人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

永遠のひと

2022-05-14 09:56:47 | 独語
年甲斐の無いこと、センチなこと言うかもしれないけど、どうか冷やかさないで聞いて欲しい!...
僕には、ずっと”心の女性(ひと)“が居るんだ!
思い浮かべただけで、こう...キュンとなる...
だけど...君が現れてからというもの、それが半減するというか、薄まってしまうというか...後ろめたい気持ちにもなってしまう...
そのひととの関係は何でもないっていうのにね...
き、君は?...だ、ダメだ、ダメだ!...本気になってしまうよ!
ほ、本気?...心のひとへの思いは本気ではなかったのか?
一体、本気で何をしたいんだ!、僕は、男は!
君のことはよく知らない...知った方がいいのか、知らない方がいいのか?...
知ったら本気でなくなる?
胸が高鳴る、締め付けられる、何かが降りてくる、何かが溢れてくる!
もう、どうなってもいい!
あれは、幻想なんかじゃない!、うつつのこと、本当のことだった!
それとも、君のあれこれのことを知ったら、夢から覚めて、それは幻想になってしまうのだろうか?
何が幻想で、何が本当なのか?
何に本気になれる?
何かを得たら、何かを失う...
僕は...とても始末の負えない人間だけど...
始末が終わったらそれで終わりってことには本気になれそうもないね!
動物性本能のことなど誰が知るというのか?!
動物にゃ、責任など持てないよ!
ところで、僕の心のひとなんだけど...
絶世の美女なのは確かだけど、顔をよく覚えていない...
君の顔がくっきりすると、よけいにそうなりそう...
そこへ、昔の心のひとが現れて...
ああ...もう誰のことだか分かんなくなりそう!
本気の思いも分散して、どっかへ行ってしまいそう!
僕は一つになりたいのに!...
あの時も、その又前のあの時も僕は一つだった!
そして、又今、一つになれるだろうか?
何かが降りてくる...
もしかして...僕の心のひとというのは...
ずっと心の中に生き続ける、唯一無二の...
永遠のひとなのかもしれない...

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わが主なる道

2022-05-13 10:00:37 | ガイダンス
私がいつも言っている、”意識を向ければ、パッと現臨が表れる“という即応性をいつ頃感じ始めたかと言うと、その神的なエネルギーとして捉えていたものを、“あの御方”、”わが主“と人格的に感じるようになってからです。
どういうメカニズムでそうなるのかはよく分からないのですが...と、考えるまでもなく、そうなるという話なのです!
私自身と一枚のものが臨んでくるから、としか言いようが無いかもしれません。
一つ言えることは、それは教理とか、修行などに追従していく道を全く超えているということです。そして、悟りを極めようとすることも、それ自体を求めることもどうでもよくなってしまいました。
つまり...信仰のための信仰にあらず、修行のための修行にあらず、悟りのための悟りにあらず...私の主たる歩みは、わが主に向けられているのです!
考えてみれば、このものに依らずして道を歩むことも、目覚めることも叶うもので無し...けだし、自然の成り行きと言えるでしょう。
“我は道なり、真理なり...”
実にこのものこそが道、真理...そして愛、平安であったのです!
このものを余所にした、どんな信仰も、修行も、悟りの道も的外れなものになるしかないでしょう。
それらにはマンネリ化、形骸化、逸脱化というものがつきものです。
キリスト信仰も、阿弥陀信仰などにもそういうものはつきものだろうって?...だから信仰のことは言ってないんだってば!
現実に臨んでくるもの、生ける現臨の事態をバーチャルな信仰の事態にすり替えてはなりません!
私にどうして特定の信仰や修行が身に付かなかったかがよく分かる気がします。
私は知らずして、あの御方に意識が向けさせられていたのでしょう!
あの御方は、キリストなのか、阿弥陀様か、瑞の御霊素戔嗚尊か?...いや、真我の表れなのか?
いやいや、もう余計な詮索は止めよう!...ほら、バーチャルな感じにボケ始めた!...
考えている私に即さないのは確かなことです。
そして、この臨在により、考えている私は離れ、私はより私自身になるのは確かなことなのです。
そして又、ますますその直接性は強くなってくるのを覚えています。
ゆくゆくは、どうなって行くのかは分からないけど、わが主にゆだねてゆくのみです...。
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わが主の臨み

