人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無である自分を受け入れる

2022-11-27 10:08:53 | 現臨、ハタラキ
私は、何度も言うように特別な修行などしてこなかったのです。
毎回、違うこと言うようですが、こういう思いにさせられることには、大きな理由があるようなのです。
いや、私も結構トシなので、修行とは行かないまでも、それまでに学んだこと、培って来たことはあるだろう?、と思われるかもしれない。
そりゃあ、ありますよ!...如何にメンドクサがり屋の私でも、自然に学ばされる、身についちゃうことも多々あります。
いやいや、正直に言おう!、私は生まれつき研究熱心で、何ごとでも自分でトコトン追求しないと気が済まない質なのです。そういうマニアックな人間の片鱗は、詳しくブログを読まれている方ならお分かりでしょう?
だけど、そうやって積み重ねて来たものも、ある節目でゼロになる、無に帰することだってあるだろう...
”一体今まで何をやって来たのか?、何がどう、成長、進歩したというのか?...私は無なのだ!、“これを成し遂げた!”、というものなどな~んにも無かったのだ!、私は何ものでも無かった!...しかし、それを受け入れるしかない!“...何?
受け入れられる訳ないじゃないですか!...普通に考えてみて下さい!
何かの修行に励んでいる人は、そういう日々の努力の積み重ねで、その延長で無の境地かなんかに到達出来るとか思うのかもしれません。それは、きっと正にそう思っているだけなのではないですか?
現実に無になることがどういうことか分からないのでしょう。本当はそういう無になった自分を受け入れる気などこれっぽちも無いくせに!
だから、私だって同じ人間な訳で、自分の思いでは受け入れることなど到底不可能なのです。
しかし、ある契機において、受け入れられちゃったりするのです!
それが...思いを超えたものが臨むことで、その流入によって為さしめられる、ということなのです!
これを抜きにした、無だの空だの全託だのといった話は全く正気の沙汰じゃありません!
”自分でやってみろ!、秒でイカレるぞ!”
完全解脱だとか、夢みたいなことを平然と言う手来は、現実に目覚めることなく、そう言っているだけでしょう。
無である自分を受け入れること、否受け入れさせられちゃう、なんてまるで他動的に操られるばかりのように思われるでしょうが、事実は、“自分から“という意味でない、自動的にそうなるということです。人為的でなく無為的になる...これは、そこに愛、安らぎが感じられるから自ずとそうなるということなのです。
そして、現実に何が無くなるのかというと...思いに他ならないのです!
この無のハタラキは、どこまでも”私のもの”、というものでは無い!...絶対無というべきものです。
どっかで”私のもの”、“私の力で”、という思いがあると、きっとこないだの私のように、それが無に帰したようになってしまうのでしょう。
あんまり自覚は無いが、きっとそう!、そういうことでいいんだ!(ふふふ...これ、私が生まれつき抜け目の無い人間だからといって他意は無いですよ!)

コメント
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