人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

最初の出会い

2024-01-21 09:17:12 | 回想
何度か書いているように、私は特別な修行方法というものに関わって来なかったし、そういうものは身に付いていないのです。
身に付かないということは、意識がそれに向かわないということです。
やり方を覚えることばかりか、そういう本を読むだけでメンドクサい!
又、宗教やスピにはいつも付いて回る、知的興味をそそられ、ただそれを信じ込み空想するだけで、何らの確証も得られないような、前世だとか何次元の世界のことなどについての教えも身に付いていません。
これには表層的な心がそれらに向かうことはありましたが、やはりその奥の意識が動くということは無かったのです。
今でも時々は興味を掻き立てられることもありますが、所詮そういうものは来ては去って行く、表層のものでしかありません。
こういうことは、理屈抜きに心惹かれるもの、意識が自ずと向いてしまうものがあるから分かるのです。則ちそれが身に付いているものに他なりません。
そういうものとの最初の出会いは、40数年前、ある本を読んだことだけですよ。五井先生の本。
そこに“神は愛である“、ということが書かれていました。そうして、何だか涙が溢れて来てしまったのです。
その二年くらい前に入っていた宗教教団での信仰生活では一度も無かったことです。ともかく、その時、神は愛なんだ、ということが入って来たのです。
それは、小説や映画を観た時のような、一時の感動かとも思いました。そういう部分もあるかもしれません。
しかし、それが身に付いちゃっていることが、今も私の中に息づいていることで分かるのです。
それが最初で、その後もいくつか忘れられない出会いがありまして、様相は違うところもありますが、本質的なことは変わりません。
修行方法や見えない世界の教えなどが身に付かないのは、こういうことを通じて、魂が揺さぶられるようにも、愛、平安というものが呼び覚まされ、身に覚えているからです。どうしてもそっちに意識が向けられる。向けられるものがあるから向いてしまう!
こう考えると、思いを超えたものとの出会いというものが如何に大きいものであることか!
私はあの時は、教団を辞めたばかりで迷っている最中なのでした。
神の真実を知りたいと思っていたのです。いや、もはやそうじゃない、“出会いたい!“
それはもう、そうと知らずに祈っていて、そういう導きを受けたということでしょう。

あなたが本当に出会いたいと望むなら、迷うことなくきっと出会える!









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自分のことなのに...

2024-01-20 09:02:47 | 独語
自分のことは自分が一番よく知っている?
自分が何に関心、興味があるのか?
それ、本当に自分が惹かれることなのか?
やってみなきゃ分からない?
難しそうな何かの修行法
何でも自分に課して、それをやり遂げようとすることなど
やり遂げたら何があるのか?
真偽の分からない陰謀論
来ない先の予言
何も覚えていない前世のことなど
誰かの教えを信じ、従うこと
信じ、従ったら何があるのか?
やる前から分からなきゃダメだろう...
自分のことなのに...
関心、興味ならある
だから、やってみようとする...
でも...それは心から惹かれているものなのだろうか?
今は惹かれているが、明日は別のものに移って行ったりする...
それが興味本位というものだろう
それをやることで魂が揺すぶられるのだろうか?
分からなきゃおかしい!
自分のことなのに...
自分のことは自分が一番よく知っている?
本当に心が惹かれるものなら
やる前から分かる!
ずっとずっと変わらない!
心が安らぐのが感じられる
分からなきゃおかしい!
自分のことなのだから!...








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三位一体の音信

2024-01-18 09:32:45 | スピリチュアル
私はこれまで精神的な道に関する言葉に触れてきた中で、ラマナ.マハルシの「神、真我、導師は同義である」というものほど、啓発を受けたものは無いと感じています。
今もこの三つの音信は、三位一体のように私の中で鳴り響いているのを覚えます。
従来の宗教的な道では、神は自己からかけ離れた、外なる礼拝の対象として分離したもののように捉えられるか、又神を否定的に捉え、自己に内在したものを掘り下げていって、真の自己になるという道か、どちらかに偏り勝ちになる傾向があったようです。
現実的に考えてみれば、超越的な神的なものだろうと、内在的な真我的なものだろうと考えている自分からは、与り知れないものであるのは同じだ、ということが分かるはずです。
だから決めつけたように、“神は存在する!“と信じ込むことも、強く否定することも、“そう考えているだけ“である、ということを知らねばならないでしょう。
いや、だからだから超越的なものと内在的なものは切り離すことが出来ないのです。そう考えるのでなく、意識的にそうならざるを得ない!
ここで留意するべきことは、私など自意識の強い人間は特に言えることなのですが、考えている自分は真我に容易になりたがる、成りすましたがる、“なった“と信じたがるものだ、ということです。
もし、それで自分で決着をつけてしまうようなことになれば、本当に真我に目覚める道は永久に閉ざされることにもなりかねません。それだったら、ずっと観念的であっても二元的に分離した神信仰をしていた方がはるかにマシだと言えるでしょう。(ヘタな悟り系スピなどに走ってしまうよりは!)
又、考えている自分は、目覚めの契機にあってその限界を示され、その“現前するもの“に明け渡さなければなりません。
その場合、どうしても自分が自分に明け渡すというのはオカシイですね?
だから、神、導師というものが意識されないとならないのです。
といって、全く自己とかけ離れた、別なるものに明け渡すことなど、考えている私には到底出来るものではないでしょう?
だから神の現臨、則ち見えざる導師の出現(これは本当に同じなんだ!)を待ち望まなければならないのです。
この導師の導きというのは、何も“ああしろ、こうしろ!“、というものではありません。
愛、平安、リアリティ...それは声なきもの...しかし、これ以上強力な誘いというものは無いと言っていいでしょう。
私の本性がそれに惹きつけられてしまうのです!
その本性は...そう、神と導師と一つのものである、ということです。
大事なこと言いますけど、私がその三つが一つになったような境地になったかどうかは知らないですよ!
知らなくてもいい!...私の与り知れないものなんだから...
感じていたらいい!...分かりますよね?...

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何となく感じられることから

2024-01-17 10:07:59 | スピリチュアル
今年もこの日を迎えることになりました。
忘れもしない平成7年のこの日...阪神大震災。
当時、兵庫県尼崎市に在住していた私は、特に被害を被ったことは無かったのですが、震度6の激しい揺れを経験しているし、歩いて10分もかからない隣町西宮や神戸の惨状を目の当たりにしているなど、全く他人事でなく、当地の多くの方と同じであろうように、又この度の震災と重ねられるように、亡き者たちへの鎮魂のことなどに思いが向けられるのです。
しかし、又不謹慎なことを言うようですが、何人の人が死者の霊の永続性、霊魂などのことを信じているのでしょうか?
慣例というか、そういう行事をすることになっているからでしょうか?
以前、神とか霊の存在を全く信じていない知人が、“お盆には先祖を祀るんだ“、と言っていたので、“信じていないのならする必要ないじゃないか?“、と突っ込んでみたことがありました。この人の場合は、慣例的に思っている線が強く感じられましたが、それ以外に何とな~く、信じられ、感じているという人が多いように思われます。
これを、“人間は肉体は死んでも霊体として永遠に存続しているのです!“、と実体論で説明されると、多くの人は多分引いてしまうことでしょう。
私には、神の実体と同じく霊の実体があるのかどうかは分かりません。
だけど、何とな~く信じている、感じている訳でもありません。じゃ、どう感じているかと言うと...これが分からないのです!
霊なるもの...私的にそれは、死者の霊に限ったものでなく、それを超えて人間の内に息づいているものであり、より超越的なものは神的なもので、要するに共々思いを超えたもののことです。
思いを超えているということは、言い表すことが出来ない!...だから分からないのです!
その実体は分からないけど、神的な、霊なるものには意識が向けられ、又意識的になっているからそれらが感じられるのです。(言うまでもなく私の場合、今日のような特別な日以外でも年がら年中ですが...)
実体論のような説き方だと、逆に思念的なものが感じられて、“入って“行かなくなります。
だから霊なるものは、何か確たるものが存在しているように信じる必要はありません。
多くの人は何となく、漠然と信じているようです。それは願望かもしれません。祈り、願うということは!
でも、あることが契機となり、そうせずに居れない気持ちに駆り立てられるものなのではありませんか?
自分の思いを超えた現実に直面した時、誰しも思いを超えたものに意識を向けざるを得なくなるのではないでしょうか?
それは、自分自身の内に息づいている霊なるものが呼び覚まされるのではないでしょうか?
そう、それは他者であっても、生きていても死んでいても自己の内なるものと切り離すことが出来ない...自他の平安を祈らざるを得ないものがそこにあるということなのでしょう...。







