精神的な道には、色々な教えがあり、方法論があり、あっちを信じてみたり、こっちを試してみたり...自分から求めて自分の信仰、修行にするようなことは、な~んにも残っていません!
神はどういうもので、霊界はどうなっていて、前世は何で...などのことは、所詮人がそう言っているだけであり、想像して想い描いたものに過ぎないのです。
こうゆうやり方をやろうとしても、気持ちだけ先走るようで存在は、言うことを聞いてくれません。それも所詮人がやっていることに過ぎないのです。
五井先生流に言えば、消えてゆく姿ということになるのでしょう。
消えてゆく姿というものを、何かの行として捉えたらこんなに難しいものはありません。自分で消すことなど出来ないのですから...
だけど、それは自ずと消えてゆくものなのです。こんな簡単なものはありません!
一方で、ずっと忘れずに残っているものがあります。それは色々には無い!...一つしかありません!
私が思い、やろうとすることは色々ですが...それに与った時というものは、あの時、この時色々あったように思えるけど...やっぱり一つのことしか無い!
そう、それは与らなければ、ここには無いもの...が~んと打ちのめされるもの、圧倒されるもの...その前には降参せざるを得ないものです!
ということは、思いを超えたものと言う他ありません。そういうことにならないと超えられないのです。この自分が...、オレが...ってヤツは!
本当に肝に銘じることというのは...いや、それは銘じられることなんです!
自分で銘じるってことは、そう思い、やろうとすることじゃないですか?...んなもん、みんな忘れちまった!
それは思うとか、為そうという先にここに入っている...体に、細胞に覚えられていることなのです。
が~んというのは、一瞬みたいですが、じ~んと時を超えて息づいているのです。
”意識を向ければ現実に臨むものがある”、と何度も書いていますが、その都度その都度臨むみたいな言い方みたいですが、分かりやすく言っているだけで正確では無いのです。(もっとも正確に言えないからそうなんである訳で...)
それは、肝に銘じられていることが意識されることに他ならないのです。
肝に銘じられていることは、私がどうこうすることじゃない!
もっとも肝に銘じられていることは、その私が銘じてるものに取って代わることで、その道が閉ざされてしまうことです。私は絶対に神にはなれません!
私は私でないほど、神が私になるのです!
神はどういうもので、霊界はどうなっていて、前世は何で...などのことは、所詮人がそう言っているだけであり、想像して想い描いたものに過ぎないのです。
こうゆうやり方をやろうとしても、気持ちだけ先走るようで存在は、言うことを聞いてくれません。それも所詮人がやっていることに過ぎないのです。
五井先生流に言えば、消えてゆく姿ということになるのでしょう。
消えてゆく姿というものを、何かの行として捉えたらこんなに難しいものはありません。自分で消すことなど出来ないのですから...
だけど、それは自ずと消えてゆくものなのです。こんな簡単なものはありません!
一方で、ずっと忘れずに残っているものがあります。それは色々には無い!...一つしかありません!
私が思い、やろうとすることは色々ですが...それに与った時というものは、あの時、この時色々あったように思えるけど...やっぱり一つのことしか無い!
そう、それは与らなければ、ここには無いもの...が~んと打ちのめされるもの、圧倒されるもの...その前には降参せざるを得ないものです!
ということは、思いを超えたものと言う他ありません。そういうことにならないと超えられないのです。この自分が...、オレが...ってヤツは!
本当に肝に銘じることというのは...いや、それは銘じられることなんです!
自分で銘じるってことは、そう思い、やろうとすることじゃないですか?...んなもん、みんな忘れちまった!
それは思うとか、為そうという先にここに入っている...体に、細胞に覚えられていることなのです。
が~んというのは、一瞬みたいですが、じ~んと時を超えて息づいているのです。
”意識を向ければ現実に臨むものがある”、と何度も書いていますが、その都度その都度臨むみたいな言い方みたいですが、分かりやすく言っているだけで正確では無いのです。(もっとも正確に言えないからそうなんである訳で...)
それは、肝に銘じられていることが意識されることに他ならないのです。
肝に銘じられていることは、私がどうこうすることじゃない!
もっとも肝に銘じられていることは、その私が銘じてるものに取って代わることで、その道が閉ざされてしまうことです。私は絶対に神にはなれません!
私は私でないほど、神が私になるのです!