書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

カモ

2020年11月07日 17時17分33秒 | 意識論関連

遠藤秀紀は ヒトという種の生物は欠陥品であると述べたが 遠藤が言っているのはあくまで野生環境下における生存能力についての話である

だが 本論で扱っている「ヒトの欠陥」とは 「人間としての欠陥」を述べているので 次元が違う話である

 

そもそも欠陥を一切持たない究極の完全生物みたいなものは映画の中の妄想に過ぎない

生物は「生きるため」といった「目的」があって存在しているわけではなく あくまで結果的に死ななかったものをヒトが「生物」と分類しているに過ぎない

生物の多くは「死なないように行動する」性質があるが これは「死なないように行動しなかった」種が絶滅した結果に過ぎず 生存への執着(中毒)というものは動物の行動としては必然的結果である

別に生物というのは目的があって生きているわけではないのである

「生きている」こと自体には自己の選択は介在しないのであって 誰もが「気がついたら生きていた」に過ぎず 自分が「この世に生まれてこよう」といった主体的意思で生まれてきたわけではない

意思や目的といったものは 主体的選択可能性のないものには成立しない

自分で選べないのに意思も目的も戦略もヘッタクレもないのである

選べてこその意思や目的行動選択であって 自分の遺伝子は誰も自分では選んでいない以上 自分の先天的本能習性だけでは自由意志でも何でもない

生存にとって有利な行動さえ採れば人間としての優秀性の根拠にもならないし

生存にとって不利な行動が短絡的に人間として劣っていることの論証にもならない

内部告発など 自分が所属する組織集団にとって不利益な選択によって自己までもが不利になるとしても 社会全体の安全性や持続可能性にとって必要な選択をしてこその人間性や倫理である

 

ヒト以外の生物では 環境に依存した先天的本能習性でしか行動が決定することはなく 目先の快楽を追求する以外の目的行動選択はしない

しかし ヒトの場合はその場限りの快楽だけを追求するだけではなく 統合的に「考え」ることによって自分が死んだ後の世界についての持続可能性や安全性をも考慮することが可能である

可能であるが ヒトでありさえすれば誰でも必ず可能なわけではなく ヒトによっては目先の欲望のために他人に危害を加えたり 他人を危険に曝したりすることは珍しいことではない

虐待が世代間で「連鎖」したり 犯罪者の大半が幼少期からの虐待を受けて育っていて 犯罪者のように自律的な社会的な責任判断選択ができないようになる原因とは 「自分で主体的に物事を考えない」ように育ってしまっていることが最も大きな要因であると言える

簡単に言えば「バカ」なのだが こうした頭の悪さというものは法律に触れるような行為に及ばなくても ヒト全般に見られる普遍的性質であって テロリストや通り魔のような著しく激しいバカが出てきてしまう原因というのは それ以外の多くが自分の頭の悪さを自覚していないため 言わば社会全体が「バカの温床」になってしまっているのである

こんなことを言っていると あたかも言っている私だけが一方的に「頭が良い」かのような主観を持ちがちかも知れないが 先天的な頭の悪さに関してはむしろ私の方が記憶力や学習能力は低く 全然「頭が良い」わけではない

逆に学習能力が低いがために 脳が「整理」されることが少ないために 多くの人が気付かぬ間違いや嘘にも気付けるのではないかと思う

 


ドーパミンは その常習性によって思考や行動を「整理」する性質がある

中毒や執着の原因は 脳の先天的な本能習性の根幹を成すものであり 定常安定を求めることが生存にとって有利に働く行動を促すため 進化的に脳に組み込まれたからであり

薬物中毒で薬物をやめられないのは 動物的な先天的本能習性によって促されるシーケンスによるものであって 先天的な定常安定を求める本能の暴走である

動物的な先天的本能習性というものは 自己選択可能性がない

選べないものに「自由」があるわけもなく 欲望の強度程度で行動が決定していて「自由意思」もスッタクレもありゃしないのである

主体的に選択できないが故に 先天的本能習性というものは暴走性をも持ち合わせているのである

世の中の多くの人が薬物中毒で脳が麻痺したポンコツジャンキーであれば 社会安全性も持続可能性も維持できないことは よっぽどのバカでもなければ理解可能なことであり 他人に社会的責任を求める以上は自らも社会的責任を負う必要性があることくらいは もはや「考える」までもない自明なことである

