書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

優先順位

2020年11月17日 16時17分59秒 | 意識論関連

◯道徳という欺瞞

道徳というのは基本的に「誰かが作った規範」の押し付けでしかない

その「誰かが作った規範」が どのような状況においても常に正しい結果を導く根拠が全く示されていないのである

いわば宗教における頭ごなしの「戒律」と同じで 合理的な根拠がまるでないのだ

ヒトという種の生物は 「これさえやっときゃ 全ては解決」という短絡的解決法を鵜呑みにしておけば満足する習性がある

これは統率的協調行動習性において 特定のボス(権威)に盲目的に服従する習性によるものであって その気分的安心満足によって ヒトは物事を自律的に判断することを放棄するようになるのである

 

人間性や倫理とは 「個人が自律的な社会的責任判断選択をすること」であって 主観的に信じたい権威が決定した規範や規則を盲目的に信奉することではない

「個人が自律的な社会的責任判断選択」とは あくまで論理客観的根拠に基づいた本当に社会安全性や持続可能性にとって最適な判断であり 個人の主観的好き嫌いで決まるものでも 単なる主観の多数決で決まるものでもない

人間性や倫理の本質とは何か その論理客観的根拠に基づいた判断選択が伴わないから 「地下鉄に毒ガスを撒くことが人類の救済」だとか 「刑法判決で解決」などという根拠のない風説を鵜呑みにしてしまうことに陥るのである

「学力偏差値=知能」というのも大衆観念上の風説に過ぎず 「道徳が人間性や倫理に適うものである」というのも論理客観的な根拠は何もない

ルールに従うことが絶対であるならば立入禁止の鉄道線路軌道上に2歳児が迷い込んでいたとしても 助けには行かないことが「正しい」ことになってしまう

近くの踏切の警報機が鳴り出し 一刻の猶予もない事態において 機械手続き的に法律ルール規則規範を守ることが常に人間として「正しい」選択になる理屈はない

誰か「ヒト」が作った規則規範である以上 常に正しい完全無欠のものである保証はない だからこそ立法機関で改正したり新しく作ったりし続けなければならないのが法律というものであり 法手続きというものは その適用において法律の主旨に基づいた運用をしなければならないのである

誰にも迷惑がかかっていないのに「飲食店内で客が踊っていたら問答無用で店長逮捕」だとか 「メルカリで肥料売ったら犯罪だ」という話になってしまうのである

逆に 法律上禁止されていない状態であれば危険ドラッグは違法ではなかったのである

「法の下の平等」とは 所詮その程度の「平等」に過ぎない

どんなに法律を整備しても 社会を形成する市民個人個人が自律的に社会的責任を負わないのであれば 社会は崩壊にしか至ることはない

逆に言えば 個人が自律的に社会的責任判断選択を出来ていれば 最低限の法律以外は必要がない

そもそも警察官や官僚が犯罪を犯すこともある以上 法手続き自体は「絵に描いた餅」に過ぎないのである

道徳教育の危険性とは 権威に対する盲目的服従性を押し付けることによる個人の自律判断の喪失を促してしまうことである

 

◯罪とは何か

法律に触れていなくても社会的に迷惑な行為というものはあり 逆に法に触れても倫理上必要な行動というものもある

人間性や倫理の本質とは 「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であり 何が本当に社会的責任行動になるのかを自律的に選択できることが前提である

「本当に 人間として正しい行動とは何か」を 自分が置かれた状況や環境に応じて判断できる必要性がある

カルト宗教に感化されて「地下鉄に毒ガス撒くことが人類の救済だ」と盲目的に信じ込んでしまったり 政府が「1億玉砕」をスローガンにしているからといって「特攻隊は英霊だ」と盲目的に信じ込んでしまっていたのでは 人間性も倫理もスッタクレもないのである

 

ここ数年では ISILのような集団組織的テロは減り 個人が各々に暴力破壊をする「ローンウルフ(孤独な狼)」が増えているという

自暴自棄な通り魔やテロリストというのは 自分が社会の中で存在し続ける根拠を持っていないのである

主観的に この社会の中で生きていても何も楽しいとも美しいとも感じないからこそ 社会もろとも破壊して「終わり」にしようと道連れにしたがるのである

だが 実際の通り魔というのは 毎晩酒に溺れ脳を麻痺させ ネット上での人気取りばかりに執着する評価承認欲求中毒患者であって 自ら能動的に人生の楽しみを見つけることができない不満を社会の所為にこじつけているからこそ 方向性や具体的合理性のない無差別暴力をやらかすのである

