人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自分のこととして...

2023-02-19 09:35:55 | 人生の教師
トルコ、シリアの大地震...正直、我が国のことでなくてよかったと思う...
どっかの国で起こる度に...いや、自分が住んでいる地域以外で起こる度に、自分に被害が及ばなくてよかったと思う...
自分に被害が及んでいたらと思うと...
”あの地震は、日本で起こるはずのものがまつり代えられた!“、という妄言を非難することなどとても出来ないが...
でも、それはやっぱり言ってはならないことだろう!
他人ごとのように平然と言うことなど!...
彼らは我が身の代わりに!...事実がどうであるかはどうでもいい!...何にも出来ないけれど、対岸の火のように思えない、してはならない心情はどうしてもある!

あの40年以上も修行を続けていて、未だに他人の言葉に追従するしかノウがなく、妄言を発し続けている御仁!...
数年前、“五井先生の教え以外の宗教は、すべて闇の結社フリーメーソンの息がかかっている!”、と言い放った時は、“コイツ、もう完全に終わったな!”と思った!
しかし、その後も何度も懲りずに、どうしてもそういうこと言わなきゃならないカルマがあるのか、妄言を繰り返し続けている!...
何回終わったな、と思ったことか!...終わらないカルマ!
そして、それについて突っ込まずにおれない私!...終わらないカルマ!
決して気分がいい訳がない!...ああいうことを言わなきゃならないのも同じだろう!...
いい加減、終わりにしたい!

あの御仁、ひょっとして私の代わりに!
私の中には確かにああいう“狂相”がある!、そういう因子がある!...それは、すべての宗教、スピの世界に付きまとっているものだろう!
私がそれを表に出さない代わりに彼が!...恥ずかしくないのか?...何十年も、未だに!
私はあの反面教師のおかげで、どんだけ我が身の鏡を見るようにも気づきに与ることが出来たことか!(皮肉だけで言ってるんじゃないぞ!)
いや、ご苦労さんなことではないか!
同年代、共に五井先生との縁を頂いて、ほぼ同じ年月が経つ...他人とは思えない!
“あんなヤツとは関わるのはゴメンだ!“とは思っても、カルマはそうさせてくれないらしい?...
何か“消えてゆく姿の教え“の重みが初めて感じられるようになった気がする...
“Tさんの天命が全うされますように“...これが私の祈りに出来るのかな?...“我が主よ!“
自分に省み、自分のこととして祈ること!
“トルコ~シリアの人たちの天命が全うされますように“
“世界人類が平和でありますように“
苦節40数年、初めて五井先生の教えに向き合えたような気がする!...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内省と感性

2023-02-18 10:29:41 | スピリチュアル
いわゆる精神的な目覚めに与る人というのは、ほとんどが内省的な資質の人であり、又そういう心的な状態でなされると言っても過言でないと思います。
勿論、そうでない人であっても、そのように導かれるということはあるでしょうけれど...とどのつまり、思いを超えたものに開かれるということは、内省的なことと言っていいでしょう。
内省的というと、一般には思慮深く、よく考えることと結びつけられるようですが、何でそれが思いを超えたことと関わるのか?...なんて、もう、そこに重要なことが見落とされているのではないでしょうか?
これは知性偏重の傾向を物語っていて、そこにはそれ以上にある種の感性というものが働いていることが知られるのです。
この感性は、表層意識でああ思ったり、こう考えたりしている知性のもっと奥に働く別なる知性~例えば、多く仏教で説かれる智慧と関わるものであり、本来分けることが出来ないものなのです。
そして、我々の表層的思考マインドを突破するものこそは、このハタラキに他ならないでしょう。
古来、宗教と哲学は切り離されないものだったのですが、普通知性とか理性と訳されている、ギリシア語“ヌース“という言葉には、この感性的なものが含意されていたはずで、それが分離されてしまったところに、知が一人歩きしてしまう様態が生じたのでしょう。
私など哲学書を読む場合、当然知性を働かさないとならない訳ですが、ある鉱脈に突き当たると、パッタリとそれが止まってしまい、読み続けるのが困難になることがあります。そこに電撃のように思考マインドを切り開くものがこれなのです。
こういう時は、考えているのでなく、”感じている“のは言うまでもありません。
こう言って、何も難しい本を読まなければ、目覚めに与れないなんてこた無いですよ!
これに反して、例えばやたらと他人が言っていることを真に受けて、信従、追従してしまうような、洗脳されやすいような人間は全く内省的とは言えず、そういう契機はほとんど無いと言っていいでしょう。
普通に考えれば分かるように、その思念が強ければ強いほど、思いを超えた世界への道は閉ざされてしまうのです。
何故ならば、思考の表層に留まり、深みに入ることが無いから...自分自身の内奥に向き合っていないから...それは覚醒ならぬ、睡眠状態に置かれたままなのだから!...
自ら進んでそういう心的状態に意識を持っていってしまうような人間は、全くそのことに無自覚であり、気付くことがありません。従って反省ということもありません。
だから、人にはずっと、“ああ、あの妄想ばかりしてる人間か!“、というイメージで見られているのです。
精神的目覚めとは、気付き以外の何ものでも無いにも関わらず!
内省的であるとは、何よりも全く内省的でなく、その実自己に意識が向けられることのない、自己中心的な自己愛とは別の意味で、自分自身を信じ、愛するということでしょう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やり方でなく意識の在り方