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見えないけど感じられる

2024-01-15 09:57:16 | 
この度の震災のことでも、多くの人から、復興の早からんとことを、被災者の心が平安でありますように...など祈り、願いの声が聞かれました。
不謹慎な言い方ですが、何人の人が本当に神仏を信じているのかは分からないですが...
現実的に考えると神がその祈り、願いを叶えてくれるかどうかは分からないのです。
いや、神が実在するかどうかすらも、普通の人には分からないでしょう。
私にも分かりませんが、私は何度も祈ることで平安に与ることが出来ると言ってきました。
これは多く、神的なものに意識を向けることと結びつけられているのですが、神の実在が分からないのに何で向けられるのか?、という疑問を持たれる向きもあるでしょう?
だからね、向いちゃう、自ずと動いちゃうんだからしょうがないのです。
いや、これはもしかして、そういう学説があるように、エンドルフィンとかの脳内物質が働くためかもしれないのです。
何にしろ、これは意識的な領域と関わっているのは間違いないでしょう。
潜在意識というのか深層...そう超越意識!...どうやらそういう意識が活性化されるらしい?...神とかは関係無いのか?
いや、そうじゃない!...エンドルフィンだろうと、意識のことだろうと、アレコレ理屈づけて考え、思い描いている自分を超えたもの、与り知れないものであるのは同じはずなのです。
そして、理屈づけようとする人というのは、大体において神の実在を否定しようとするようなのです。
私が神の実在性について分からないということは、何度か言っているように、言い回しは微妙ですが、そういう実体があるものとして存在しているかどうかは、分からないということであり、そういう意味ではどちらかというと否定的なのです。
そういう実体は見たことがありません。だけど見える、見えないを超えて、愛、平安、リアリティが、そこに感じられる。いや、それは見えない...とどのつまりこちらの思いを超えたものだからこそ、そう、感じられて来るのではあるまいか?(ついでに言えば、エンドルフィンだって深層意識だってこの目で見た訳じゃありませんよ!)
そういうものが感じられる時、与っている時アレコレ理屈づけて考えている私など居ません!
それをもたらしているものは、あなたの思いを超えたものなのだ!
愛、平安、リアリティ...それは、思念の限界に突き当たり、思われた自分が木っ端微塵にならないと絶対に分からないものなのです!
神を信じられないのなら信じる必要はありません。思いの世界で信じたってしょうがないし、かえってそういう思凝念を強め、“現存“の道を閉ざすことにもなります。
要するに、自分がどう疑うことが出来ない(これが思いを超えるということ!)リアルなもの、現存するものに与るかどうかが重要なことなのです。
これをいつも神的な現存、現臨と言っているのに他なりません。
そして、人間は誰しも神を信じる者も信じない者も、危急な事態に直面するならば、自分の思いを超えたものに“思わず“意識が向いてしまうものなのではないでしょうか?...


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