「公の教育の意義を認知的ワクチンと考えると、学校で何かを教えなくてもいいという主張は、もうそんな伝染病なんてないのだからワクチンを打つ必要はないというのと似ています。(読書猿)」
「公の教育の意義を認知的ワクチンと考えると」という仮説自体に根拠がない
事実 公の教育を受けている大多数の国民は認知的には何の免疫もなく 簡単にデマや洗脳に引っかかっているのであり 公の教育が認知的ワクチンとしては何ら機能していないからこそ 私がひつこく「意識の本質とは何か」を説明をしているのである
私も「古典文学よりもプログラミングの方が重要だ」という話を肯定するつもりはない
むしろ 個人的に「好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」とは 益川敏英氏の言葉でもある
つまり プログラミングが苦手だというのであれば それは無理くり強制するのではなく 「ザックリと概要くらいだけは現代社会の中で生きる上では知っておいた方が良い」
というレベルの話であって 古典文学の方に興味を持っている生徒であるならば むしろ積極的に古典文学を学ばせた方が良い
全員が同じ知識を持っているよりも 個々が違う専門知識を持っていた方が 同じ間違いに陥らないよう歯止めが効くのであって 現状の公的教育では大人が勝手に「何歳ならここまで」といったように年齢で教える内容を勝手に決めつけ 生徒の自主的意欲を無視して全員同じ能力に揃えようとすることが間違いなのである
学力成績という 他者から与えられる「脳への報酬」につられる形で 学力成績が上がると誉められることでしか意欲が働かない場合 誉めてくれる誰かがいなければ自主的主体的には何もしない人になってしまうことになる
すると 大学に入った途端「自分で問題を見つけて来なさい」と言われると困惑し 何もできないデクノボウに陥るのである
こうしたシーケンスを断ち切る必要がある
子供 生徒達一人一人は 興味に偏りがあり それぞれに好き嫌いの違いがある
今の教育では 100を教えて100を答えられると100点になる
しかし 実際の生徒というのは興味や得手不得手が全く異なるわけで 大人が勝手に決めた100の内容が 生徒の主体的興味や得意に当てはまるわけではなく たまたま記憶力が良くて教えたことを教えた通りに答えられる生徒の成績ばかりが高く見積もられる構造になっている
私が考える教育とは 1万の知識の海に生徒を投げ込み 生徒自身の興味に則って勝手に知識の海を泳がせ その中から100を答えられれば100点とすれば良い
現状の学校というのは 大学であっても教室で教師が生徒に「教え込む」という形式を採っており いちいち教師が教え込まないと何も覚えない生徒という構図がそもそも大間違いなのである
本を読めばわかることを いちいち教室で教え込む必要はない
むしろ 本に書いてあることに間違いがあることにも気づける判断力や検証能力こそが必要なのである
教師がやるべきことは カリキュラムに沿って生徒にいちいち何かを教え込むことではなく 生徒自身が学ぼうとしている内容を どう学べば良いのか そのやり方だけ教えれば良い
それでこそ本当の「学問の自由」と言えるのである
兵器に興味を持っても良いと思う
ナチスの列車砲の知識に精通すれば いかに戦争というものがバカげたものなのかも知るきっかけになるかも知れない
戦車が戦車だけでは戦闘に運用出来ず 歩兵部隊なしには戦車は動けない不便なものだと知れば 実際の戦闘というものがいかに残虐なものであるかを知ることになるかも知れない
インパール作戦の無謀さや ミッドウェー海戦での惨敗 ペリリュー島の戦闘など いかにヒトが愚かであるかを知ることにもつながる
偉そうに大人が生徒に向かって上から目線で教え込むのではなく ヒトはかつて重大な大失態を何度も繰り返している「残念な生き物」である事実も 次世代には語り継がなくてはならない むしろその方が最優先である
世代に関わらず ヒトとは間違えることのある「人間としての欠陥」が先天的に存在していることに基づけば 決して教師は上から目線で頭ごなしに「暗記しろ」などとは言わないだろう
「学問の自由」とは 生徒が知りたいと思うことを知る権利を保証したものであって 生殖や生理や死体の映像など年齢制限の必要な知識以外は誰でも知る権利がある
