何度か書いているように、私は特別な修行方法というものに関わって来なかったし、そういうものは身に付いていないのです。
身に付かないということは、意識がそれに向かわないということです。
やり方を覚えることばかりか、そういう本を読むだけでメンドクサい!
又、宗教やスピにはいつも付いて回る、知的興味をそそられ、ただそれを信じ込み空想するだけで、何らの確証も得られないような、前世だとか何次元の世界のことなどについての教えも身に付いていません。
これには表層的な心がそれらに向かうことはありましたが、やはりその奥の意識が動くということは無かったのです。
今でも時々は興味を掻き立てられることもありますが、所詮そういうものは来ては去って行く、表層のものでしかありません。
こういうことは、理屈抜きに心惹かれるもの、意識が自ずと向いてしまうものがあるから分かるのです。則ちそれが身に付いているものに他なりません。
そういうものとの最初の出会いは、40数年前、ある本を読んだことだけですよ。五井先生の本。
そこに“神は愛である“、ということが書かれていました。そうして、何だか涙が溢れて来てしまったのです。
その二年くらい前に入っていた宗教教団での信仰生活では一度も無かったことです。ともかく、その時、神は愛なんだ、ということが入って来たのです。
それは、小説や映画を観た時のような、一時の感動かとも思いました。そういう部分もあるかもしれません。
しかし、それが身に付いちゃっていることが、今も私の中に息づいていることで分かるのです。
それが最初で、その後もいくつか忘れられない出会いがありまして、様相は違うところもありますが、本質的なことは変わりません。
修行方法や見えない世界の教えなどが身に付かないのは、こういうことを通じて、魂が揺さぶられるようにも、愛、平安というものが呼び覚まされ、身に覚えているからです。どうしてもそっちに意識が向けられる。向けられるものがあるから向いてしまう!
こう考えると、思いを超えたものとの出会いというものが如何に大きいものであることか!
私はあの時は、教団を辞めたばかりで迷っている最中なのでした。
神の真実を知りたいと思っていたのです。いや、もはやそうじゃない、“出会いたい!“
それはもう、そうと知らずに祈っていて、そういう導きを受けたということでしょう。
あなたが本当に出会いたいと望むなら、迷うことなくきっと出会える!
身に付かないということは、意識がそれに向かわないということです。
やり方を覚えることばかりか、そういう本を読むだけでメンドクサい!
又、宗教やスピにはいつも付いて回る、知的興味をそそられ、ただそれを信じ込み空想するだけで、何らの確証も得られないような、前世だとか何次元の世界のことなどについての教えも身に付いていません。
これには表層的な心がそれらに向かうことはありましたが、やはりその奥の意識が動くということは無かったのです。
今でも時々は興味を掻き立てられることもありますが、所詮そういうものは来ては去って行く、表層のものでしかありません。
こういうことは、理屈抜きに心惹かれるもの、意識が自ずと向いてしまうものがあるから分かるのです。則ちそれが身に付いているものに他なりません。
そういうものとの最初の出会いは、40数年前、ある本を読んだことだけですよ。五井先生の本。
そこに“神は愛である“、ということが書かれていました。そうして、何だか涙が溢れて来てしまったのです。
その二年くらい前に入っていた宗教教団での信仰生活では一度も無かったことです。ともかく、その時、神は愛なんだ、ということが入って来たのです。
それは、小説や映画を観た時のような、一時の感動かとも思いました。そういう部分もあるかもしれません。
しかし、それが身に付いちゃっていることが、今も私の中に息づいていることで分かるのです。
それが最初で、その後もいくつか忘れられない出会いがありまして、様相は違うところもありますが、本質的なことは変わりません。
修行方法や見えない世界の教えなどが身に付かないのは、こういうことを通じて、魂が揺さぶられるようにも、愛、平安というものが呼び覚まされ、身に覚えているからです。どうしてもそっちに意識が向けられる。向けられるものがあるから向いてしまう!
こう考えると、思いを超えたものとの出会いというものが如何に大きいものであることか!
私はあの時は、教団を辞めたばかりで迷っている最中なのでした。
神の真実を知りたいと思っていたのです。いや、もはやそうじゃない、“出会いたい!“
それはもう、そうと知らずに祈っていて、そういう導きを受けたということでしょう。
あなたが本当に出会いたいと望むなら、迷うことなくきっと出会える!