人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来のノンデュアリティ?

2022-11-06 10:02:20 | スピリチュアル?
最近の私は、盛んに”何々と何々は、切り離すことは出来ない!”、ということを言ってますが、それに触れて、”ハハーン、この人は、ノンデュアリティの人なんだ!“、と思う方もおられるかもしれません。
そういうことを言っているには違いないですが、そこは世に言うノンデュアリティ、非二元の道とは“切り離して”もらわないと...私はどんな思想的立場、学派、宗派からも自由でありたいんですから...
もっとも、ブログを始めた一時期、ああいう道にカブレていたことは認めます。だけど、それは到底、心から首肯出来るものじゃなかったのです。
大体、その宗派の人たちがこぞって“私は居ない”、“すべてはストーリー”、だとお題目のように称えていたのが、アタシャ、もうムシズが走るようで受け付けないです!
“そんな宗派などない!”、と彼らは言うでしょうが、このこと自体がそれを浮き彫りにしてるじゃないですか?
ああいう教えを説く教師が居て、それに追従する信者たち...この構図がもう、本来直接的な道を指し示すはずのノンデュアリティから逸脱しているのです。
それは、本来一人一人の実存と”切り離されるものではない!“、はずなのです!
その説かれる内容が、一元的だろうと、二元的だろうと!...
実存的在り方がそのいずれかに分けられてしまうこと自体、その分離化の最たるものではないか?
”神は、自己と別在する二元的存在である!、元々悟っているのだからそういうものを借りる必要はない!”...すべて己の観念で完結してしまう世界、それを”信じること“、思念だけが支配している世界...数多の宗教がたどる道と何ら変わりがありません。何たるギマン、茶番であろうか?!
私の実存に照らして、強調せざるを得ないことは、その、ぶ厚い観念の覆いを突き破って、二元(と考えられている)の彼方から、実存に直接タッチしてくるものがある(一元化?)、ということです。
自分の思いを超えたものには、それにゆだねなければなりません。
多くの非二元論者が説く、“自分はない、全体しかない!“、という果てしなく広がっているだけの空的な全体には、どうにもゆだねようがありません! ゆだね...させるものがあるのです。
この、私がよく現臨と呼んでいるものにある時、それは空々漠々たる全体のようには感じられません。ある局限的なものとして私に直に関わる何かでありながら、そこにはどこにも際というものが見当たらない、無限性も感じられる...そこに何か自己の“ますがた”のようなものが感じられたのです。
一元であって二元、超越的であって内在的...相対世界を生きていて、絶対的なものを内に根差して生きるもの...人間存在とは、相反するものであって、切り離されないものの極点なのではないでしょうか?!
これが当たり前の人間というものなのでしょう(裏を返せばこんな当たり前でないものは無い!)。
言うまでもなく、ここでは、生きている人間が、生きている人間のことを、生きている人間のために書いているのです。何ら特別なことはありません。
特別な教えも理論もメソッドも..._みんな、一人一人の私を、つながり合って生きているのだから...

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人間のますがた

2022-11-05 10:04:26 | スピリチュアル
“ゆだねてもヒトとしての意識はありますよね?”