航空機に興味がある生徒なら 航空機事故の知識も必要であり 鉄道に興味があるなら鉄道事故の知識を教えることもできる
大人が作り上げた社会が完全無欠のものではないことを知り 欠点や問題点を見つけ出すことによって 地道な対策こそが社会にとって重要であることを知るようになれば 短絡的に犯罪者の実家に落書きをしたり殺人予告をするといったバカげたこともしなくなるだろう
そうした丁寧さが現在の公的教育には著しく欠けているのである
「これさえやっときゃ 頭が良くなる」的な気分の良くなる話を鵜呑みにし バカみたいに浮かれている方がバカにとっては楽であろう
だからバカが治らない
Ende;
「現実的な弊害がある」と称しておきながら その説明はことごとく「だとするならば かもしれません」としか論じていない
仮定自体に根拠がない上 その分析にも根拠はなく ただの勝手な決めつけに過ぎず 何一つ「現実的な弊害がある」ことを論証しておらず この時点で嘘が確定している
「知識のエコシステムもまた生態系ピラミッドのアナロジーで考えることができるなら、古文や漢文を読める人が減れば、スキルの高い人たちのレベルも下がると予想すべきかもしれません。」と述べているが 「知識のエコシステム」とは何か アナロジーだと仮定できる論拠もなく 勝手にアナロジー(類似)だと仮説を立て しかも結論は「かもしれません」としか述べていない
「古文や漢文を学ぶことをやめてしまうと 捏造マナー本が流行するかもしれません(意訳)」
いや だから論理的根拠の説明が何もないぞ
むしろ読書猿の言っていること自体が「捏造マナー本」レベルの話であって 論理的根拠のないデマの陳列に過ぎない
これを鵜呑みにできるバカが一体どれだけいるのかは知らないが ダイアモンドオンラインの編集部は「インターネットの「知の巨人」、読書猿さん。その圧倒的な知識、教養、ユニークな語り口はネットで評判となり、多くのファンを獲得」などと評している
物事の真偽というものは多数決で決定するものではない マスコミも含めてヒトの大多数は論理客観的に真偽の検証ができないバカであることを自覚認識すべきである
出版社は多数人気がある著書を出しておけば金が儲かるから出しているだけであって その内容に論理客観的根拠があろうがなかろうが 奴らには興味がない
「捏造マナーに騙されないようにするため」などと称して「捏造知能本」を売り出そうという魂胆である
これは悪質である
https://diamond.jp/articles/-/253174 -ダイアモンドオンライン
Ende;
狩猟採集生活をしていれば「所有の概念がない」などという話にはならない
自己の所有を認めてもらうためには 他人の所有も認めるのが必然であり 「所有の概念が差別を作った」というのは理論的に無理がある
実際に 狩猟採集生活をしている未開の土地の原住民に「所有の概念がない」わけではなく ハラリの分析には理論的な穴がある
差別というものは ヒトの本能的な統率協調行動習性の暴走によるものであって 狩猟採集生活においては集団的な統率協調行動が生存にとって適していたため進化的に遺伝的性質として遺された
それが農耕によって集団が大規模化し 集団内部で全ての他者を把握できなくなったことによる不信感や猜疑心によって 順位序列への欲求が暴走することで差別を生み出すのである
狩猟採集生活においては 集団内部での信頼関係が必要で 互いを信頼し 個人が主体的に判断しなければ狩りはうまく行えない
ところが 農耕が普及すると集団規模が大きくなることによって 相互の信頼関係が把握しづらくなることで不信感や猜疑心を醸成し 信頼できる範囲内での統率協調性が 集団外の人達に対する差別感情を生み出したのである
暴力団が暴力団内部でしか信頼関係を持たないのも ゲリラやテロリスト カルト宗教やヘイトスピーチにおいても 自分達の集団内部における「ストーリー」だけを盲目的に信用することで 集団内部の信頼関係に頼った統率的協調性を暴走させるのである
同じ観念を共有し 集団内部だけでの相互信頼関係がもたらす主観的安心感(快楽)に取り憑かれることで 中毒症状を引き起こし 暴力破壊への暴走へと突き進むようになるのである
