアルなことと感じていることなのですi
スピリチュアルな事態というのは、人間の思いを超えている...自分の思い、力、信仰、修行などに頼り、満足し、その圏内を超え出ないところには決して開かれてこないでしょう。
そこで例えば、霊界の様相はこうなってるとか、次元上昇みたいなことが語られようと、思考圏内をぐるぐる回り続けるものなどに、スピリチュアルな息吹など何が感じられようかi
こういうものの多くは、人が言っていたことに追従し、持ち回しながら取り沙汰しているだけなのです。
これは、如何にも私的なことを言っていると言わざるを得ません。しかし、私自身がアリアリと感じないスピリチュアリティなどあってたまるか、ってんですi
私には、昔から自分の思いを超えたものへの希求があったのです。こういう希求、祈りから霊なるものが開かれる...それはどこまでも一人一人の内奥からでしょう。
昔のことはよく覚えていないせいもあって、夢とも現実ともつかない世界をさ迷っていたようなところがありました。
しかし、それは確かにこの身に覚えられていたものだったのです。
あの、アリアリとした神的な、スピリチュアルな現実につながっていたのです。
今の我々の現実は、一寸前からは想像もつかない悪夢のような現実の中に居るようです。私は今でも実感が持てないくらいです。
でも、どんな現実の中にあっても、スピリチュアルな現実は貫き通されてあるのです。
アリアリと感じるものは、もはや夢じゃないi ...夢も現実も超えているのです。
この見える現実が夢のように感じられれば感じるほど、夢から覚める日は近いでしょう。
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夢と現実

2021-01-19 09:32:02 | 詩的文章
何かが命じている...

"信じなさいi
従いなさいi
行いなさいi
戦いなさいi
敵に弱味を見せてはならないi
賢く、強くなくてはならないi
前進し、高きを目指さなければならないi"

一体誰のための、何のための戦いなのか?
己のための?
自分に勝ちなさい?
自分...本当にこの僕から来ているのだろうか?
本当にそうしたくてやっているのだろうか?
でも...そうしなければならない...
だから...やめられないi
やめたくない?...
本当は、ホント~は...つらい、苦しい...
だんだん、使い古しのボロ雑巾みたいになってゆく...
これが人生ってものなのか...
夢だったらいいのにi
こんなもの、すべて手放したらどんなに楽になれるだろう...
つっかえ棒も、鎧も要らないi
てっぺんに何があるのか分からない階段を登ってゆくよりも、
最初から落っこちていた方がどんなに自由だろう...
何かのフリをするよりも、すべて明け透けになってみたい...
いや、本当に楽になれるのかなあ?
ずっと何かを背負い続けて生きてきたんだ...
分かるはずが無いじゃないか?
でも...何故思えるのだろう、感じられるのだろう...
夢か...
現実は何も変わらないじゃないか...
もう、疲れたよi
寝ようi
寝て、目覚めたらすべて無くなってたらいいのになあ...
御休みなさい...僕の、人は誰も知らない僕だけの神様i
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たまにはホントのことを書こうi

2021-01-17 08:17:31 | 雑感
"私は長年の修行によって無の境地に達しましたi...業因縁から解き離れましたi...宇宙の叡知を獲得しましたi..."