いつもコメントを下さる方からこのような言葉が述べられていました。
正直、ビックリさせられました。
この言葉だけを切り取っても、コメントの全体がどういうものなのか、読者には伝わらないでしょうが、何度もコメントを交わしたことがある私には伝わってきます。
そして、最近この方とどうしても同調し合えないものを感じたのですが、それが那辺に要因があるのか、ということも何となく分かりました。
ゆだねる...勿論、この場合思いを超えた神的なものに、です。それでヒトの意識はあるのか?
あったりまえでしょうが!
この方には、何かゆだねることが人間のレベルを超えた(この“超える“という表現がそういう響きをもたらすのか?)、別次元へと移行してしまうことのように捉えられていたようですが、多くの人もそういうイメージを持っているのでしょうか?
まあ、考え方、感じ方は色々なんでしょうが、私の感じでは...ゆだねることで初めてヒトになれる、いやヒトの完成体というものが、どういうものなのか分かりませんが、少なくとも、初めて“私は私で居られる“、という意識状態になれる、というものです。
私が最近シツコイほど言っている、”超越的なものと実存的なものは、切り離すことが出来ない!“、というのは、この消息を伝えているのです。
多くの人は、人間存在とは自ら考え、為すもの、と捉えられているのかもしれません。だけど、それだけがすべてでないことは、考えれば、いや感じてみたら分かることでしょう?
考え、為すこと以上のものに与るには、それを超えたものにゆだねるしかありません。
その超えたものとは、人間とは別次元の神なのでしょうか?...これは勿論多くの人が抱いているであろう固定観念に過ぎません。
それについて私の心象には、知られざる人間の、断面、一部分ならざる、”ますがた”のようなものが映し出されているのです。
部分的なものがすべてと思っている人間は、この“ますがた“から分離しているのです。
あたかも、三日月や半月が月のますがたであると錯覚するように...
すべてと思い込んでいる、幻想の世界からいくら本体に至ろうとしても、そこからは、超えられないでしょう。
しかし、半月のもう一つの面は、見えないだけでずっとそこにあるのです。
そして、そのますがたは、必ず顕わになるようになっている...そう、それはなっているのだ!
この部分的に見える人間存在は、そのますがた目指して進化しつつあるのでしょうか?
これ又感じ方は人それぞれですが、私にはそこには、上へ、上へと絶えず上り詰めることに駆り立てられ、人間を超えた(先の超えるという言葉との言い回しの違いにご留意を!)別の存在へと変貌しよう、という人間の宿業的思念を感じずにおれません。
そこには又、その本来性から分離してゆくもの~とどのつまり、それは飽くことの無い思念ではないか?~が感じられます。
人間は、その本来のますがたからは切り離されては、そもそも存在すら出来ないのではないでしょうか?
私にとって神的なものにゆだねる、ひいてはそのますがたに目覚めることは、本来の私に帰ることに他ならないのです。
そして、私が日々感じていることは、今はますがたの方が徐々に顕わになって、そこからのハタラキも強くなってきた、ということです。
どうもそれは、“つながり“という言葉が頻繁に聞かれるようになってかららしいのですが...
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「私」を意識してみる

2022-11-04 10:08:38 | 意識、照明
今日は珍しく一寸したエクササイズを試みたいと思います。
よかったらお付き合いのほどを!...
やることというのは、言葉にすれば至極簡単なことです。それは...

”私を意識してみる”

それだけ!...って、バカバカしいですか?
これは、全く漠然としていて、摑み所が無いと感じるのがフツーだと思います。 だけど、私のことなんですよ!...あなたである私のことは、あなたが一番よく分かってるのでは無いですか?
そうなんです!...私を意識すること自体が困難なことなんです。考えている自分からは!
多分、こういう風に振られて、肉体の自分を意識した人も居ると思いますが、だから大抵、私の肉体、私の思いなどに摑み所を求めているのです。そして囚われる...
私がここで問うているのは、一切の先入観、固定観念を交えない純然たる”私、自己なるものについてです。従って、”私は肉体”というのは、そういう観念だということが分かるでしょう?
ここで、もしそこに考えている私を超えて、何かに見られている...見ているものがある、という感じを持たれたなら、説明を要しないのですが...
その見ているもの(私は多く”照明”と呼んでいます)に何か照らされているような感じにある時、観念の支配を受けない、肉体でも精神でもない、「私」そのものが意識されるのです。
これを実存感覚と言ってもいいでしょう。
この“見ているもの”とは、一体何なのでしょうか?、言うまでもなく、見ている、見ようとしているあなたのことではありませんよ!
自分とは別在している、神とか、何か超越した存在なのでしょうか?...しかし、それも先入観、固定観念なのではありませんか?
私はよく神について言及していますが、本当のところは分からないのです。
ただ、その考えている自分を超えて見ているものにあって、“私はここに在る”、と意識されるものということは分かるのです。
私そのものが意識される時、そういう観念から離れるためか、肉体感覚が希薄になります。
といって、何も肉体が消えて、固定観念に輪をかけた、“霊体“のようなものを空想している訳じゃありませんよ!(そういうものもあるかもしれませんが...)
私に実感されるものは、肉体でも精神でも霊体でもない、そのように分離出来ない、合一的な何かなのです。
その実体は何か分からないが、それを一つに在らしめているものは、私の実存感覚のようなものでしょう。
同じことは、超越的なものと、その実存的なものについても言えます。それは切り離すことが出来ない!
つまりは...こういうもの共々が感じている私を超えた、「私」であることが意識されるのです。
...というのは、あくまで私が感じていることに過ぎないのです。”へえ、そうなんだ!”じゃないっつーの!
あなたは、あなた自身が感じなければ無意味ですよ!
この試みがちっとは、直接体験の道のヨスガにはなったでしょうか?
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何度も戻される

