書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

暖房を対策に利用できないものか

2020年11月03日 13時24分03秒 | 日記

これから気温が下がって暖房をするようになると 部屋の換気が充分に出来ずに新型コロナウイルスの感染者が増加する可能性が懸念されているのだけど

ガスファンヒーターとか石油ファンヒーターなら高温でウイルスを無効化できるんじゃないかと思う

エアコンだとウイルスを消毒することが出来ずに室内を循環させてしまうと思うけど

実火力で空気を加熱するファンヒーターならウイルスを殺せて感染リスクを減らせるのではないか

消防法などの理由で どうしてもエアコンしか使えない場合は フィルターを高性能なものを使えば良いのではないか

医療用のN95マスクに使われているフィルター素材を使ったエアコン用フィルターを作ったらリスクを減らせるのではないだろうか

それって病院でも利用価値がありそうだし

 

あと 一人暮らしの部屋のように他人が入ってこない場所で換気しても「新型コロナウイルスの感染リスクを下げる」ことにはならないよ

もちろん換気は一日に何度かしないと健康上良くないけどね

 

それから最近LED照明が増えたけど 温室効果ガス削減には良いし 蛍光灯の紫外線による白内障リスクも減って良いんだけど 蛍光灯の紫外線殺菌効果が全くなくなったのはウイルス感染症対策の観点からは良くないんじゃないかなとも思ってみたりする

お掃除ロボットの下に紫外線LEDランプとかつけといたら良いんじゃないかとも思ってもみたりする

ちびっこが覗き込まないようにOFFにできるようにしとくと良いかも

ウチにゃそんな高尚なもなねぇが

 

 

Ende;

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昼飯前

2020年11月03日 13時23分10秒 | 意識論関連

イジメもヘイトスピーチも 実は差別する対象は誰でも良くて 集団組織的に協調して何かをしていると 仲間同士の連帯感がもたらす安心満足感が得られることで中毒になり 暴走的に過激化が起こる

これはオキシトシンが脳に作用して引き起こされる行動バイアスそのものであり 差別の中毒性というものは差別自体に中毒性があるのではなく 統率的協調行動による仲間同士の連帯感の方に中毒性がある

暴走族が暴走族同士で連帯して暴走行為を行うのも同じメカニズム構造である

ISILやオウム真理教も同じ

仲間同士で同じ観念を共有することで多数派に属することへの安心感に対して中毒になり その結果としてオキシトシンによって促される仲間以外に対する不必要なまでの不信感や猜疑心によって差別もするようになる

シーケンシャル(機械的条件反射)なんですね

先天的行動バイアス(習性)って

 

以前にヲタク差別の番組が流された時に カウンターに入っちゃった若者がいましたが

ヒトってどうしても不条理な差別があると逆差別に入っちゃう傾向がある

どうしても現場の正義としてバカを殴ろうとしてしまう

でも バカを殴ってもバカは治らないんですね

だから バカを殴ることも結局は不毛な行為なんですよ

「バカを殴る」っていうのは「懲罰」ってことであって それを社会制度にしているのが刑法です

「通り魔を死刑にして解決」だと思っている

でも通り魔が出る度に死刑にしても 何度でも通り魔事件って起こるんですね

原因が究明されていないからですよ

だから再発防止にならない

本当に社会安全性にとって重要なのは 再発防止であって反射的な懲罰ではない

司法裁判のようにややこしい手続きをどんなに踏んでも やってることは結局「懲罰」であって 根本的な無効性は何も変わらない

バカがなぜバカなのかを考えた場合 バカというのはヒトという種の生物において普遍的に見られるものであって 一切間違いを犯したことのない完全無欠の全人的なヒトなんかいやしないんですよ

小さなバカを見逃しているから 社会が甚大なバカの温床になってしまっている

たまたま甚大なバカが出た時にだけ大騒ぎして 自分達の頭の悪さは「なかったこと」にしてしまう

 

「一発大波」っていう現象がありまして 鋼鉄製の大型船を真っ二つにしてしまうことがあるんですね

確率としては非常に小さいんですけど 危険学的見地から見れば「1/1000000の確率であっても いつか必ず起きる」と考えて対策を行います

でも 一般人の感覚(主観)からすると 「そんなに小さな確率なら怖くないわ」なんて思っちゃう

でも実際に自分が遭遇したら阿鼻叫喚の地獄絵図ですよ

通り魔の類いが標的にする相手も 本当は誰でも良くて 目先の感情をぶつけることで満足したいだけなので 誰が狙われてもおかしくはない

イノシシとかクマとか 野犬の群れに襲われるのと一緒で サイコロ(乱数)の目がたまたま当たるとひどい目に遭うことになる

 

ヒトの頭の悪さを撲滅することは難しいとは言えますけど 現象を小さく抑えることは不可能ではない

大きな事象の発生を抑えるためには 小さな事象も見逃さずに丁寧に潰してゆく必要があります

ところが 現代人って税金払って学術研究や警察にお任せしてさえおけば勝手にどうにかしてくれるって思っているもんだから 研究者や立法機関の代議士や司法役人がバカでも放ったらかしにして気が付かない

社会が完璧なもので 永遠に変わらないものだと錯覚している

錯覚はしていないとしても 「どうせ変えられない」と諦めていることを「悟り」か何かと勝手に勘違いして「自分は賢い」と勝手に満足している

「悟性」って「理性」じゃないんですよ 理性を超越(逸脱)した主観的妄想錯覚でしかない

でも ヒトの多くは理性よりも悟性の方を鵜呑みにしたがる傾向があって その原因は主観的に安心満足感による錯覚があるからです

「主観的に気分が良くなること=正しいこと」という方程式を鵜呑みにできるってことは 「自分の主観が絶対に間違えることのない完璧なものである」という慢心が基になっています

主観を疑えば 常に論理客観的根拠を見極めようとするようになります

大乗仏教における本当の「悟り」って 実は「主観的満足に溺れて真実が見えなくならないようにしよう」という自覚を持つことなんですよ

カントの言う「悟性」とは真逆なんです

 

ヒトというのは どうしても個人的な主観だけで物事を見てしまいがちな習性がありますから 論理客観的に真実を見極めることをやめてしまいがちなんですね

だから 本当に大切なものが何なのかを見失ってしまうことに陥る

自己も含めて論理客観的に検証すれば 何が一番大切なものなのかは自ずから見えてくるんですけど その論理客観性を阻害するのが主観であって 主観というのは個人的好き嫌いであって 個人的好き嫌いというのは先天的本能習性が促す生理的(条件反射的)なものに過ぎないわけです

 

私の個人的主観からすると 男同士の同性カップルなんて「気持ち悪いのでやめてほしい」って思っちゃいます

でも若い女子同士の同性カップルなら「かわいいな」とか思っちゃう

そんな個人的主観は社会的には糞しょうもないものであることを知っているから社会的行動や言動には利用しないように心がけている

迷惑な糞DQNを見れば「死ねバカ」としか思わないんですが それだけで終わりにしちゃいけないことも知っている

 

お腹すいたのでお昼ごはんにします

今日はマルちゃん「ごっつ盛り ワンタン醤油」です

 

 

Ende;

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