人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

「私」を意識してみる

2022-11-04 10:08:38 | 意識、照明
今日は珍しく一寸したエクササイズを試みたいと思います。
よかったらお付き合いのほどを!...
やることというのは、言葉にすれば至極簡単なことです。それは...

”私を意識してみる”

それだけ!...って、バカバカしいですか?
これは、全く漠然としていて、摑み所が無いと感じるのがフツーだと思います。 だけど、私のことなんですよ!...あなたである私のことは、あなたが一番よく分かってるのでは無いですか?
そうなんです!...私を意識すること自体が困難なことなんです。考えている自分からは!
多分、こういう風に振られて、肉体の自分を意識した人も居ると思いますが、だから大抵、私の肉体、私の思いなどに摑み所を求めているのです。そして囚われる...
私がここで問うているのは、一切の先入観、固定観念を交えない純然たる”私、自己なるものについてです。従って、”私は肉体”というのは、そういう観念だということが分かるでしょう?
ここで、もしそこに考えている私を超えて、何かに見られている...見ているものがある、という感じを持たれたなら、説明を要しないのですが...
その見ているもの(私は多く”照明”と呼んでいます)に何か照らされているような感じにある時、観念の支配を受けない、肉体でも精神でもない、「私」そのものが意識されるのです。
これを実存感覚と言ってもいいでしょう。
この“見ているもの”とは、一体何なのでしょうか?、言うまでもなく、見ている、見ようとしているあなたのことではありませんよ!
自分とは別在している、神とか、何か超越した存在なのでしょうか?...しかし、それも先入観、固定観念なのではありませんか?
私はよく神について言及していますが、本当のところは分からないのです。
ただ、その考えている自分を超えて見ているものにあって、“私はここに在る”、と意識されるものということは分かるのです。
私そのものが意識される時、そういう観念から離れるためか、肉体感覚が希薄になります。
といって、何も肉体が消えて、固定観念に輪をかけた、“霊体“のようなものを空想している訳じゃありませんよ!(そういうものもあるかもしれませんが...)
私に実感されるものは、肉体でも精神でも霊体でもない、そのように分離出来ない、合一的な何かなのです。
その実体は何か分からないが、それを一つに在らしめているものは、私の実存感覚のようなものでしょう。
同じことは、超越的なものと、その実存的なものについても言えます。それは切り離すことが出来ない!
つまりは...こういうもの共々が感じている私を超えた、「私」であることが意識されるのです。
...というのは、あくまで私が感じていることに過ぎないのです。”へえ、そうなんだ!”じゃないっつーの!
あなたは、あなた自身が感じなければ無意味ですよ!
この試みがちっとは、直接体験の道のヨスガにはなったでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする