人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自分自身の問題

2022-06-07 09:31:24 | 意識、照明
意識のことについて触れることは、とても微妙な表現とならざるを得ないのですが、“意識を何かに向ける(いつも言っているのは現臨)”とか”意識的になる“、というのは、ほぼ同じことを言っているのです。
前者には、向ける対象がある、というニュアンスが感じられるでしょうが、そういう二元的”段差“というのはほとんど無いことを言っているのです。
”現臨にある“、という状態は、意識的になっている状態なのです。ですから、意識が向かない、向けられない現臨というのはあり得ません!
現臨について何か考えているというのなら別ですよ!
私はよく神について、霊なるものについても言及していますが、同じことが言えます。というか、それらも現臨と関連しているので当たり前なのですが...神の、霊の現臨なのです!、実体が何だか分からないから、神、霊なのです!
しかし、だからなのでしょうが、宗教、スピ界隈には何と、“あの神”、“この霊”だとか、それらについての数多の空想に基づいた言説で溢れていることでしょう!
そういうものに意識が向けられるでしょうか?、意識的になれるでしょうか?
思念なら向けられますよ。思念が動く、動かす、ということと、意識が動く、自ずとそうなる、ということは根本的に違うことなのです!
神、霊は実在しているのか?...これを一般論、抽象論、他人ごとでなく、自分自身の問題として考えられるでしょうか?
つまり、実存的な問題と切り離さずに、ということです。
“神は、自分自身と別在するものでは無いのか?”
すると、最初は考えごとになっていたものが、段々意識的なことになってくるのが感じられてこないでしょうか?
これは、一度でも神的なもの、霊なるものを人伝で無しに、直接感じたことがあるのならお分かりになることでしょう。
自ずと意識が向く、意識的になる、ということがどういうことなのか、が!
自分自身のこと、実存的なことはそうならざるを得ないのです!...
私が現臨という表現を好んで使う理由は、ともすれば思念に囚われて、宙をさまようことになり勝ちな、神、霊についてのあれこれの思念的在り方から、その本来の、”超越的なものと実存的なものは切り離されない“、という意識的な在り方に立ち帰る、というところにあるのです。
神、霊なるものと我が実存との関係は如何?...これほど自分自身の問題など無いではありませんか?!
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レベチなるもの

2022-06-05 10:24:04 | スピリチュアル?
多少なりとも精神的な道に関心を持った方なら、思考マインドから離れることが如何に重要なことであるかは分かるでしょう。修行というのはそのためにあると言っても過言でない、というように...
しかし...ネットなどに接してみて、如何にその界隈には、思考マインドの渦が取り巻いているか、ということを感じたことはないでしょうか?
ことに悟り系のスピ関係において...“悟りと覚醒、一瞥体験は違う...”、“誰それはまだ悟っていない、中途のレベル...”、”元々悟っているのだから、何もする必要が無い...“
いや、もう悟った人というのは、ホントにエラいもんだ!、すべての上からだと何でも分かっちゃうんですねえ、人間じゃないみたいですよ!...お陰さまで、ああいう人間になるくらいなら、ああいう渦に巻き込まれるくらいなら、フツーに泣いたり、笑ったり、バカを見たり、人間らしい人生を全うした方がはるかにマシだ、ということを“悟り”ましたよ!
私がそれらに接して、まず感じることは、その思考マインドがどこで超えられるのか、どこにその際があるのか、何がそれを超えせしむるのか、という部分がとても曖昧だ、ということなのです。
だから、完全覚醒、悟りの究極の境地(こういう如何にもエゴをくすぐるものを作り出したのは、一体何ものなんでしょうね?)というものがあるとして、中途の段階を超えてその境地へと目指すものは、その主体が何なのかが分からなくなってしまうのです。何がどうやって何を目指そうというのか?
思考レベルは、とっくに超えたのでは無いのか?、為そうとする意志のレベルも!
超えたのなら、思うことも、為すことも何も無いのでしょう?
要するに、その超える、超えせしむる主体がはっきりしていないということに尽きるのです!
”だから、元々悟っているのだから、何もしないでいいんですよ~“、って、そうじゃないでしょ!
それは、そう思っている、信じているあなたじゃなくて、そうなっている別のあなた、もしくは御方が言うことなのです。
つまり、レベルがなんだかんだじゃない、レベチなるこのもの無くして、どうともなりゃしないのです!
このものの前に私は何ものでも無い!...道を歩むことも、その入り口に立つことも出来ないのです!
そのすべての道の主導となるもの、主体と言っていいでしょう。このことは道の大きな節目にあってはっきりすることでしょう。
思考、為すことはその節目から置いていかなければなりません。
我々はただ意識的になるだけ、否、意識的状態に置かれるだけでしょう。
考える私がそれに参与することは出来ませんが、意識の動きを感じることは出来ます。
それは、どこへ、我々をどこに導こうとしているのか!真の主体者にゆだねるのみ...“ゆだねるしかない!”とは、こういうことを言っているのです!
だから、悟りについての諸々のエラそうなご託宣は黙るしかないのです!

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業生の自分が悟るのではない!

