人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

分裂の無い道

2022-05-22 10:08:26 | 求道、探究
五井先生の白光会をやめられた、ある方が、”「世界平和の祈り」は今でも好きだけど、五井先生は好きになれない“、という旨のことを言っていたのですが、私はこれが全く理解出来ないのです。
その祈りは、五井先生が始められた訳だし、切り離して考えられないものでしょう。
会の方で指導とかで色々説かれ、そう、色が付いてしまった、それらのものが、嫌いになる、受け付けなくなったというのならよく分かりますよ。この方の場合も多分、このことが関係しているように思われます。
ちなみに私はその祈りを特に好きになったということは無いですが、祈りという道から人生が大きく開かれたことを思うと、今でも先生のことを敬愛しています。(狂信者の言葉などに接すると、ムカムカしてきますが、そこは切り離さないと...)
何かパッと意識が向くと、パッと霊なる現臨と共に、“見えざる五井先生”が臨むように感じることも時折あります。
よく考えると私の人生で、ホントに好きになったもので、嫌いになったものというのは無いんですね。
好きになる、惹かれるものがある、というのはもう決定的なものがあります。
それは、理屈では無い、分裂が無いということであり、すべてで一つの在り方と言えます。
そして、それは、おのずと意識が向けられる、動くということ...だからどうしようもないことなのです!
それに色々な思いで、実用的でないとか、流行りでないとか、”ヘンだ、皆からバカにされる“とか、ゴタゴタ余計なものを付着させて、見えなくさせてしまっている...きっと後悔しますよ!
それで幸福を取り逃がしてしまうのだから...
もし、思考機能というものが後退して、そういう余計な思惑を巡らすことが出来ず、何を頼りにしていいのか分からなくなった時、直に感じられ、暗夜を照らす光のようにも道標となるものは、そうした、おのずと意識が向く、動くものでしょう。
このことは、そういう局面でなくとも、“普通に考えても”分かるはずです。頭の中がごちゃごちゃでいっぱいでなければ!...
え?...好きなもの、惹かれるものが沢山あって、ごちゃごちゃしている?
そりゃあ、分かる!...分裂しそうだってことも...あれとかこれとか比較するから分裂するのです。”分別心“でするから...
そこは、ただ“好き、惹かれる”ということを感じ、意識していたら(そうしている私は一つなのです)、一つ一つが切り離されず、何か全包括的なもの(これが現臨?)にすべて包まれるようになります。
ただ、ホントに好きな、惹かれるものは、すべてで一つのものしかないのでしょう。
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実存的未来予言

2022-05-21 10:40:02 | スピリチュアル?
”人は、知っても何にもならない知識ばかり追い求める...それは断片ばかりで、解体された生命体のように生きたものではない!...
真の知識は、智恵、叡智...生命に根ざしたものであり、小智のとらわれから解放された時、おのずから与えられ、開かれるものなのであった!...”

私がこのような契機にあってから、どうしてもぬぐい去れなく感じていることがあります。
それは、世界的、人類的規模で我々の精神、意識構造が変容してしまうエポックが到来するであろう、ということです。
いつも、来るか来ないか分からない、確証の無い未来予言のような言説に対し、批判的なことを書いているのですが、私はその実...突拍子の無いことを言う人間で知られていたりして?...
そりゃあ、来ない先のことは分からないですよ!、だけど…私は現実に、現在においてそう感じたのです。
何がリアルなもので、何がそうでないかが示されたのです。未来のことよりこっちに力点がかかっているのです。
言い換えると、それは私の現実の問題、実存的問題と切り離されていないのです。
断片的な、死んだ知識は、五井先生流に言えば”消えてゆく姿”でしょう。
命に根ざしていないものを指向する、思考は淘汰されてゆくのではないか?
そして、生きた思考が、超越的な思考、あるいは原初的思考が降下され、あるいは呼び覚まされる...
つまりは、私自身の実存的なリアルな気付きは、普遍世界と結び付いたものとして感じられた、ということに他ならないのです。
このようなことは、しばしばスピ界隈では、アセンション~次元上昇と関連して語られるものですが、私にはこうした言説は、実存的問題と切り離されたならば、ただのゴタクにしか感じられません。
私は一時(そう、21世紀に入る直前頃)、“地球がフォトン.ベルトに突入する“、とかいった説に傾いたこともありましたが、何かを裏付ける科学的根拠のことなどは、ホントは実存的問題に照らせばどうでもいいことなのです。
聖書の終末予言も、種々の真しやかなご託宣を交えて語られるものですね。
人類未来のことは、今自分がリアルに何を感じているか、ということでおのずから示されるのではありませんか?
小池先生はよく“終末的現実”、ということを述べられていましたが、おそらくこの消息を言い表していたのでしょう。
それはすでに始まっているのではないか?...審判はすでに降されている!
全く中身の無い、薄っぺらな言葉の氾濫...全く命に根ざさない言葉、思考の末路を目の当たりにしている如くではないか!
このことが同時に、それを超えた、遠い昔、我々が失ってしまった意識の有り様を想起させるのではないか?
思考が生きたものに生まれ変わる!...それは頭だけでない、存在すべての生まれ変わりと言っても過言ではないでしょう。
それは何よりも、思いを超えた現臨にある時、いつも感じさせられていることです。
それは、来るべき霊なる新時代の予感を呼び覚まさずにおれません!...