"達成した、功を成した、獲得した"...多くの人間は、このように精神的な道においても、何かが進んだような変容などがあったことに対し、それを自分自身に帰したがるものです。
そして他に認められたい欲求が強いので、そういうことをつい主張してしまうのです。
ある意味で、そうゆうことを何の躊躇いもなく表現してしまうような人は、多くの人間に根付いた、そういう主我的な心根を正直に吐露しているとも言えるでしょう。
私のような狡猾な、もっと上を行くようなエゴを持った人間は、そんなあからさまに"自分が..."、という線を出してしまうと、他者から"はは~ん、あの人はそういう人間なんだi"、と思われてしまうので、控えめな、自分を抑えた感じを装ったりするのです。
考えてもみられよ、自分が達成した、獲得した無の境地などあろうはずが無いじゃありませんか?...
しかし、そのように、私は主我的な思いが根っこにこびりついているから、他人のバカさ加減はよく分かるのです。"ああ、苦節ン十年も..."ホント、ご苦労さんなことではありませんか?(人が高い境地から転落するように、目覚めは一瞬で起こるであろうに...)
お陰様で私は良識ある、節度を弁えた、"何かの境地に達した"ような人間で居られようというものです。
主我的な思いを堂々と表してしまう人は、あの"お照らし"が照らされるままに、表してしまう...これはホントに、ホント~に皮肉でなしにご苦労さんなことです。そこへゆくと私なんかは...
たまには偽らず、正直な気持ちを吐露してみよう(いつものは一体何なのか?)...あのお照らしにあって...
私はホントに、ホント~に(そうなんだってばi)主我的な思いがもたげている時、自分自身で居られる気がしないのですi
"本当の自分で居たいi"、こういう気持ちが無いと言ったらウソになります。
でも、"自分が..."という線を出していたら、どうしてもそうならないのです。
では、どうなったら、どうあったらそうなるのか?...主我的な思いがどうともならないのは、イヤというほど知っています。
自分で離れよう、無くそうとして、そうなった試しなどありません。
しかし、神に思いを向けることは出来るのです。そして、"神に思いを向けたって、パッとなる訳でもない..."、と思っていたのが、いつの間にか、そうなってしまったではありませんかi ホントですよi
そして、自ずと思いから離れることが出来たのです。否、出来る、出来ないってことじゃなくて、これは一陣の風が吹き抜けるようなことです。あるいはこれこそがお照らしのまま、照らされていることなのでしょう。
神的なハタラキにあって...帰されるのはこっちじゃない、そっちなんです。達した、獲得した何ものもありません。
これは、"私が私で無いほど私自身になる"、ようなことに他なりません。
すべては神に帰される...ここに私がいつも神のことに触れている大きな理由があるのです。
そして、自我を出さない、敬虔であることは、モラルの問題でないことがハッキリ分からされたのです。それではダメなんだi 
これほど私自身の問題でないものは無いのですi
良識ぶった顔を装ったって、お照らしの前ではすべて明らかにされるだけですよi

このように、たまにはホントのことを書いてみるものなのです。いつも書いている?
照らされるままのことで、ホントでないものなどありません。

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即ということ

2021-01-16 09:56:39 | 求道、探究
五井先生の信者には、祈りにせよ瞑想にせよ、先生がその両方を合わせたような"統一行"を誘導していたテープを聴かないとならない、と信じ込んでいる向きがあります。
そのすべての人がそうではない、と思うのですが、何とも不自由な在り方と言わねばなりますまい。これは本当に初心者ならともかく、先生自身がそういう指導をしていたのでしょうか?
その主たる理由が、実修中、幽界からの障りを受けるからだと言うのです。その行以外の修行法は、そういうことに陥る、と本気で信じているのでしょうか?
私は長年、そのやり方を行じてきた信者で、何か憑霊的なことになっている人を知っているのですが、私にはその人は、既にそういう"幽界の何かがとり憑く"、という固定観念に憑かれているように見受けられました。
本当に邪なる霊の障りというものがあるか、どうかは私には分かりませんが、ここに"憑かれる"ことの本質的な問題が存在しているように思われます。
つまり思いに憑かれる、囚われるということです。一体、"消えてゆく姿"の教えというのはどこへ消えて行ったのでしょうか?...
こういうところから、神的なものにつながる道は、けっして開かれることはないでしょう。
テープを聞かなければならない、その機器を備えなければならない、巻き戻しをしなければならない、"後、そう、そう"...お祓いをしなければならない...神とつながるのに一体、どんだけ段取り、段構えを要するのでしょうか? そこには自己と神的なものに乖離がある...直接的でない、つまり思いが超えられないということです。
神的なものとの接触には、"神機"というものがあるのです。それは風のようにやって来て、風のように去って行くものです。
それに与るには、やり方もへちまもなく、自由、無勝手、素のまま飛び込むといった、即応性が求められるのです。
五井先生は面倒だったり、急を要する場合には、パッと五井先生を呼べ、というか、意識を向けなさい、と説いていたのですが、これはこういうことを伝えていたのでしょう。
やんなきゃならないことに囚われてたり、あれは幽界の障りだったらどうしよう、とか考えているうちに、風は通り過ぎてしまうことでしょう。
"即する"ということは、同時に自己と神的なものとが、切り離されない、正に即した意識の在り方でもあります。
それは神と自己への深い信頼から生まれるのです。幽界のなんちゃらとかに思いが引っ掛かってたら、いつまでも経っても開かれる道理などありません。
(勿論、見えない世界に関わるには、"幽界ごと"でなくとも、いくつか危険は付きまとうものです。だから神への信頼、感謝の念は、深く持ち続けなければならないのは言うまでもありません)
要するに、こういう在り方が諸々の思いを超えた、神的なものにつながる在り方、ということに他ならないのです。
これは、くどいようですが、それ以外のものに容易く脱線する、第二義以下の思いに囚われることなく、"神そのものを求めるに如かず"、ということになるでしょう。




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