 

社会は確かに不平等で 不条理不公平が存在するのだが そうした社会の問題点を論理客観的に原因究明をして 問題を丹念に解決するための建設的な工夫や努力を積み重ねなければ あらゆる社会の問題は解決することはない

本当にすべきことは何なのか 最も社会にとって重要なのは何なのか そういった論理客観的な真実を見極める能力が大半のヒトには欠けているからこそ 社会が「方向性を見失った著しいバカの温床」になってしまうのである

「こんな奴は死刑にしちまぇ!」などという大衆迎合に便乗して勝手に盛り上がって満足しているバカがあまりに多いからこそ 「俺のような奴は 死刑になればええんじゃ!」などという雑な最終解決に暴走するバカが出てきてしまうのである

これは 相互に相手を「敵」とみなした報復合戦にしかならない

フォートナイトというゲームでは チームを組んで協調的に相手チーム(敵)との殺し合いを行うゲームである

競技の全ては基本的に相手よりも優位に立つことを競うものであり 団体チーム戦では協調的に相手から得点などを奪い合うことを楽しむものである

それをなぜやるのか

主観的に楽しいからである

客観的には何の役にも立たない

敢えて意味をこじつければ 団体競技で得点を競い合うことを楽しむことによって 先天的な統率協調行動習性を満足させ 暴力性の暴走を抑えることに寄与することにはなる

それなら体育会系集団でありさえすれば暴力的な行動や反社会的行動をしないのかと言えば そんなことはなく 「学生寮で大麻栽培」などというバカ丸出しなことも珍しくはない

他人からの評価や 他人との比較順位に執着することなく 個人的な楽しみとしての純粋行為によって 自分の脳内麻薬を自給自足できていなければ 本当の満足を得ることは出来ず 反社会的な行動であっても平気でできるようになるのである

何が楽しいと感じるのかは 人それぞれであり 一概に「これさえやれば満足する」といった方法論があるわけではない

なぜなら 満足を感じる脳自体がそれぞれ違うものであって 脳が違う以上 何を楽しいと感じるかもそれぞれ違うのが当たり前である

だからこそ小柴昌俊氏が言うように「実際にある程度やってみないとわからない」のである

自分の脳をどうやったら満足させられるのかは 実際にあれこれ実践してみないとわからないものなのである

他人と比較して生活水準が高いとか 手取りや資産が多いとか そんな物質的なことで個人の幸福が決まるわけではない

道徳教育的に「他人のために生きることこそがヒトは最も幸福」などと押し付けられても それを鵜呑みにできるおめでたい奴はそうそういるものではない

そもそも そんなおめでたい奴なら道徳教育などしなくても他人に迷惑をかけようとは思わないのである

 

「生育環境ガチャ」で当たりを引いて 自分が生きていること自体を楽しめている奴なら 何もわざわざ他人に迷惑をかけようとは思わないものである

自分が生きていても何も充実感を感じないように育ってしまっているからこそ 自己客観性も働かずに他人の迷惑にも一切配慮できないようになっているのであって こうした不平等は子供の養育環境からは徹底して排除しなければならない

「子供は社会の財産」であって 続き柄上の「親」の個人所有物ではないのである

 

運悪く劣悪な環境で育ってしまったことを嘆いても仕方ないことであり 自分が何をしていたら楽しいと思えるのかは もはや他人を頼ってもどうにもならないものである

自分の取り扱い方は 自分でみつける他はない

清原和博は麻薬に手を出してしまってから「世の中のためになりたい」などと言い出したが 「世の中のためになる」以前に 「世の中の迷惑になるようなことに手を出さない自分」をみつけることが先である

優先順位を間違えたまま無駄な努力を積み重ねようとすることが そもそもの間違いの素なのである

自分が生きていて楽しいと感じられれば 自ずと社会(他人)への配慮もできるようになるものである

それは私のような「ヒト嫌い」であってもである

 