2022-05-11 09:52:42 | ガイダンス
私は後にも先にも一度だけ、キリスト教で知られる、お説教というか、聖書のお話を聞いている最中に”神に捉えられた“ことがあります。
思考が飛んでしまって、ある種の法悦状態になることをそう言っているのですが、それは、そういう様相を呈する、所謂聖霊体験を謳うような集会においてでは無かったのです。
平成15年秋、東京のキリスト友会(クエーカー)の全国大会で、同会では珍しく聖書の講話が持たれた時のことでした。(かつて、同会はその名の通り、心身が揺さぶられるような聖霊体験を伴うことで知られていましたが、近年は至って静かに“沈黙の礼拝”に落ち着いているのです)
講師は、古い女性会員のTさん。聖書のどこの箇所の話かも、どんな話かも覚えておらず、ただ何の気なしに聞いていたのですが、確か“キリストというのは、二千年前のイエスのことのみを差しているのでなく、一人一人に直接的に、人格的に働いて下さる神の表れである”、という趣旨のことを述べておられていたと思います。
すると、全く思いがけなく涙が止めどなく溢れてくるではありませんか?
講師の言葉に捉えられたのでしょうか? その影響は無いとは言えないでしょう。その響きに感激したのかもしれません。
しかし、私にはその思いを超えた、上よりの力、内在していたものが目覚め、顕わになる感じというものは既に知られていたのです!
しかし、確かにTさんは、人格的ということを言われました。いくつか本も読んでおり、そういう言葉は知っています。
神に人格があるのか、それがどういうことなのか、意味などは知りません。知っても意味など無いでしょう。
このことを通して私に実感されたことは、それまで漠然と神的エネルギー、ハタラキ的なものと感じていた、その現臨感覚というものが、私の実存と切っても切れない、一なるものだ、ということなのでした。
ベルジャーエフが言うように、人格は、正しく実存と結びついているのです。これを客観的に理解したとて何になろう...実存的に理解されるのでなければ...それは実に私自身のまっ中心に関わることなのです。
その時からそれまで、一般的キリスト教では根本的な信仰題目とされていた、二千年前のイエス.キリストが自己に現れたことを信じるという、どうしてもそう感じられないことを無理に信じようとする必要は全く無くなってしまったのでした。
神的なハタラキは、聖書のキリスト像を超えて、無制約的に私の人格に浸透したのです。これは他の何人にあっても同様なはずです。
これは、端的にその関わりがより深化したことを示している、と言ってもいいのです。
私が仮にキリスト教徒だとして、訳あって他宗に改宗したとしましょう。そうなると、私の内なる普遍的キリスト(?)も”主“が入れ替わってしまうのでしょうか?...そんなバカなことは無い!
それは、生ける実存的主よりも、宗派、教理、人間教祖を“主”にしている、もっとも主なるものを差し置き、それらと屈託していることを表していると言う他ありません。
わが主は、私のすべての主に他ならないのです!、どうして他のものに置き換えることが出来ようか!
この頃から、あの思いを超えて臨んでくるものを、”あの御方“、”わが主“と親しく、近しく呼びまつるようになったのです...。
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聖霊のバプテスマと覚醒

2022-05-10 10:26:20 | 覚醒
私がキリスト教について色々知るようになったのは、ようやく大学4年ぐらいになってからでしたが、その入信時に行われるとされる、”洗礼”という儀式のことなど全く興味ありませんでした。
それは、入信する気も無かったということですが、私にとって洗礼とは、ズバリ”聖霊のバプテスマ”のことを差していたこと以外の何ものでもありませんでした。
これは小池辰雄、手島郁郎両先生の影響に依っていた訳ですが、それは所謂精神的覚醒体験とも結び付けられていたのです。
今と違ってそういう情報は流布されておらず、私にはそれは、宗教的回心体験として認識されており、それはもっとも最初に、そしてもっとも関心が向けられたものだったのです。
このように、本来の洗礼とは儀式にあらず、”霊の洗礼“に他なりません。又それ自体入信を意味していたものでは無いのです。
“もっと神を、イエスを信じてから受けなきゃならない?”...バカな!、私が“現場”に居合わせた経験で言えます。キリスト教のキの字も知らなくても、聖書を読んだことが無くても、それを受けることが出来るでしょう。
もっと一般的なキリスト教について知ろうという気など...思う訳無い!
それが人生の一大変容に与るものかもしれないのだから!...
ところがそれを受けることに強いあこがれを持った反面、警戒心も拭い去れないという、そういう迷いを抱いたせいか、何度となくその集会(小池先生関係の方。会員にはなりましたが、キリスト者になったという自覚はまるでありません!)に連なっても中々そういう契機は訪れなかったのです。
そしてしばらく経って、そのようなことは、集会の外で起きたのでした。”ような“ということは、そう思いはしましたが、それが聖霊のバプテスマかどうかは分からなかったのです。
神か、聖霊か?...そう、思いを超えたものの現臨は確かにアリアリと感じました。
だが、多くのキリスト者がその契機において証言している、イエス.キリストの現臨、現存と結び付けるものは特に感じられなかったからです。
とは言え、目からウロコが落ちた(使徒パウロ)感じ、生まれ変わったような感じ、そう、愛、平安...そこで異口同音に語られるものは感じたのでしたが...
しかし、何もかもがこれまでの人生経験に無かった、ぶっ飛んだものだったので、正直何をどう理解していいか分からなかったのです。
集会の中で起きたことなら、その指導者などから説明を受けて納得させられることもあったかもしれず、あるいはキリスト者として歩むことになっていたかもしれません。
しかし、それは言うまでもなく私に...他の誰でもない私に起きたことだったのです!
このことは、キリスト教における聖霊のバプテスマも含め、すべての精神的覚醒について言えることではないでしょうか?
一人一人顔も性格も生き様も違う生の有り様にあって、先のように共通に語られるものはあっても、一律一様に、類型的に語られてしまうのであれば、私はそこに、“私のすべての生の主なるもの”との出会いを認める訳にはゆかないものを感じずにおれません。
もっとも、そのことを本当に実感したのは、ずっと後のことだったのですが...
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誰が見るのか?