2023-02-16 09:38:05 | 求道、探究
私がチョイと知ってる反面教師の画伯が又、トンデモないことを発信していました。
例によって、誰かが言っていることを真に受けて、この度のトルコ~シリアの大地震は東京で起こるはずのものがまつり代えられたと言うのです!
私もそういうことはチラと思うことはあっても、何故こうも何ら確証の無いことを“真相はこうです!、などと平然と言えちゃうのでしょうか?...遠い国のこととはいえ、一体被災者、関係者が聞いたらどう思うでしょうか!?
漠然と思うに留めていることと、内省もせずに発信の実行をしてしまうことは、現実には犯罪者となるか、ならないかというくらい大違いなのですよ!
こういうことを言う方も聞いた方も、何か“ざわざわ“と、前回書いたこととは真逆の、意識がある中心から離れて、分裂気味になる感じがしてくるものです。
この御仁、苦節40年以上に渡る修行により、業想念はあまり出なくなったそうですが、ずっと陰謀論だの妄念に囚われているのです。その“統一行“という、修行の中身がどんなものだったのか、自らバクロしているようなものではないか!
こんな“黄印“のタワゴトなどほっとけばいいとも思うのですが、二年間その無駄な“統一行“に付き合わされた因縁もあるし、敬愛する五井先生がらみでつい突っ込みたくなってしまうのです。まあ、修行が足りんのでしょう?
私は五井先生が主導した統一行を続けることにより、皆あんな風になる、なんてこた勿論言うつもりはありません。
あれは、道場の行事として、自力では難しく、何にどう精神を統一していいか分からない、初心者向けに五井先生が誘導していたはずのもので、自然に意識が統一される(中心に収斂される)のが掴めたら、自然にそういう形からは離れるのが普通だと思うのです。
何十年もその、“指導用テープ“に依存しなければならない(そういう思いに囚われている)、というのはおかしいですよ!
いちいち、テープのセットをしなくてはならないなんて!...いつでもどこでも、意識が向きゃあ、始まるんだっつーのに!
そこで思うに、こういうことは、ある決められたやり方自体によって、その向かう先が決まるというものでなく、一人一人がどういう意識で臨んでいるのか、“意識の在り方“によって決まる部分が大きいのではないか、ということなのです。
いつも、どういう方に意識が向けられているか、集められ、満たされているのか?...
だから、同じやり方で同じように導かれるなんてことは聞いたことありません。
第一、そういう画一的やり方には向き、不向きというものがどうしたってあります。これに気付くか、どうかでも大きく変わると言っていいでしょう。(先の行などは、内なるものにつながるところ、音声として自分の外側に意識が行ってしまい、私には不向きでした)
ある人は悟道に導かれるかもしれないし、又ある人は飽きもせず妄言を発し続けているように...
反省、内省ということも無しに...これはもう、精神の道を歩む上で致命的なことと言えるでしょう!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の応答