 

Ende;

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選択の真理

2020年11月17日 11時51分39秒 | 意識論関連

身勝手な実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけたがる奴というのが時折いる

集団組織的に誰かを「悪者」や「敵」とみなして統率協調的に同じ観念を共有して攻撃することで 先天的な社会形成習性を満足させられることができるため 半ばシーケンシャル(自動的自然・条件反射的)にイジメや差別というものは発生する

 

イジメや差別を行うための屁理屈として 根拠の乏しいこじつけ「ストーリー」を様々にでっちあげ これを誰も客観的に検証することなく主観的満足や安心を満たす形で集団統率的に協調して「実証不能の観念の振り回し」を引き起こすのである

それは宗教や民族とは無関係に 個人が主観的に嫌いな相手を攻撃するためにでっち上げたものに過ぎず 差別やイジメというのは集団組織的に誰かを攻撃することで主観的に満足するための中毒症状であり 本能の暴走に過ぎない

「仲間同士で誰かを攻撃していると楽しい」のである

そういう人間としての欠陥が ヒトには先天的に存在している

 

「嗜虐」というものは 獲物を捕る際に発揮される情動であり 獲物を押さえ付けて殺害して喰うという行動を促す動物的本能の一つであるが これは必ずしも狩猟捕食以外では発揮されないわけではなく 性欲を満たす場合にも発揮されるものでもある

女性の身体に勃起したペニスを挿入して喘ぎ声に興奮する場合にも 嗜虐性は発揮されるものである

かつてヒトがヒトにまで進化する遙か昔 祖先が森の中で巨大恐竜達に怯えながら生きていたい時代には 異性を見つけたらとにかく強制的に交尾しないことには繁殖にはならなかったため 繁殖行動が暴力的になるという「生存や種の保存にとっての必然性」はあったと言えるが そもそも生存自体が結果に過ぎない以上 繁殖にも目的などなく あくまで繁殖した個体種が「死なずに生き残った」ものを「生物」と分類しているに過ぎない

 

集団レイプをしても「自分の遺伝子を遺す」ことにはならない

輪姦してしまったら誰の子供かわからなくなってしまうし そもそも集団レイプというのは子供を作ることが目的ですらない

単に妙齢の女性を強姦して楽しむことだけが目的であり この場合における「目的」とは 目先の本能欲望を満たすことだけであり 合理性は一切伴わない

本能欲望に合理性があろうがなかろうが 進化の過程において特定環境下における「生存や種の保存にとっての必然性」はあるとしても それは生存という結果にとっての必然性だけであって それ以上には意味がなく そもそも本能欲望自体は自発的に選択することのできない「結果」でしかなく 選択不可能なものに目的も合理性もヘッタクレもないのである

 

先天的本能習性によって促される行動バイアス(欲望)には 合理性が伴う必要性がなく あくまで欲望によって促された行動が結果的に特定環境下において生存や種の保存に適した「結果」以上には意味がない

先天的な本能習性というものは 急激な環境変化には対応できるものではなく 環境変化にその都度適応するにはかなりのコストが必要であり 失敗(絶滅)する可能性も充分にあり 遺伝的な進化というものは不確実で偶発的な「結果」以上に意味はない

従って 本能習性のままに行動した結果 絶滅しても 誰も責任を取ってはくれないのである

 

ヒトが現代社会において塩分や糖を過剰摂取したがるのも 祖先が塩分や糖の乏しい生息環境下において積極的に塩分や糖を摂取する習性を持った個体種への淘汰圧力が働いた結果であって それが現代社会への適応を妨げ 生活習慣病の根源的要因となっているのである

ヒトは 農耕などの文明社会を作り出したことによって 生活に余裕を持てるようになり 交易を発達させたことによって 持て余した「暇」を同種同士の無駄な暴力によって先天的本能欲望を満たそうとして差別や紛争暴力を引き起こしているのである

差別や紛争暴力には 何の合理性もない

それは強姦と同様に何か目的意識によって主体的に選択した行動ではなく あくまで先天的に組み込まれた動物的な行動習性である本能欲望に基づいた行動であり 合理的な目的など介在する余地はない

