人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

このもの無しでは...

2022-11-14 09:33:10 | 
“感じられない!
あのこちらの中から開かれる感じがしない!
ジンジンとした波動...
そして...
でも...祈るしかない!

そうです!、祈るしかないのです!
“神様、どうかあの超次元からの波動を与えて下さい...“
違う!
そりゃ、あの感じというのは、そういうものと切り離されないものですよ!、そのものと言ってもいいくらいです。
でも、あの御方のみ心に無ければ、来ないものは来ないし、感じないものは感じないのです。
宗教、神様アレルギーの人にはついてこれないかもしれませんが...
神?...いや、本当は何と表現していいか分からないのです!
分かっていることは、例えばあの波動というものだけをモノ欲し心で求めることは、根幹からズレるということです。何かの秘伝みたいなものは、いくつか心得もありますよ!(無闇に教えられるかってんです!、リアクションがコワイわ!、もう懲りた!)
だけど、その“当のもの“から切り離されたら一体何になるだろうか?
真理の究明、悟りの境地...すべてそうなのです!
求めるものというのは、その当のそのものなのです!
何と言って分からないから神ということにしちゃうまでです!
それは、諸々の属性があって、一つのもので言い表せないものであり、その一つのものを感じさせずにおけないもの...
その属性となるもので強いて、“このもの無くしては!“、と感じられるものと言えば、“愛“というものになるでしょうか?
愛そのもの...それは対象無しにあり続けるもの...相異なるものを、諸々の属性も一つのものに在らしめるもの...神の愛!
しかし、しかし...主よ!、それがどういうものなのか、今の私には分からないのです!
理屈無しに惹きつけられるもの、思いを超えたものに包まれる...
祈るとは、そういうものの中で、感じを覚えながらさせられていたのだった...祈るとは愛そのものとの交わりだった...
だった!...今はそれが感じられない?

あのねえ...感じられなくて、こういうことが書けるかってんです?
私はこれまで何度、思いを超えたものからの導きを受けながら書いて来たことだろう!
ふ、はははっ!...“ジンジン“...おお、これだ、これだ!(←又、いい気になって又別世界の人間気取りか!、懲りない人間!...しょうがないでしょ、人間だもの!)
どうやって回復したかって?...勿論、寝て起きたらそうなっていたので分かりません!、私の思いの外のことなんで!....これが本当の思いを超えるってことなんでしょう?
しかし...あれは偽らざる気持ちなのでした。これは肝に銘じとかなきゃ!
”感じられないよう!、祈ることがどういうことかすらも...でも、祈るしかない!”...人間だもの!



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人間界の現実?

2022-11-13 09:26:15 | 独語
何?、寝て起きてみたら、例の耳鳴りや何かが臨む感じが無くなってしまったので、又寝て起きたら回復してるだろうって?...
どうだった?...どうともならんだろう!
自ずからそうなるんだって?...ならんだろう!
“このもの無しでは、すべての良きことは何も始まらない“、だと?...このものが無かったら、感じられなかったらどうするんだ?
今のお前には、これまで神がかったような、超然としたもののように言って来たことが、ブーメランのように跳ね返って来てるようだな?
“現実を受け入れなければならない!“、とか?...そうだ、これが今のお前の現実だ!
別世界の、超然とした世界に居るつもりのお前には分からないだろう?...これが人間界の現実というものなんだ!、とくと味わうがいい!
“私は何も出来ない!“...ほう、無為の境地とやらか?...無為のままでは、この世界じゃ生きて行かれないんだ!
何にもしないなんて!...何か肝心のものが無い、何をしていいか分からない、何のためかも、どこに向かうのかも分からない!...でも、人間てヤツは、何かをしなければならないんだ!
何かが無い!...何にも無い、掴むものが無い!...でも何かを掴まずにおれないんだ!
“掴むので無しに、捉えられることから開かれる“、だあ?...捉えられるものが無い!、でも捉えないとならない、だから囚われてしまうんだ!
捉えたものは、確かなものかどうかは分からない!...“りありてぃ“ぽいものでも感じられるでもないし...不確かでも確かなものと信じてこの手に握らなければならない、握ったつもりでも...
お前も分かっているだろうが、これはことの善し悪しじゃない!
そういうものなんだ、人間界てところはな!
善いか悪いかは分からないが、そうやって生きているうちに、幸福に感じるか、不幸に感じるかというのは出て来る...“幸福な方に自ずと意識が向けられる!“...だから、そういう夢みたいなことはここではまず無いんだよ!
寝て起きてみたら、“何という恵まれた夢!“かということが分かったはずだろう...
“頭の記憶でなく、身体的に覚えられている“?...覚えているのか?
“えーっと、えーっと、“って、何思い出そうとしてんだ、バカ!
“つい、一昨日までのことなのに“、って、前世のことなんじゃないのか?
“ウン、ウン“、唸ってたって、来ないものは来ないし、無いものは無い!
たとえ、何も来なくても、明日を信じて生きてゆかねばならない!
何も無くても、あると信じて生きてゆかねばならない!
来てない!、ここに無い!...いや、感じられない!...
来てても、あっても感じられない!...どうする?...信じなきゃしょうがないだろう?
何かをやらなきゃしょうがないだろう?
たとえ、信じられないような恩恵を受けたのが、夢だったとしても...
彼方の方で何かの響きが感じられたような気がしても...

しょうがないよなあ、人間界てとこは?
“このものの前には、もはやどこにも逃げようが無い!“...そう、もうお前は逃げられない!...この現実からは!...
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祈るしかない...

2022-11-12 09:38:47 | 祈りと瞑想
”おやっ、聞こえない!、耳鳴りが!...
な、無いぞ!...あのパッと開かれる感じ...
何?、何かに見られている感じ?...何だ、そりゃ?
超越的なものと実存的なものは切り離されない!、ったって、今の私にゃ、そんな
難しい話は分かりゃせぬ!”...

昨夜、目が覚めたらすっかり消えてしまってるではありませんか!
あの耳鳴りと、それに伴う現臨感が!
ちょうど三年前、突如そうなったのは、肺炎のような病に患かり、体調の悪化という要因が考えられたのですが、今回は特にそういうことも無いのに...
十年以上前に、何かのチャクラに意識を集中するという、人為的な意志想念を使う瞑想をした時もそういうことがありましたが、それ以来かもしれません。
この時は、余計な人為的な方法に依拠したことにより、無為的な機能が絶たれてしまったように感じたものでした。
今回は?...洩らしてはいけない秘伝をうっかり公開してしまったものだから、見えざる導師の逆鱗に触れたから?
そんなあ!、“つ、ついに日の目が!“...なんてーのは例によって?ただのハッタリのつもりだったのです!、ホントーの秘伝なら絶対に公開などしてませんて!...どうやって与ったのか分からないのだから伝えようが無いんですから!...

そ、それにしても、ああいうものにずっと与っている人間が居たとは!...信じられない!、別世界の人間だ!、何かの寵児だ!...
修行なんてほとんどやったこと無い?...そりゃ、そうだ、パッと思いを超えたものにつながっちゃうんだから...
現臨、照明...そういうものがあるのが当たり前のように言ってるが...“私は至ってフツーの人間なんです!“、なんて実に白々しいではないか!
フツーの人間てーのは...“うわおっ!“...私のことだった!
つい、昨夜眠りにつくまで、ああいうのは、人間の本来性から来るのだから、自然にそうなるだけなんだ、なんて感じていたけど...んなもん、なりゃーせん!
今の私に自然に感じられるものは、天のご意志によるもの、恩寵というものです。
“ヤツは、どうしようもないダメ人間だからこそ、与えられるんだ、やっぱり寵児だ!、恩寵無しには生きて行けない人間なんだ!“
本当の秘伝?...それっぽいことをこれまでも書いてきましたが、今の私に即して言えば、祈るしかありません。
何かが失われたように感じると、どうしても当たり前のように与っていた時のことを思い描いたり、念じたりしてしまうようです。
“ウン、ウン“、唸ってたって、与れないものはしょうがないのです。
モノ欲し心でなく、神的なものに思いを向け、開き、ゆだねることから始まるのです。
“御心のままに“、“かむながらたまちはえませ“

いつだってあると思うな神の恩
ひたむきに祈る端に受く神の恩
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ついに秘伝が日の目を見る!

2022-11-10 10:11:36 | 祈りと瞑想
”私はね、もうな~んもしなくてもパッと神的な現臨につながっちゃうんですよ?”...な~んてこと書いてばかりいるから、読者に私が何か人間離れした、別世界の人間のように思われてしまうのかもしれません。
私は自覚している限り、一見無表情で何考えてるのか分からなさそうですが、その実喜怒哀楽が激しくて(要するに般若面でそれを隠しているだけ!)、とても分かりやすい人間なのです。
こういう人間が、何の間違いでか、そういうものに与っているから人生には裏側があるってことなのでしょう?
でも、やはりああいうことばかり言うのは、独りよがりと言われても仕方ないので、たまにはその方法的なことも書いてみたいと思うのです。
私自身がそれにいつも依拠している訳じゃないですが...つ、ついに秘伝が日の目を見るか?!
現臨とまでは行かなくても、それ無しには何も始まってこない、ある種の波動、ハタラキ的なものを受ける方法です。
まず、よく知られているもので、《呼吸を意識する》。(どこが秘伝やねん?)
これは、所謂呼吸法のことじゃなくて、ただそれを意識すること、なんてこたない、“ああ、呼吸しているなあ“と感じるだけのことです。禅でもヴィパッサナー瞑想でも仏教修行では欠かせないものですね。
それがより深まってくると、呼吸しているのでなく、やっている、やろうとしているより先に、呼吸は自ずから行われていることに気付かれるでしょう。
これにより、思い、為すことの根源にある、もしくはそれを超えてあるものが、どういうものかが知られるでしょう。
次に(いよいよか?)、これはすべての人向きではないのですが...《耳鳴りを意識する》。
これも同じように、耳鳴りが自ずと行われていることを感じてみる。
これが如何に世間では、病理的なものと結び付けられて語られていることでしょう?
いいですか、それが自分にとって、不快だったり、苦しいものだったり、生活する上で困難を感じなかったら、病気でも何でも無いのですよ!
私なんかにしたら、これほど思いを超えたものにアクセスする媒体になるものは無いと言っても過言では無いのです!
もっともそれは、ジェット気流を思い起こす“キーン”系のものであり、鈍重な感じの“ブーン”系の方じゃありません。(後者はそれが鳴ってること自体、身体的に不快になっている場合が多いです)
波動、バイブレーションとか言いますが、これは本当にそういうものを体感出来るものと言えます。波状的な音...物理的な音とは言い切れない...何かの霊か?...いや、そのようにあるか、無いか不確かなことに思いを能動的に働かせては逆効果なんだってば!
ここで言ってることは、思い以前、それを超えたものにつながることなんですから...
私の場合、現臨にある時、まずこの”キーン“が伴っていると言ってもいいのです。
意識するか、しないかってうちにそうなる...
というか、この“キーン”自体が、意識的になっていることでもあるのです。
次は、少し前にも書きましたが...《私を意識する》
重複しますが、呼吸や耳鳴りみたいな即物的な、対象化出来るものと違って、“そんな捉えどころの無いものは無理だ!”、と思うのはもっともでしょうが、もし、如何なる固定観念、モノたる実体の無い私そのものが意識されてしまったとしたら...それは、あなたの思いからでない、それを超えたもの、”見ているもの“によって成されたことが体感出来るでしょう...。

と、簡単な方法らしきことを書いてみましたが...
いや、全くどおってことない、ただ意識するってだけのことで、例によって特別方法と呼ぶべきものでも無いかもしれません。
私が方法に依拠してないという意味は、あまりにも”いつの間にか“、ということが多い訳で!...
“そんなのは物足りない!”と思うのは、意識から開かれる、意識的であることには絶大な意味があることが分かっていないのです。
それは、ごく当たり前の人間、人生に隠された裏側へと続く通路に他ならないのです!

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現臨と波動

2022-11-08 09:31:50 | 現臨、ハタラキ
スピ界隈などではよく波動ということが言われます。
”宇宙の...”とか”高次元の...”とか色々盛られていて、胡散臭く感じてる人も多いことでしょう。
私などは、ああいう超次元的なものに観念して、思いが馳せさせられるものは余計だと思うのですが...
何とかエネルギー、中国的に”気”と言ってもいいだろうし、波動という表現に囚われる必要はありませんが、それは観念でなく、具体的に体感出来るものを言うのでしょう。
あらゆる伝統的宗教では、こうした具体的な作用、ハタラキを伝えないものは皆無と言ってもよく、これを欠いたら宗教は観念信仰になるか、形骸化するだけでしょう。
逆に言えば、今の多くの宗教の現状を見るに、それが失われてしまったことを物語っているのでしょう。
私がここで”現臨”と呼びだしたのは、ブログを始めてからのことで、それまではこの生きたハタラキ、波動という風に捉えていたのです。
これの無いところに現臨というものはけっしてありません!...それは、現実に臨むものなのだから...
切り離されないもの...いやそのものと言ってもいいのですが...微妙に全く同じとも言い切れないものを感じています。あくまで多分に語感から受けるのであろう、私の感じを言っているのですが...
波動とかバイブレーション、何とかエネルギーとかいうのは、主に科学、ことに力学的なものとして語られるものです。それが如何にも他人行儀な感じを受けてしまうのです。
波動を受ける...ジンジンと伝わってくる(これを何回も表現していますが、この感じを表しているのです)、巡る、全身に広がる...それが意識にも浸透し始める...
そうなると、もう私が居て、それを受けて...という”段構え”のようなものが無くなり、パッと即応したものになります。
毎度言うように、そこには愛、安らぎがありますが、そういうものは力学的なものからはあまり伝わらないですね。
それは又、私の内奥を開き、私自身と全く分かち難い、近しきものとなってしまう...つまり、実存的なものになるということです。
現臨という表現は、そのようにより包括的なものであり、その私と真向かいに現存するもの、私の実存となるもののことを言い表したものなのです。
私は、どうもここでこうして書いているうちに、知らず知らずにそのように導かれたようなのです。

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