ヒトは 信じたいものだけを信じようとする習性があり 論理客観的には信じるに価しないかどうかは自律的に評価検証をしないものなのである
主観的に信じたいものだけを信じていれば 主観的には安心で満足で楽しいのであろうが 一旦間違ったものを信じ込んでしまうと 自分が信じ込んだものが間違いだったことを認めたがらず 認知的不協和を解消する形で自分が一度信じ込んだものを事後正当化するための様々な屁理屈(ストーリー)をでっち上げるようになるのである
こうしてヒトは実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑もかけるようになる
差別の原因は「所有の概念」とは無関係である
◇
イヌは 育て方を間違えると非常に凶暴になる
飼い主に対する盲目的信頼による服従欲求を満たすことができない不安に駆られ 誰彼構わず噛みつこうとするようになるのである
ところが 一定のメソッドを用いた訓練をすることによって イヌは飼い主を絶対的服従対象として認識し これによって無駄吠えや凶暴性を発揮しなくなるようにもできる
カール:マルクスは「宗教はアヘンである」と論じたが 「イヌにとっては服従はアヘン」なのである
共産主義は宗教を弾圧したが 共産主義社会の多くが封建的独裁に陥ったのは 結局宗教をイデオロギーに置き換えただけであって 経験値の浅い新興宗教やイデオロギーは暴走破綻に陥りやすいためである
イヌだけの集団においては ボスだけが特異に服従対象を持てなくなるために 他の個体への暴力性や交尾繁殖行動が促されるのであって 別にイヌが「より優秀な遺伝子を選択しよう」と考えているわけでも何でもなく 生物学者達による「こじつけ」的説明に過ぎない
よくしつけられたイヌというのは 家庭内においてボスとみなした対象に対しては異常な執着を発揮し 無意味に喜び興奮し うれしさのあまりに尿を漏らしてしまう程である
兄の家でイヌを飼っていたことがあったのだが 兄家族が家にいる時に私が兄の家に入ると イヌは私に対して吠えて威嚇するのだが
兄夫婦が外出中に兄の家に入ると 留守番をしていたイヌは仰向けに寝転がり 服従の意思を見せるようになる
イヌは その場限りに服従する対象をコロコロと転移させ 客観的な羞恥心のようなものが全くない
こうしたイヌの卑屈な行動は弘中綾香氏も子供の頃の経験を語っている
イヌをしつけるためには ヒトが首輪のリードを引っ張って主導権を掌握し イヌの主体的行動を一切認めなければ イヌは簡単に諦めてヒトの顔色を窺い服従するようになる
イヌはそもそも主体性などなく その場の環境や状況に応じた気分的に安心できる行動しかしない
しかし ヒトはイヌとは異なり主体的に脳内麻薬を自給自足することができる性質があり 決して本能欲望によって促される行動しか出来ないわけではなく
自発的に物事を考え検証し 自己の人生における最優先事項を見極めることも可能である
チンパンジーを餌で誘導して様々な能力を発揮させることは簡単だが 餌で誘導しなければチンパンジーは自発的には先天的本能習性以外に何かを行うようにはならない
しかし ヒトは大脳新皮質の肥大によって 結果的ではあれ純粋行為による脳内麻薬の自給自足もできるため 先天的本能習性にはない行動選択もできるように「も」なる
人間性や倫理というものは 先天的生得的に組み込まれた本能習性が促すものではなく あくまで自発的な論理検証性(考え)に基づいた目的行動選択によって発揮されるものであって
単なる先天的本能習性は全て「結果」であって 「目的」ではない
遺伝的進化というものは あくまで「生存」にとって適した形質や習性への淘汰であって 「生存」にとって適する行動の全てに持続可能性や安全性や 平等や公平性や 弱者に対する慈悲だけが遺るメカニズム構造は存在しない
チンパンジーが野生環境下で生き残るためには 他者を騙して自分だけが利己的に旨い餌にありつく行動を採るように進化したのであり 進化の全てが都合よく人間性にとって有利に働く保証は何もないのである
リチャード:ドーキンスのお伽話でも読んでおけば 衆愚は気分的に満足し 「自分は先天的に人間性が組み込まれた優秀な生物なんだわ」とでも勝手に妄想して優越感に浸れるのであろうが
それこそが思考停止の洗脳であり 実証不能の「ストーリー」に過ぎない
Ende;