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書かれざる経典

2022-05-19 10:14:39 | スピリチュアル
宗教、スピ、哲学...精神の道には、数多の教えがあり、そのいずれに共感、信従するかは人それぞれでしょうが、果たしてどれだけのものが役に立っているのでしょうか?
役に立つとはこの場合、この世的な実益的なことではなくて、我々の精神の深みへと導くものであり、当然のことながらその世界にも生き得るものという意味です。
そもそもがそれらの道とは、そういう世界を目指すものであり、教えとはその要求を満たすものでなければならないものでしょう。
勿論、そこにはそれに関わる、我々の精神的姿勢に依るところが大きいのは言うまでもありませんが...
何らの確証も無い単なるオカルト的興味ばかりを掻き立てるもの、ただ字面を追うだけの、表層的理解に留まるもの、例えば”元々人は神と一つのもの“、といった深遠そうな教説でも、頭で分かったつもりになっていても何にもならないでしょう。
このようなことは、もはや考えることが出来ない、信じることも疑うことも出来ない、思考機能が失ってしまったような契機にあって、おのずと示されるでしょう。(それを“分かる”という風には言えないというニュアンスは、この理由で伝わるでしょうか?)
これが先に精神の深みと言った領域に他ならないのです!
そこには、数多の教えみたいなものは何も感じられません。如何に我々は諸々の有りもしない、”役に立たない“空想ごとに囚われていたか、ということが示されるばかりなのです。
現前するものは、一つですべてのものしか無いかのように感じられるばかりです。
それは何か?...言える訳無かろう!
ただ、こういう風には言えるでしょう。それは数多の教えの言葉、その語感だけからは伝わらないが、その言葉が指し示すもの、あるいはそれが根ざしているものは伝わってくる...要するに言葉を超えたものは、“直に”伝わってくるのです!
それは、“あっちではこう言っている、こっちではああ言っている”、なんて感じられる訳ないでしょ!、感じてみられよ!
そう、感じられるのです!...頭脳知で追うことは出来ませんが...
どうして感じられるのか?...天来の叡智のようなもの(これは、言うまでもなく、頭脳知のことではありません)に与り、あるいは内在していたそれが呼び起こされるからです。
いや、それだけじゃない!...多分、“数多の教えのようなもの”に接して来たからでしょう。
そこで精錬され、濾過され生きている、表されざる言葉とそれらが一つになって、あたかも“書かれざる経典”みたいなものを読まされている如くなのです。
しかし、このようなことは、精神の深みになければ、与り知れないのかと言ったら、そんなこたありません!
誰しもが経験していることじゃありませんか?
魂が揺さぶられるような共感、天来の叡智...しかし、あの契機にあって、それらのどれが書かれざる経典に含まれるものかは分からないのです。
要はどれだけそれが精神の深み、即ち意識次元に根ざしたものか、ということに関わるのでしょう。
意識に根ざしたものにするには、知性ばかりでなく、おそらくそれ以上に感性が必要でしょう。
精神の深みにおいては、知的なことと感覚的なことは切り離せないものなのです。
感性と切り離された知性は、それ自体知的でないとも言えるでしょう。(知性的でない私が言うのもなんですが...)
テンでバラバラの数多の教えで溢れかえっている、精神精神の現状が物語っているように...
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現臨にある時