エタノールは合法だが 泥酔するほど摂取してしまえば野獣のような行動に陥る事例があることは ニュース報道でよく聞く話である

客観的には「ああいう奴にはなりたくない」と思うのであれば 泥酔する程エタノールを摂取することは控えようと「考える」ものだが 実際にある程度脳が麻痺してくると歯止めがかからなくなって泥酔状態になるまで呑んでしまう

そもそもエタノールで脳を麻痺させたがるのは 主観に過ぎぬ個人的な観念を正当化するために 客観的な「考え」を麻痺させたいからである

居酒屋の酔っぱらいが主張している内容というのは 「世間からの評価がないと やる気が起きない」などといった主体性の欠けた主観(本音)ばかりである

脳を麻痺させておいて論理客観的真理が見極められるわけがないのであり そもそも酔ってなくても大半のヒトは論理客観的には何も考えないバカである

 

主観は主体性と同義ではない

主観の中には選択不可能なものも含まれており 様々な主観の中から客観的な選択が介在してはじめて本当の主体性だと言えるのである

主観的に「こうしたい」と思っているからといっても それが単に先天的本能習性によって促されているだけなら主体性にはならない

「違法薬物をやりたい」とか「通りすがりの女子大生に抱きついてキスしたい」という主観自体には主体的選択は介在していないのである

だが 様々な「こうしたい」という欲求の中から 統合的観点から持続可能で安全性のあるものが選択できれば これは主体性として働き 集中力や自発的思考能力を伸ばすことにもなるのである

小柴昌俊が「これなら一生続けられる そういうものを見つけなさい」と言うのも 益川敏英が「嫌いなことや苦手なことは そんなにやらなくても良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と述べるのも それぞれの個人が社会にとって最も役立つための効率にとって適しているからである

何が本当に社会にとって役立つのかを見極める論理客観性を身につけるために必要なのは 本当の自己の主体性を見極めることから始まるのである

単に「電車の運転手がカッコイイ」というだけなら 「暴力的なヤクザやチンピラがカッコイイ」と言っているのと大して変わらない

他人に憧れて「自分もああなりたい」と思っているだけなら 本当は興味もないことに熱中しているフリだけしても 自発的な論理検証性は全く育たない

ノーベル賞受賞者に憧れて「自分も評価されたい」と思ってウケ狙いで学問を勉強しても 教えられた内容に間違いがあっても全く気づくこともできずに鵜呑みにし その頭の悪さを指摘されても言葉たくみにはぐらかすばかりで既得権にしがみつくだけのバカなら大学や研究機関に掃いて棄てる程いるものである

 

私の指摘に対して気分が良くなる奴はいない

そもそも私以外誰も気付かなかった時点で「バカの一人」であることが確定するからだ

よって必然的に「人気」も得られないし稼ぎにもならない

世間的には「一人で踊っているピエロ」みたいな「笑い者」であろう

「これさえやっときゃ 頭が良くなって 世間的に成功して金が儲かり 人気が得られる」的な話の方が世間ウケは良いだろう

そういう書籍も書店に平積みされているが 大抵は嘘である

「世界は存在しない」だの「客観的事実などない」などといった 論理客観的根拠のないセンセーショナルなオカルトも人気が得られる

マルクス:ガブリエルだの養老孟司の大衆人気というのは 科学的検証に基づいた根拠もなく頭ごなしに否定するオカルトであるがゆえの人気である

「マー」だか「ミー」だかのオカルト雑誌の人気と同じ構造である

「人気」があるのは 大衆の脳にとってそれが主観的に「気持ちいい」からである

論理客観的根拠がなければ安全性の保証がないのであって どんなに大衆人気があろうとも安全性の保証のない話を鵜呑みにするのは社会的には無責任な選択に陥る可能性が高い危険なものである

主観的に気分の良くなる話ばかりを信じたがるのがヒトであるが 自分の主観の全てが常に正しいと錯覚しているのは傲慢というものである

信じたいことだけを信じておいて 「自分は他人を信用できる心の広い人物なんだわ」とでも思い込んで「やさしい気持ち」にでもなっていれば安心満足であろうが それは自分の主観的感覚を絶対的なものだと勝手に錯覚している傲慢さの自覚を欠いた身勝手な観念に過ぎない

そういうバカは簡単に詐欺のカモになる

 

 

Ende;

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