2022-11-03 09:28:44 | 雑感
何度も何度も同じこと言ったりするのはツカレますね。
聞かされる方もイヤになってしまうでしょう。
人間て本当に懲りない生き物だと思います。
我ながらそういうのは、シンドイと思いますよ。又迷いが生じます。
そう、感じられなかったら、中毒症状のようなことにハマるだけでしょう。
同じように迷い、同じように悩み、同じように苦しむ...その繰り返し。
そして、同じように戻される。何度も何度も...
迷い、悩み、苦しかったら戻ればいいんです。自分からは戻れないのなら、祈ってみる...すると内なる声みたいなものが聞こえてくるかも...苦しくなるのは、”戻って来なさい!”という合図みたいなものでしょう。
そして、又同じことを言う!...”思われた自分からは何も開かれない、思いを超えたものから開かれる!”
しかし、この性懲りの無さは、ツカレを知りません!、イヤさっきまでのツカレはどっかへ行ってしまった!...何度も何度もそうなる!、戻されることで!...あの御方の臨む場へと!
そしてこのことは何度も何度もいくらでも言いたい!...神的な現臨にあることは、愛、平安、リアリティに与ることなんだ!、と。
世の中には、決めつけた言葉で溢れかえっていますが、そのほとんどはただのへ理屈でしょう?
しかし、私は、これだけは極言したい!(何度でも!)
すべての理屈、真理の実証のようなものも、その前には”へ”のようなものです!
何を究めようとも、それを欠いたら一体何になるだろうか?
これは、あの悪しき循環の繰り返しではありません。それを断ち切るものなのです。(文明批評的にも)
祈りと共に臨む...このことは、頭でっかち、考える自分を過信している人間には絶対に分かりません!
そのことで苦悩を背負い込んだ人間なら分かるはずです!
そして、戻されることで...正に”戻った!”、という実感を持つことでしょう。
それは、愛、平安、リアリティにあることが自分の本来性ということでしょう。
人間の本来性...それは、考えている自分からは絶対に分からないでしょう。
考えるのでなく、感じてみたら分かります。
イヤ、頭で分からなくいいんです!...分からないんだから...
人間のことは、人間(と思われているもの)を超えた何かとつながらなければ...
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肝に銘じられること

2022-11-01 09:13:00 | 求道、探究
精神的な道には、色々な教えがあり、方法論があり、あっちを信じてみたり、こっちを試してみたり...自分から求めて自分の信仰、修行にするようなことは、な~んにも残っていません!
神はどういうもので、霊界はどうなっていて、前世は何で...などのことは、所詮人がそう言っているだけであり、想像して想い描いたものに過ぎないのです。
こうゆうやり方をやろうとしても、気持ちだけ先走るようで存在は、言うことを聞いてくれません。それも所詮人がやっていることに過ぎないのです。
五井先生流に言えば、消えてゆく姿ということになるのでしょう。
消えてゆく姿というものを、何かの行として捉えたらこんなに難しいものはありません。自分で消すことなど出来ないのですから...
だけど、それは自ずと消えてゆくものなのです。こんな簡単なものはありません!
一方で、ずっと忘れずに残っているものがあります。それは色々には無い!...一つしかありません!
私が思い、やろうとすることは色々ですが...それに与った時というものは、あの時、この時色々あったように思えるけど...やっぱり一つのことしか無い!
そう、それは与らなければ、ここには無いもの...が~んと打ちのめされるもの、圧倒されるもの...その前には降参せざるを得ないものです!
ということは、思いを超えたものと言う他ありません。そういうことにならないと超えられないのです。この自分が...、オレが...ってヤツは!
本当に肝に銘じることというのは...いや、それは銘じられることなんです!
自分で銘じるってことは、そう思い、やろうとすることじゃないですか?...んなもん、みんな忘れちまった!
それは思うとか、為そうという先にここに入っている...体に、細胞に覚えられていることなのです。
が~んというのは、一瞬みたいですが、じ~んと時を超えて息づいているのです。
”意識を向ければ現実に臨むものがある”、と何度も書いていますが、その都度その都度臨むみたいな言い方みたいですが、分かりやすく言っているだけで正確では無いのです。(もっとも正確に言えないからそうなんである訳で...)
それは、肝に銘じられていることが意識されることに他ならないのです。
肝に銘じられていることは、私がどうこうすることじゃない!
もっとも肝に銘じられていることは、その私が銘じてるものに取って代わることで、その道が閉ざされてしまうことです。私は絶対に神にはなれません!
私は私でないほど、神が私になるのです!
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