2022-05-16 10:05:22 | 現臨、ハタラキ
例によって今、現臨にある状態にあって書いています。
言うまでもなく、多くそうでない状態もあるということなのですが、リアルな私の生というのは、こういう状態のようにも感じています。
リアルに感じる...これが現臨感に他ならないのです。
この世の時間に合わせてその状態が五分くらいだとし、後のほとんどをどうでもいい時間を過ごしたとしても、私はその日、リアルな時間を過ごしていたのです。
それを相対的な時間で捉えることは出来ません。これを実存的時間と言ってもいいでしょう。
瞑想などの修行をしている時をそのように言ったりもしますが、そうとは限りません。
そこに、“あの御方”が臨むとは限らないからです。
瞑想の諸々の技法や、修行者の努力などがその状態をもたらす訳ではないのです。
ただ、瞑想が深まって、そういう意志的な力を超えた状態は、”それにある“とは言えるでしょう。
こう言うと、その状態とそうでない状態があるように感じられるかもしれませんが、それこそが相対的時間に囚われてしまうということなのでしょう?
現臨というものが感じられない時、そのものはどっかにお留守になっているかというと、そんなことは無い!、ある訳無い!
そうなったら、多分私自身居なくなってしまうでしょう。
そのものは、諸々の表層の思いに隠れているだけなのです。思いは来ては去って、変転してゆく...
現臨こそは常住のものなのです。
現臨にある時、過去と現在を距てるものは感じられません。
過去を思い起こすと、過去の自分はまだ未熟で、年月を経て段々成長してきたようにも思えます。
しかし、未熟だったのも確かですが、そうした思念による記憶とは別の、”身に覚えている記憶”に照らしてみれば、そこに何の違いもないようにも感じられます。あの時も今も現臨にあったから!
身に覚えている記憶は、意識に根付いているもの...それが現臨にある状態に他なりません。
少なくとも私には、それが自覚的で無かったのは勿論ですが、物心付いた時から身に覚えのあるものを感じています。
それを考えると、一体私の何が大きくなり、何が成長するのか、テンでに分からなくなりそうですが、段々そのものが顕わに、私と一つになってくるのが自覚されて来ている、ということは言えるでしょう...。



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すべてデタラメだけど...

2022-05-15 09:58:51 | 雑感
私は日に日に”わが主“と一つとなってゆくのを感じています。
これは度々触れているように、私が修行などして、段々そうなって行く、というようなことを言っている訳では無いのです。
自分を変えようとして変わったことなど一度もありません。
自分を変えようと思ったことはありますが、そうして変わったと思ったことは、正しくそう思っただけのことなのです。
自分の思いで何でも変えられると思っている人は、自分の思いを止められるはずですよ!
こういう思いはもう懲りてます。変わらん自分に懲りてます。
自分で変われる、何かになれる、悟れると思っているというのは、そうなるものに成りすますということでしょう。そうして本当に主なるものと一つになる道が閉ざされてしまうのです!
だからこそ、絶対他者なる主を頂いているのです。
言い換えれば、それは私という人間がどうにも、イイカゲンで、アブなく、始末に負えないということなのでしょう。
こういう次第なので、私は自分を律するというか、克己する精神に欠けており、社会生活をしてゆく上で欠点になっているのは自覚しています。つまり、日頃エラそうなこと言っているけど信用は無い!
そう、デタラメなんです!...
しかし、私はそうでもあの御方は...デタラメな訳が無いだろ!
それがデタラメだったら、世の中のことはすべてデタラメですよ!
いいや、そうじゃない!...世の中デタラメだらけなんじゃありませんか?!
本当に信じれることってあるか?、安心出来ることは?、いつ核ミサイルが飛んでくるか分からない...段々自分が変わる?、何かになって行く?...明日という日は来ないかもしれない...
だからメンドクサいことはいいの!
しかし、こんなデタラメ極まる世の中にも、デタラメでないものもあるはずですよ!
こんなデタラメなのに何で今日も日が昇るのか?、なんで公園にチューリップとかバラの花が咲いているのか?...ベンチで本読んでたらクモが手の平に降りて来て、こっち向いて挨拶したぞ!(なんか目がいっぱいあってデタラメな顔だけど、案外可愛いです)
信じていいのか?、って信じるも何もそうなっているんです。安心していいようだ、今日という日を!
デタラメなものは、デタラメでないものと一枚になっているのです。
デタラメなものは、デタラメでないものになる必要はありません。
三日月、半月、日食...隠れているもの、部分的に見えるものは、それが全的に顕わになることを予想しているのです。
そのものが顕わになったら、デタラメでなくなるのか、どうかは分かりません。
ただ、それが顕わになるままに化してゆくにゆだねるしかないでしょう。
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