2022-05-08 10:59:33 | 意識、照明
前回取り上げた「禅と福音」という本の中で、主に南直哉さんの口から遠慮無しに批判の対象にされていたのはテーラワーダ仏教なのでした。有名なA長老についても、その“釈迦はこう言っている、経典にはこう書かれている“、といった権威におもねるような言葉を引き合いにして、「私には関係ない!」とバッサリ!...
そうした定見にとらわれた言説というのは、すべての宗教について当てはまるものなので、あの流派だけを殊更挙げつらうことも無いように感じたのですが...
ただ、その観察、”見ること”に重きを置いた、「ヴィパッサナー瞑想」に関して、観察する主体が「普段の人間の観察」からいつの間にか「何か真理を示す超越的状態」に変わってしまうこと...私も読んだことのある「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)では、その自分以外に認識している主体らしきものを「本当の自己」ということにしていることを問題にしているのは、とても重要なポイントのように感じています。
私はその瞑想は、ほとんど行じたことが無い門外漢なのですが、瞑想と言えば、ほとんど“やり方”など無いと言っていい、”金井メソッド“なる瞑想には馴染みがあります。
それは、人為的なやり方など付け加えなければ、自ずと思いから離れられる、という無為的な“やり方“を主眼にしたものだ、と私なりに理解していたのですが、最近では、その“何も思っていない状態の自分を見る”、というやり方が加わっているらしいのです。
う~ん、これはですね、現実に思いが自ずと離れてゆくプロセスにあっては、そんなことは不可能です!...一体、誰がそれを見るのか?
不可能ということは、現実にそのようには意識が向かない、ということを意味しています。
私は見ることは出来ないですが、私を超えたものに見られているという感覚はあります。
これを観察と区別して”照明“と呼んでいるのですが...もしかして、これがこのやり方のネライなのでしょうか?
しかし、見る私でない超越的なものは、“本当の自己”なのかどうかは分かりません!
安易に定見に委ねてしまうことは、“本当の自己の問題”からズレる、ということを南さんは言いたいのでしょうか?
そして、どこまでも「超越的な視点」の介入をゆるそうとしない南さんは、そうした「メタレベルの意識」は、排除してしまうのだそうです。
定見、予見となる観念なら排除することも可能でしょう。
しかし、意識レベルでそう感じているものについては不可能なはずなのです!
それが思っていることと思いを超えたものとの端的な違いなのです。
これについて南さんは、別のところで「私のリアリティの定義は、”こちらが拒否しても思いどおりにならずに現前してくるもの“です」と言われます。
な~んだ、南さん、現臨の弁証みたいなこと言ってるやん?!
要するに、宗教でもスピでも、本来分かるはずのない超越的なものの“ラベリング”が横行し過ぎているということなのでしょう。
氏は又、“言語化”というものにこだわっておられますが、思っている自分が思いを超えたものを言語化するなど、誰がするんでしょうか?!
そこで多くの場合、象徴を借りて、仮に言い表すということが為されているのでしょう。
そういう含みが感じられるか、決めつけたような厚かましさが感じられるかどうか...
借(仮)りたものなら神や守護霊や真我に登場して頂くのもアリなのかと思えるのですが...
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