2023-02-15 09:44:26 | 求道、探究
”神のことは勿論、あなたの心のことはあなたの神に聞くべし!”
...ったって、神なんて居るかどうか分からん!...だから、人に、世の中の声に聞いたりする...彼らに心のことなど分かるだろうか、心ないものではないだろうか?...よって、ますます分からなくなり、迷ってしまうことになるのではないですか?
ためしに、”神よ!、あなたは本当に居られるのですか?”、と尋ねてみる...
ああ、もう!...耳鳴りぴきーっと、全身全霊を包むバイブレーション、じんじんと、一際増してくる!...本当に神なのかどうかは分かりませんが、こういう応答のようなのはテキメンにあるのです!
これは、いつも言っている、”神に意識を向ける”ということのバリエーションのようなものなのですが、もっと直に尋ねるという風に向けると、もっとズシンと何か重みがかかり、意識が揺さぶられるというか、何かより意識がその尋ねる問題に集められてゆく、収斂されてゆくようになるのです。
勿論、私の意志想念でそうするということでなく、自ずとそうなるということなのですが...
もっとも尋ねるといっても、あれはどうなんですか?、とかごちゃごちゃと思念的な話言葉みたいにするんじゃなく、あくまで意識的なものなのです!...(分からない?、そうでしょうとも?、興味本位に軽々しくやるもんじゃない!...つったって、私の場合、ごく自然になってますけど!)、
思念的でない、意識的な問いかけというのは、否定的であったり、疑ったり、そう、興味本位などでないことです。
“心が豊かになり、魂に響くようなことを尋ねたらいいんですよね?”と...すると、即座に“そうだ!“の応答が!(これは声なき声の響きみたいなものであり、この“そうだ!”に先の意識の重みがかかる訳です。どうも“そうだ!”という応答しかないような感じもしますが...それが思念でないところなんでしょう)
これを例えば、何か品を買おうと迷っていて、どちらを選んだらいいでしょうか?、なんてこと訊いたことなど無いですけど(ものは試しでやったことはあった?)、全く反応など無いのが普通で、むしろ先の意識が収斂されることの逆で、分裂気味にまとまらなくなったりして、まるで“んなもん、考えて分かることは自分で考えて決めろよ…ば~か!“と通達されている感じになったりするのです。
もしかして、こういうことは、自分自身の心の奥の声と自問自答しているのかもしれません。
たとえそうだとしても、余計なことばかり考え、迷っている自分にしたら、それを超えたものに尋ねるということに変わりはないはずです。
ただ神的なものを意識することは、よりそういう自分から離れやすくなるということは言えるでしょう。“そうだ!“...あ、又!
あなたの神を疑うことは、本当のあなたを疑うことと同じなのです!...“そうだ!“
何も信じられない世の中だからこそ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈りは普遍的な道

2023-02-13 09:31:02 | 祈りと瞑想
トルコ~シリアの大地震災害...地震国である我が国のこと、又トルコは友好的な国でもあるし、対岸の火のようには思えないものを感じます。私には祈るしかありません。
ああいう悲惨な状況に接すると、普段神仏のことなど思わない者でも祈らされたりするものですね。
いや、神がああいうメに合わせているのだ、といって離れてしまう者も居るかもしれません。
私は正直そういう神と、私がいつも言っている、私の実存と切り離されない神的現存と同一のものとは感じられません。というか、そういう自然法則の支配者みたいなものは、私の実存、現存感覚にはどうしたって入ってきません。
真実は神に聞かないと分からないでしょうけど...”そうだ!”...え、誰か応答しましたか?、気のせいかな?
祈っても苦境から救われないかもしれない...現実に救われないんだから神など存在しないのだ!、ってなるのかもしれない?
そう、多くの人がそう信じてる、思っている神は存在しないのかもしれません。
しかし、私は現実的な救われというものは無くとも、平安、安らぎに与ることは何度も経験しているのです。
それはいつも言うように、祈りという形を取らなくても、神に意識を向ける、向いちゃう、ということなのです。
ああいう状況下では、例えば瞑想とか座禅観法をしよう、なんて心持ちには中々なれないものですが、そういうことなら出来る、というかやらされちゃうようです!
同じように、重い病床にある時でもそうです。祈るしかない!
私には身に付いている...何の特別な方法も無い、身に付いているのはそれしかありません!
祈りというのは、すべての信仰者は勿論、時にはそうでない人にも普遍的な道ではないかと思います。
何の神とか、どんな祈りの文句、やり方というものを超えて!...又、苦難の状況にあってはそういうものは超えられてしまうものでしょう。
そして又、心底からの祈りには、対象となる神仏が何であれ、自然に自分自身と切り離されたものでは無くなって来るものでしょう。
平安、安らぎに与るということはそういうことなのです。
”そうだ!”...って又!...
私はずっと祈りながら、否祈らされながらこれを書いている、否書かされているのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする