人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ついに秘伝が日の目を見る!

2022-11-10 10:11:36 | 祈りと瞑想
”私はね、もうな~んもしなくてもパッと神的な現臨につながっちゃうんですよ?”...な~んてこと書いてばかりいるから、読者に私が何か人間離れした、別世界の人間のように思われてしまうのかもしれません。
私は自覚している限り、一見無表情で何考えてるのか分からなさそうですが、その実喜怒哀楽が激しくて(要するに般若面でそれを隠しているだけ!)、とても分かりやすい人間なのです。
こういう人間が、何の間違いでか、そういうものに与っているから人生には裏側があるってことなのでしょう?
でも、やはりああいうことばかり言うのは、独りよがりと言われても仕方ないので、たまにはその方法的なことも書いてみたいと思うのです。
私自身がそれにいつも依拠している訳じゃないですが...つ、ついに秘伝が日の目を見るか?!
現臨とまでは行かなくても、それ無しには何も始まってこない、ある種の波動、ハタラキ的なものを受ける方法です。
まず、よく知られているもので、《呼吸を意識する》。(どこが秘伝やねん?)
これは、所謂呼吸法のことじゃなくて、ただそれを意識すること、なんてこたない、“ああ、呼吸しているなあ“と感じるだけのことです。禅でもヴィパッサナー瞑想でも仏教修行では欠かせないものですね。
それがより深まってくると、呼吸しているのでなく、やっている、やろうとしているより先に、呼吸は自ずから行われていることに気付かれるでしょう。
これにより、思い、為すことの根源にある、もしくはそれを超えてあるものが、どういうものかが知られるでしょう。
次に(いよいよか?)、これはすべての人向きではないのですが...《耳鳴りを意識する》。
これも同じように、耳鳴りが自ずと行われていることを感じてみる。
これが如何に世間では、病理的なものと結び付けられて語られていることでしょう?
いいですか、それが自分にとって、不快だったり、苦しいものだったり、生活する上で困難を感じなかったら、病気でも何でも無いのですよ!
私なんかにしたら、これほど思いを超えたものにアクセスする媒体になるものは無いと言っても過言では無いのです!
もっともそれは、ジェット気流を思い起こす“キーン”系のものであり、鈍重な感じの“ブーン”系の方じゃありません。(後者はそれが鳴ってること自体、身体的に不快になっている場合が多いです)
波動、バイブレーションとか言いますが、これは本当にそういうものを体感出来るものと言えます。波状的な音...物理的な音とは言い切れない...何かの霊か?...いや、そのようにあるか、無いか不確かなことに思いを能動的に働かせては逆効果なんだってば!
ここで言ってることは、思い以前、それを超えたものにつながることなんですから...
私の場合、現臨にある時、まずこの”キーン“が伴っていると言ってもいいのです。
意識するか、しないかってうちにそうなる...
というか、この“キーン”自体が、意識的になっていることでもあるのです。
次は、少し前にも書きましたが...《私を意識する》
重複しますが、呼吸や耳鳴りみたいな即物的な、対象化出来るものと違って、“そんな捉えどころの無いものは無理だ!”、と思うのはもっともでしょうが、もし、如何なる固定観念、モノたる実体の無い私そのものが意識されてしまったとしたら...それは、あなたの思いからでない、それを超えたもの、”見ているもの“によって成されたことが体感出来るでしょう...。

と、簡単な方法らしきことを書いてみましたが...
いや、全くどおってことない、ただ意識するってだけのことで、例によって特別方法と呼ぶべきものでも無いかもしれません。
私が方法に依拠してないという意味は、あまりにも”いつの間にか“、ということが多い訳で!...
“そんなのは物足りない!”と思うのは、意識から開かれる、意識的であることには絶大な意味があることが分かっていないのです。
それは、ごく当たり前の人間、人生に隠された裏側へと続く通路に他ならないのです!

コメント (4)
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