凶悪殺人犯に対して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と 感情的に怒鳴り散らすことによって大衆の人気を得ることは簡単であるが テロリストや通り魔を死刑にしてもテロや通り魔事件の原因究明にも再発防止にもならず 死刑などの刑罰自体が社会安全性にとって無駄なものであり 社会的に無責任な制度に過ぎないことを無視した犯罪者差別にしかなっていないのである

そりゃ 私とて殺したいバカはいるものだが それは私個人の主観的感情論であって 殺したところで社会安全性が高まる合理的根拠は何もない

社会安全性や持続可能性を優先しない倫理や人間性は成立しない

どんなに多数の個人的主観を多数決で集計しても そもそもヒトの先天的本能である限りそこに合理的な目的など存在せず バカや通り魔を何人死刑にしても通り魔が発生する原因究明や再発防止になるわけではない

「司法判決で解決だ」という錯覚は 言うなれば生活習慣病のようなものに過ぎず 「塩中毒」同様に「刑罰中毒」に陥っているのであり これはヒトの先天的本能習性によって促される無意識な行動バイアスの結果であって 合理的な目的が存在するわけではない

刑罰などの暴力的な威圧によって 何かが解決すると「思って」いるのが錯覚なのであり 本当は暴力威圧というのは「それを実行しておけば主観的に満足で安心できる行動」に過ぎない

司法の本来の社会的役割とは 安全性を高めることであって 法手続きに則って多数大衆のご機嫌取りを優先しておけば安全性は無視しても良い理由にはならない

罰というものが多数大衆の合意の元に正当化されていても それが社会安全性にとって非合理なものであることが反証できるわけではない

何度も言うが 社会安全性を優先しない倫理や人間性は成立しないのである

罰というのは いうなれば犯罪者差別に過ぎず 法に触れた場合にのみ手続き的に罰を与えているだけであって 合理的な安全性の確立には全くならない

刑法罰という 社会的に無責任な制度を鵜呑みにしていることに合理性は何もないのであり 社会的に無責任な制度に何の疑問も持たないことが法手続き上違法ではないとしても 道義的には「罪」なのである

 

人類は歴史上様々な罪を犯してきた それに対してどう「償えば良いのか」という発想自体が間違いなのである

危険学や失敗学では 賠償よりも再発防止が優先される

「失敗」そのものが起きないようにすることの方が社会にとっては重要なのであって 事が起きてから償ったり贖(あがな)ったりしていても 被害は減らないからである

松永莉子パパが「再発防止を優先して欲しい」と主張するのは 罰がどうであれ 既に起きてしまった事象は回復のしようがない以上 もはや「二度と自分のような地獄を誰にも遭わせたくない」という「考え」に基づいたものである

感情的には 「どうして重大事故になるまで誰も止めずに放置した」と 無責任な行動を取ったあらゆる特定人物の全てを糾弾したいであろうが ヒトである以上同じ過ちを犯す可能性は誰にでもある以上 事故を教訓として家族の死を無駄にしないための選択をしているのである

松永莉子パパは もはや自らの地獄を解消することは叶わないからこそ 自らの感情を後回しにして 他人である社会全体の安全性を優先する選択をしているのである

何か重大事象が起きる度に「死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして軽薄に大衆人気を集めることは簡単であろうが あまりに考えが浅すぎて無責任極まりない大衆迎合であって 社会安全性を蔑ろにした戯言である

松永莉子パパの真意を汲み取らず 漫然と多数派に同調し 国家権力に迎合している無責任さを 多くのヒトは全く自覚していない

そうした愚かさこそが「人類の罪」であり 「罪」は償うことよりも先に原因を究明し再発防止を優先する理性の方が重要なのである

罰などの報復感情には合理性はない 報復感情は社会安全性に一切寄与しないからである

感情などの先天的本能習性の全てには合理性はないのである

先天的本能習性によって促される様々な感情の中から 最も自己存在にとって優先されるべきものは何なのか それを論理客観的根拠に基づいた「本当の選択」をすることによってのみ 人間性や倫理として機能するのである

「本当の選択」を見極めるためには 論理客観的根拠に基づいた真理(本当のこと)の追求が必要であり 目先の感情や行動バイアスにふらふら無意識に流されていて人間性も倫理もスッタクレもないのである

 

 

Ende;

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