最近の私は、盛んに”何々と何々は、切り離すことは出来ない!”、ということを言ってますが、それに触れて、”ハハーン、この人は、ノンデュアリティの人なんだ!“、と思う方もおられるかもしれません。
そういうことを言っているには違いないですが、そこは世に言うノンデュアリティ、非二元の道とは“切り離して”もらわないと...私はどんな思想的立場、学派、宗派からも自由でありたいんですから...
もっとも、ブログを始めた一時期、ああいう道にカブレていたことは認めます。だけど、それは到底、心から首肯出来るものじゃなかったのです。
大体、その宗派の人たちがこぞって“私は居ない”、“すべてはストーリー”、だとお題目のように称えていたのが、アタシャ、もうムシズが走るようで受け付けないです!
“そんな宗派などない!”、と彼らは言うでしょうが、このこと自体がそれを浮き彫りにしてるじゃないですか?
ああいう教えを説く教師が居て、それに追従する信者たち...この構図がもう、本来直接的な道を指し示すはずのノンデュアリティから逸脱しているのです。
それは、本来一人一人の実存と”切り離されるものではない!“、はずなのです!
その説かれる内容が、一元的だろうと、二元的だろうと!...
実存的在り方がそのいずれかに分けられてしまうこと自体、その分離化の最たるものではないか?
”神は、自己と別在する二元的存在である!、元々悟っているのだからそういうものを借りる必要はない!”...すべて己の観念で完結してしまう世界、それを”信じること“、思念だけが支配している世界...数多の宗教がたどる道と何ら変わりがありません。何たるギマン、茶番であろうか?!
私の実存に照らして、強調せざるを得ないことは、その、ぶ厚い観念の覆いを突き破って、二元(と考えられている)の彼方から、実存に直接タッチしてくるものがある(一元化?)、ということです。
自分の思いを超えたものには、それにゆだねなければなりません。
多くの非二元論者が説く、“自分はない、全体しかない!“、という果てしなく広がっているだけの空的な全体には、どうにもゆだねようがありません! ゆだね...させるものがあるのです。
この、私がよく現臨と呼んでいるものにある時、それは空々漠々たる全体のようには感じられません。ある局限的なものとして私に直に関わる何かでありながら、そこにはどこにも際というものが見当たらない、無限性も感じられる...そこに何か自己の“ますがた”のようなものが感じられたのです。
一元であって二元、超越的であって内在的...相対世界を生きていて、絶対的なものを内に根差して生きるもの...人間存在とは、相反するものであって、切り離されないものの極点なのではないでしょうか?!
これが当たり前の人間というものなのでしょう(裏を返せばこんな当たり前でないものは無い!)。
言うまでもなく、ここでは、生きている人間が、生きている人間のことを、生きている人間のために書いているのです。何ら特別なことはありません。
特別な教えも理論もメソッドも..._みんな、一人一人の私を、つながり合って生きているのだから...
そういうことを言っているには違いないですが、そこは世に言うノンデュアリティ、非二元の道とは“切り離して”もらわないと...私はどんな思想的立場、学派、宗派からも自由でありたいんですから...
もっとも、ブログを始めた一時期、ああいう道にカブレていたことは認めます。だけど、それは到底、心から首肯出来るものじゃなかったのです。
大体、その宗派の人たちがこぞって“私は居ない”、“すべてはストーリー”、だとお題目のように称えていたのが、アタシャ、もうムシズが走るようで受け付けないです!
“そんな宗派などない!”、と彼らは言うでしょうが、このこと自体がそれを浮き彫りにしてるじゃないですか?
ああいう教えを説く教師が居て、それに追従する信者たち...この構図がもう、本来直接的な道を指し示すはずのノンデュアリティから逸脱しているのです。
それは、本来一人一人の実存と”切り離されるものではない!“、はずなのです!
その説かれる内容が、一元的だろうと、二元的だろうと!...
実存的在り方がそのいずれかに分けられてしまうこと自体、その分離化の最たるものではないか?
”神は、自己と別在する二元的存在である!、元々悟っているのだからそういうものを借りる必要はない!”...すべて己の観念で完結してしまう世界、それを”信じること“、思念だけが支配している世界...数多の宗教がたどる道と何ら変わりがありません。何たるギマン、茶番であろうか?!
私の実存に照らして、強調せざるを得ないことは、その、ぶ厚い観念の覆いを突き破って、二元(と考えられている)の彼方から、実存に直接タッチしてくるものがある(一元化?)、ということです。
自分の思いを超えたものには、それにゆだねなければなりません。
多くの非二元論者が説く、“自分はない、全体しかない!“、という果てしなく広がっているだけの空的な全体には、どうにもゆだねようがありません! ゆだね...させるものがあるのです。
この、私がよく現臨と呼んでいるものにある時、それは空々漠々たる全体のようには感じられません。ある局限的なものとして私に直に関わる何かでありながら、そこにはどこにも際というものが見当たらない、無限性も感じられる...そこに何か自己の“ますがた”のようなものが感じられたのです。
一元であって二元、超越的であって内在的...相対世界を生きていて、絶対的なものを内に根差して生きるもの...人間存在とは、相反するものであって、切り離されないものの極点なのではないでしょうか?!
これが当たり前の人間というものなのでしょう(裏を返せばこんな当たり前でないものは無い!)。
言うまでもなく、ここでは、生きている人間が、生きている人間のことを、生きている人間のために書いているのです。何ら特別なことはありません。
特別な教えも理論もメソッドも..._みんな、一人一人の私を、つながり合って生きているのだから...