自分のことというのは、本当の自分が何かも普通は分からないのだし、本心のことも中々分からないものです。
この一週間というもの、突然いつも当たり前に感じていたものが感じられなくなったりして、そのことを痛感させられました。
電波障害か何かで、ネットなどが開かなくなるように、パッといかないことがあったようです。
改めて、私がいつも書いていることは、実に感覚的なことだということが分かりました。読まされる方には中々伝わらないだろうな、と思います。
本心が何かは分からないが、自ずと意識が向いちゃうということがあるんだ、とか...
“ほれ、もう私と別の何かってんじゃなくて、それはここにあるものなのーっ!“、と言っても...
これは、意識はそのように具体的に感じられるものとつながる、ということを言っています。
それは、胸、ハートの辺りに鎮まっているように感じられる何かです。(これなんだ!)
“開かれる“、なんてテキトーに言ってましたが、具体的に言うと、その辺りが開かれるということのようです。
といって、その辺りのチャクラの話をしている訳じゃありません。具体的に...でもトラワレちゃいけない!...こういうこと言ってるから中々伝わらない?
ハートのチャクラに意識を集中しよう(否定している訳ではないが...)とか思っているのは、頭の方ではないのか?
精神的な道では、これが感じられないと、本筋でないような情報に迷い、飛びついてしまうのです。
何十年後には地球の人口は半分になるとか、何かの陰謀論とか...そんなもの本心から信じ、受け入れているのでしょうか?...そうだ!、自分の胸に手を当てて聞いてみたらいい!
頭にばかり意識が向いてしまって、不確かな情報を事実だと思い込んでいるのでしょうが、本心に照らせば、それが事実だろうと、そうでなかろうとどっちでもいいことなんじゃないですか?
たとえ、世界が破滅しようと、悪魔に支配されようと、愛が、神の愛があればいい!
自分の中に息づいている愛が感じられないと、諸々の思念に迷ってしまうのです。
いや、しかし...感じられないこともありますよ!
私はどうやって復旧したのかが、いつの間にかなので分からないのですが...やっぱり祈っていたということはあるのです。
祈るということは、頭で祈るんじゃない!、私は感じられない、分からない、ということを素直に受け入れることです。
受け入れるということは、思いを超えたものを受け入れることに他なりません。
そして、それが開かれて来るまでは頭を先走らせて、落ち着きなく、本筋でない教説などにトラワレたり、決めつけたりしないこと。
とにかく、迷ったら、何かが滞ってるように感じたら、自分の胸に聞いてみる...
最善、最愛のものは、それにトラワレるのでなく、捉えられて分かる!...つまりはそこに落ち着くということです。逆説的ながらそれが本心だろうと、なかろうとどっちでもいいでしょう。
所詮、そういうのは考えごとでしょうから...
“感じられなく、分からなくなっちまったあ!”、というのも多分?
この一週間というもの、突然いつも当たり前に感じていたものが感じられなくなったりして、そのことを痛感させられました。
電波障害か何かで、ネットなどが開かなくなるように、パッといかないことがあったようです。
改めて、私がいつも書いていることは、実に感覚的なことだということが分かりました。読まされる方には中々伝わらないだろうな、と思います。
本心が何かは分からないが、自ずと意識が向いちゃうということがあるんだ、とか...
“ほれ、もう私と別の何かってんじゃなくて、それはここにあるものなのーっ!“、と言っても...
これは、意識はそのように具体的に感じられるものとつながる、ということを言っています。
それは、胸、ハートの辺りに鎮まっているように感じられる何かです。(これなんだ!)
“開かれる“、なんてテキトーに言ってましたが、具体的に言うと、その辺りが開かれるということのようです。
といって、その辺りのチャクラの話をしている訳じゃありません。具体的に...でもトラワレちゃいけない!...こういうこと言ってるから中々伝わらない?
ハートのチャクラに意識を集中しよう(否定している訳ではないが...)とか思っているのは、頭の方ではないのか?
精神的な道では、これが感じられないと、本筋でないような情報に迷い、飛びついてしまうのです。
何十年後には地球の人口は半分になるとか、何かの陰謀論とか...そんなもの本心から信じ、受け入れているのでしょうか?...そうだ!、自分の胸に手を当てて聞いてみたらいい!
頭にばかり意識が向いてしまって、不確かな情報を事実だと思い込んでいるのでしょうが、本心に照らせば、それが事実だろうと、そうでなかろうとどっちでもいいことなんじゃないですか?
たとえ、世界が破滅しようと、悪魔に支配されようと、愛が、神の愛があればいい!
自分の中に息づいている愛が感じられないと、諸々の思念に迷ってしまうのです。
いや、しかし...感じられないこともありますよ!
私はどうやって復旧したのかが、いつの間にかなので分からないのですが...やっぱり祈っていたということはあるのです。
祈るということは、頭で祈るんじゃない!、私は感じられない、分からない、ということを素直に受け入れることです。
受け入れるということは、思いを超えたものを受け入れることに他なりません。
そして、それが開かれて来るまでは頭を先走らせて、落ち着きなく、本筋でない教説などにトラワレたり、決めつけたりしないこと。
とにかく、迷ったら、何かが滞ってるように感じたら、自分の胸に聞いてみる...
最善、最愛のものは、それにトラワレるのでなく、捉えられて分かる!...つまりはそこに落ち着くということです。逆説的ながらそれが本心だろうと、なかろうとどっちでもいいでしょう。
所詮、そういうのは考えごとでしょうから...
“感じられなく、分からなくなっちまったあ!”、というのも多分?