2022-06-04 10:17:20 | 求道、探究
宗教でもスピでも、精神的な道を歩んでいる人というのは、とにかく今の自分の有り様から変わりたがるものです。
私も御多聞にもれないクチだったのですが、変わろうとして変わったタメシなど一度としてありませんでした。
しかしながら、“もう、いい!、ヤメた、ヤメた!”、とサジを投げたら、ぱーっと何かが開かれた感じになったりとかありまして...皆さんも経験があるのではないですか?
何でそうなるのか?...もう、分かり切ったことです!、それは意識してかしないでか、思われた自分を手放すことをしている、させられていることだからです。
これは、正しい自分、進んだ自分、悟った自分になりたがろうとする人間には絶対に分からないことなのです。この道理の分からない長年の奮闘努力、いやご苦労さんなことです!
何になろう、たって、ありのままの自分にしかなれっこないのに...
デキナイ自分、ダメな自分、悪い自分...多くは自分でそう思っているだけなのですが...認めたくない!、見たくない!...だから、”変わらなくっちゃあ!“...だからいつまで経っても変わらない!
このことをもっと深く言えば、ありのままの自分を認める(認めるも何もそうなっているのです!)ということは、現臨に与ることにつながってくるのです。
何かになろうとする思いから離れ、それを超えたものにゆだねることが出来るのです。ゆだねられるものがあるのです!
これは、自分からは中々そうなりません。このものが臨むことと、ありのままの自分を受け入れることは一つのことと言えるでしょう。
自分の思い、力に頼ろうとする人間は、いつまで経っても現臨の光を受けることが出来ないのです。それがありのままの自分を映し出すに他なりません。
業生の人間は、どこまでも業生の人間...ありのままの自分を受け入れられないことが最大の業ではないだろうか!
“業生の自分が悟るのではない!”...自分の思い、力をどんなに改良したり、強化したり、それを積み重ねようとしても、けっして真我の目覚めには至らないでしょう。
本当の自分?...ありのままの自分を置いて、一体どこにそれがあるのだろうか?
それから離れて、一体何になるというのだろうか?
ありのままの自分に現臨が臨むのです。
現臨と真我というものは切り離されないものなのでしょう。
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現臨とお任せ

2022-06-02 09:59:00 | 現臨、ハタラキ
私は、ここでよく、”任せる、全託“、ということを言っています。
こういう表現は、例えば人生において、ある岐路に立たされて、どちらに行こうか、決めあぐんでいる時、“天にお任せしよう!”、などと使ったりしますが、ほとんどそういうニュアンスで言うことはありません。
勿論、そういう状況というのはある訳で、天にお任せしたつもりになることもあり、結果上手く行くこともあり、スコタンを食うこともある...それが人生というものですね。
天の、神の意志は那辺にあるのか分からないのです。
だけど、人生には思いを超えたものが介在することもある!...その実体は何か分からないが、このことははっきり分かります。
そう、ここで言っている、“任せること”というのは、ほとんどの場合、現臨との関連で言っているのです!
つまり、どこにあるのか分からない神の意志にゆだねるということじゃないのです!
というより、言葉ではそう言うけど、現実に任せる、ゆだねる、なんてこと出来るでしょうか? 任せたつもりになるだけじゃないでしょうか? それは、自分の思いでそう決心するというようなことでしょう。
意識が現臨に捉えられるということは、そうしようにも思考が後退(無くなる訳ではない)してしまうということなのです。
だから...任せるしかない、ゆだねるしかない!、のです!
これは、そうさせるものがあって、始めてそうなることなのです。
これを難しいとか、何とか言うこと自体オカシイことでしょ!、いくら修行したって無理ですよ!、無為に行われることというのは!
で、そうなることは、良いことなのか、スコタンなことなのか?、って!
人生には、良いこともスコタンもあるだろう...だけど、この不如意な事態っていうのは...良いに決まっているだろーっ!
”天に任ようか、しかし私の思いではこうしたい...“、な~んて思いを超えて、既に幸福に与っているのですよ!...だから任せるしかないのです!
とはいうものの、ゆくゆくはそれが天の、神の意志だとして、私をどこに導くのかは分からないのです。
まだ、そういうことを“考えられる“からそう思うのでしょうが、ゆくゆくは全託しかないということになる...かもしれない?...




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天の岩戸は開かれている!

2022-06-01 10:59:13 | 詩的文章
天の岩戸はとっくに開かれてある!
幕はとっくに取り払われてある!
方便の世はとっくに過ぎた!

神は居るとか居ないとか...
私を何とでも呼ぶがいいが...
居るか居ないか分からないものを呼んでいる空しさよ!
いつまで私を岩戸に閉じ込めているのか!
天の岩戸は開かれている!...
心の岩戸、はよ開けよ!
いつまで私を探しているつもりか?
分かるとか分からないとか...
分かっても分からなくても、空気はある!
日が昇る、光が差し込む...
日はとっくに昇っている!
お前は生きている!
そのお前だけで生きているのではない!
私が生きているのだ!
だから、お前は生きている...
私はいつまでも岩戸の向こうで、動かずになどいないぞ!
祀られてなどいないぞ!
お前は私...私はお前...二つで一つ
隔てる何ものもないではないか!
呼べば、応える!
打てば、響く!
触れれば、確かな感触!
切れば流れる命の血潮!
お前のすべてのことは向こうからでなく...
ここから始まるのだ!
もう、始まっているではないか!
私はここにある!

天の岩戸はとっくに開かれてある!





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