“意識を向ければ、パッと...“、なんて何回も言ってますが、捉え所が無くて何のことやら分からない人も多いことでしょう?
実は、そこには具体的で肝心なことがありまして、言い忘れてる訳でもないのですが、何十年も当たり前過ぎて気が付かなかったのです。
それが最近、いつもの“き~ん“という耳鳴りが聞こえなくなったので、そっちを意識してみたら、やっぱり当たり前に起こっていた次第で!...つまりはなんてこた無かったのです(笑)。
それは、どういうものかと言うと...意識を向けるというのは、神的なものに向けるということで、言わば意識が祈りモードになる訳ですが、すると必ず(!)、身体に、特に首のつけ根のあたりにある種の引きつれというか、震えみたいなのが起こるのです。
身体というか、もう精神と分けられない感じにすぐなってしまうのですが、“心身“が凝縮してゆく感じです。
同時に意識がある中心に収斂されてゆく感じになります。
それともう一つは、けっこう長めの“すふ~っ“という吐く一息です。
これは、日常生活ではこの時以外はまず出ません!
これらのことがある神的な波動を受け、それが通る時のシルシみたいなものなのです。(といって、トラワレちゃ、ダメですよ!)
言うまでもなく、これらのことは、意志想念で為そうとして行うことでなく、自ずから起こることなのです。
私だけでなく、気功などに親しんでいる人には割と知られているのではないですか?
何かで読んだ記憶もありますが、最初は人為的な意志で、あるやり方でそういうものを誘起させているものが、次第に無為的なものに移行するようになる、とか書かれていたと思います。
“体が勝手に“...なんて何やら神秘めかしてますが、少し前書いた“耳鳴り秘伝?“同様、どうか参考程度にして、興味本位で無闇にやらないで(やろうとしてもやれないかも?)下さいね!、ヘンなとばっちり(?)受けたくないですから...(最初から書かなきゃいい?...いや私自身の備忘録としての意味合いもありまして!...)
私の場合、それは瞑想と区別が付かないながらも、祈り...決まった言葉、形の無い祈りの一環としてそういうものがある、ということなのです。
祈りモードに入るということは、思いを超えたものへの畏敬の心持ちになるということです。
それも又、当たり前のようにそうなることなんですが...
それは、精神的な道ではあり勝ちな、オカシナことに陥らないないための最大の防御でもあります。
祈らざるを得ない。“祈るしかない!“ということは、上よりの命令でも義務でもありません!
優しい、自ずからなる促しなのです。
これを蔑ろにすると、コワイですよ!
上よりのおとがめ?...いや、そうじゃない!...祈りモードからズレるのがコワイ!
だから...“祈るしかない!“のです!
実は、そこには具体的で肝心なことがありまして、言い忘れてる訳でもないのですが、何十年も当たり前過ぎて気が付かなかったのです。
それが最近、いつもの“き~ん“という耳鳴りが聞こえなくなったので、そっちを意識してみたら、やっぱり当たり前に起こっていた次第で!...つまりはなんてこた無かったのです(笑)。
それは、どういうものかと言うと...意識を向けるというのは、神的なものに向けるということで、言わば意識が祈りモードになる訳ですが、すると必ず(!)、身体に、特に首のつけ根のあたりにある種の引きつれというか、震えみたいなのが起こるのです。
身体というか、もう精神と分けられない感じにすぐなってしまうのですが、“心身“が凝縮してゆく感じです。
同時に意識がある中心に収斂されてゆく感じになります。
それともう一つは、けっこう長めの“すふ~っ“という吐く一息です。
これは、日常生活ではこの時以外はまず出ません!
これらのことがある神的な波動を受け、それが通る時のシルシみたいなものなのです。(といって、トラワレちゃ、ダメですよ!)
言うまでもなく、これらのことは、意志想念で為そうとして行うことでなく、自ずから起こることなのです。
私だけでなく、気功などに親しんでいる人には割と知られているのではないですか?
何かで読んだ記憶もありますが、最初は人為的な意志で、あるやり方でそういうものを誘起させているものが、次第に無為的なものに移行するようになる、とか書かれていたと思います。
“体が勝手に“...なんて何やら神秘めかしてますが、少し前書いた“耳鳴り秘伝?“同様、どうか参考程度にして、興味本位で無闇にやらないで(やろうとしてもやれないかも?)下さいね!、ヘンなとばっちり(?)受けたくないですから...(最初から書かなきゃいい?...いや私自身の備忘録としての意味合いもありまして!...)
私の場合、それは瞑想と区別が付かないながらも、祈り...決まった言葉、形の無い祈りの一環としてそういうものがある、ということなのです。
祈りモードに入るということは、思いを超えたものへの畏敬の心持ちになるということです。
それも又、当たり前のようにそうなることなんですが...
それは、精神的な道ではあり勝ちな、オカシナことに陥らないないための最大の防御でもあります。
祈らざるを得ない。“祈るしかない!“ということは、上よりの命令でも義務でもありません!
優しい、自ずからなる促しなのです。
これを蔑ろにすると、コワイですよ!
上よりのおとがめ?...いや、そうじゃない!...祈りモードからズレるのがコワイ!
だから...“祈るしかない!“のです!