人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人間のますがた

2022-11-05 10:04:26 | スピリチュアル
“ゆだねてもヒトとしての意識はありますよね?”

いつもコメントを下さる方からこのような言葉が述べられていました。
正直、ビックリさせられました。
この言葉だけを切り取っても、コメントの全体がどういうものなのか、読者には伝わらないでしょうが、何度もコメントを交わしたことがある私には伝わってきます。
そして、最近この方とどうしても同調し合えないものを感じたのですが、それが那辺に要因があるのか、ということも何となく分かりました。
ゆだねる...勿論、この場合思いを超えた神的なものに、です。それでヒトの意識はあるのか?
あったりまえでしょうが!
この方には、何かゆだねることが人間のレベルを超えた(この“超える“という表現がそういう響きをもたらすのか?)、別次元へと移行してしまうことのように捉えられていたようですが、多くの人もそういうイメージを持っているのでしょうか?
まあ、考え方、感じ方は色々なんでしょうが、私の感じでは...ゆだねることで初めてヒトになれる、いやヒトの完成体というものが、どういうものなのか分かりませんが、少なくとも、初めて“私は私で居られる“、という意識状態になれる、というものです。
私が最近シツコイほど言っている、”超越的なものと実存的なものは、切り離すことが出来ない!“、というのは、この消息を伝えているのです。
多くの人は、人間存在とは自ら考え、為すもの、と捉えられているのかもしれません。だけど、それだけがすべてでないことは、考えれば、いや感じてみたら分かることでしょう?
考え、為すこと以上のものに与るには、それを超えたものにゆだねるしかありません。
その超えたものとは、人間とは別次元の神なのでしょうか?...これは勿論多くの人が抱いているであろう固定観念に過ぎません。
それについて私の心象には、知られざる人間の、断面、一部分ならざる、”ますがた”のようなものが映し出されているのです。
部分的なものがすべてと思っている人間は、この“ますがた“から分離しているのです。
あたかも、三日月や半月が月のますがたであると錯覚するように...
すべてと思い込んでいる、幻想の世界からいくら本体に至ろうとしても、そこからは、超えられないでしょう。
しかし、半月のもう一つの面は、見えないだけでずっとそこにあるのです。
そして、そのますがたは、必ず顕わになるようになっている...そう、それはなっているのだ!
この部分的に見える人間存在は、そのますがた目指して進化しつつあるのでしょうか?
これ又感じ方は人それぞれですが、私にはそこには、上へ、上へと絶えず上り詰めることに駆り立てられ、人間を超えた(先の超えるという言葉との言い回しの違いにご留意を!)別の存在へと変貌しよう、という人間の宿業的思念を感じずにおれません。
そこには又、その本来性から分離してゆくもの~とどのつまり、それは飽くことの無い思念ではないか?~が感じられます。
人間は、その本来のますがたからは切り離されては、そもそも存在すら出来ないのではないでしょうか?
私にとって神的なものにゆだねる、ひいてはそのますがたに目覚めることは、本来の私に帰ることに他ならないのです。
そして、私が日々感じていることは、今はますがたの方が徐々に顕わになって、そこからのハタラキも強くなってきた、ということです。
どうもそれは、“つながり“という言葉が頻繁に聞かれるようになってかららしいのですが...
コメント
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