”人生は見たまま、思われたままで出来ているんじゃない、その裏側には見えない、思いを超えた世界が広がっている...“
と、言うようなことをいつも書いている訳ですが、その“人生の裏側”とは、所謂霊界のことか?と、短絡的に思う人も居るかもしれません。
そういう人は、霊界というものは、実在しているんだ!、と決めてかかっているのでしょうが、霊能者でない私には、有るとも無いとも決めつけれないのです。
少なくとも、見てきたようなことは言えません!、だってそれは見えない世界なんでしょう?
ただ、いくらか固定観念に譲歩して(?)、理解の一つとして、”霊界の存在を借りる”ことは出来ると思うのです。そういう表現を借りると言ったらいいでしょう。
言うまでもなく、分からないからと言って、霊界、ないし死後の世界などを否定するつもりは全く無いのです。否定も肯定も出来ないというのが本当じゃないですか?
私も出口王仁三郎師の「霊界物語」を読んでるし、又「日月神示」なども...これらに多大な影響を与えた見霊者、エマヌエル.スエデンボルグなども...私はそのあまりにも恣意的に、歴史上の誰それは地獄に落ちている、だのと語る表現にヘキエキしたことがありましたが、あまりトラワレを持たずに読めば結構面白いと思いますよ。
スエデンボルグは、至るところで”神は一なるもの”、ということを強調しています。キリスト教の三位一体の教義について、それらは”父、子、聖霊”の三つの別々の位格がある訳じゃなく、すべて一なるエホバの神の表れと言っています。
私はこれは、”霊界”ではこのように、神は一なるものとして、分離したように認識されないということを言い表しているように感じました。それは、そう感じている自己と分離していない、ということでもあるのですが...
その割に、例えばルドルフ.シュタイナーでも同様なのですが、その表現はあまりにも、“見てきたよう“過ぎるというか、客観的筆致に終始しているところがあります。
“この世“の一風変わった情景を思い描いたように...
典型的なのは、“霊界は何段階もの階層を成している“、なんて言うのがそうです。
これについて、ベルジャーエフが言った、“階層という概念は現実世界にしか適応出来ない!“、というのが本当ではないか?
いや、そもそもが霊界については、同じくベルジャーエフが言うように、象徴、表徴を持ってしか言い表すことは出来ないのでしょう。
だから、それを超え、無視して客観的実在のように、“霊界の実在“を観念で決めつけることなど出来ないのです。(この意味で、寓話、神話という形を借りた、“霊界物語“などがそれを表現するに適していると言えるでしょう)
観念で分かったつもりでも、現界から一歩も超えることは出来ないのです。
要するに、見たまま、思われたままの表側の世界を超えなければ、裏側の世界は開かれないのです!
“段階を超える“、というのは、この大きな峠のことしか私には感じられません。どのくらい大きいかというと...自分の力では到底超えられないくらいです!
だから、自分で超えたというのは、きっと中途の段階なのでしょう?
“分かった!、それは、幽界か?”、って?...そういうのと霊界の何段目とどう違うのか、私にはテンデに分かりません!
何で、私が霊界なんていうものを持ち出したくないか?...メンドクサイからに決まってるでしょ!...
と、言うようなことをいつも書いている訳ですが、その“人生の裏側”とは、所謂霊界のことか?と、短絡的に思う人も居るかもしれません。
そういう人は、霊界というものは、実在しているんだ!、と決めてかかっているのでしょうが、霊能者でない私には、有るとも無いとも決めつけれないのです。
少なくとも、見てきたようなことは言えません!、だってそれは見えない世界なんでしょう?
ただ、いくらか固定観念に譲歩して(?)、理解の一つとして、”霊界の存在を借りる”ことは出来ると思うのです。そういう表現を借りると言ったらいいでしょう。
言うまでもなく、分からないからと言って、霊界、ないし死後の世界などを否定するつもりは全く無いのです。否定も肯定も出来ないというのが本当じゃないですか?
私も出口王仁三郎師の「霊界物語」を読んでるし、又「日月神示」なども...これらに多大な影響を与えた見霊者、エマヌエル.スエデンボルグなども...私はそのあまりにも恣意的に、歴史上の誰それは地獄に落ちている、だのと語る表現にヘキエキしたことがありましたが、あまりトラワレを持たずに読めば結構面白いと思いますよ。
スエデンボルグは、至るところで”神は一なるもの”、ということを強調しています。キリスト教の三位一体の教義について、それらは”父、子、聖霊”の三つの別々の位格がある訳じゃなく、すべて一なるエホバの神の表れと言っています。
私はこれは、”霊界”ではこのように、神は一なるものとして、分離したように認識されないということを言い表しているように感じました。それは、そう感じている自己と分離していない、ということでもあるのですが...
その割に、例えばルドルフ.シュタイナーでも同様なのですが、その表現はあまりにも、“見てきたよう“過ぎるというか、客観的筆致に終始しているところがあります。
“この世“の一風変わった情景を思い描いたように...
典型的なのは、“霊界は何段階もの階層を成している“、なんて言うのがそうです。
これについて、ベルジャーエフが言った、“階層という概念は現実世界にしか適応出来ない!“、というのが本当ではないか?
いや、そもそもが霊界については、同じくベルジャーエフが言うように、象徴、表徴を持ってしか言い表すことは出来ないのでしょう。
だから、それを超え、無視して客観的実在のように、“霊界の実在“を観念で決めつけることなど出来ないのです。(この意味で、寓話、神話という形を借りた、“霊界物語“などがそれを表現するに適していると言えるでしょう)
観念で分かったつもりでも、現界から一歩も超えることは出来ないのです。
要するに、見たまま、思われたままの表側の世界を超えなければ、裏側の世界は開かれないのです!
“段階を超える“、というのは、この大きな峠のことしか私には感じられません。どのくらい大きいかというと...自分の力では到底超えられないくらいです!
だから、自分で超えたというのは、きっと中途の段階なのでしょう?
“分かった!、それは、幽界か?”、って?...そういうのと霊界の何段目とどう違うのか、私にはテンデに分かりません!
何で、私が霊界なんていうものを持ち出したくないか?...メンドクサイからに決まってるでしょ!...