太平洋戦争の時の日本では 天皇に対する忠誠忠実さを過剰に求めた軍によって 国民を虐げるようになった
軍幹部は天皇に対する自分の忠誠忠実さを正当化するために 多数他人にも忠誠忠実さを求めた結果 封建的服従を強要するようになるのである
自己の服従性を正当化する形で 他人にも服従を強要することで 認知的不協和を解消する形で封建的体制を作り出すのである
何も考えていないバカの集団に過ぎない暴力団であっても 統率的協調行動が採れるのは それが単なる機械的条件反射な本能習性に過ぎないからであり この習性には「目的」がないため 統率協調性が暴走する形でヒエラルキーが形成されるのである
高校時代に同級生の一人が 特に何もないのに急にヘイトスピーチ的に絡んできやがったことがあり 私は衝動殺人型なので初めのうちは「?」としか思わなかったのだが 黙って見てたら調子に乗ってうるさかったので ブチギレて「うるせぇブタ!」と大声で怒鳴り散らしたら 急におとなしくなって 翌日には私の顔を見るなり うれしそうな顔をして「おはようございます」などと挨拶してきたのである
ブチギレて怒鳴り散らす相手に対して うれしそうに挨拶をするというのは 極めて卑屈な態度であり 客観的にみればどう考えても人間として恥ずかしい行為だと思うのだが コイツには自己客観性というものが著しく欠如していたらしいのである
まるで「イヌやサルをシツケた」かのような現象であった
あまりに極端な例なので 特異例として無視しがちだが 実はあらゆるヒトには先天的に「怖い相手には逆らわず迎合し服従する習性」がある
ただ 自己客観性の程度によって その発現の度合いが異なるだけであって 誰しもが先天的に持っている本能的な行動である
暴力的な相手には逆らわず 迎合的に服従して同調しておいた方が 集団内部ではイジメに遭わずに済むので 被害者にならないための最も短絡的な行動として加害者側に回るという卑劣な行為を ヒトはする習性がある
その方が「生存にとっては有利」であり 進化の過程における淘汰圧力として ヒトは卑劣な行動を優先するよう本能的に組み込まれているのである
こうした淘汰圧力というものは ヒトにまで進化する前の祖先のサルの段階で組み込まれたものであって 「サルの正義」は大脳辺縁系に組み込まれた本能習性としてヒトの脳にも組み込まれているのである
スタンレー:ミルグラムの服従心理実験 通称「アイヒマン実験」における権威に対する服従性の立証は ヒトは環境によっては権威の命令に従って他人に加害する危険性があることを立証している
何も考えずに 主観だけで服従したい相手に服従していると 本人が本当は意図していない無意味で非合理な暴力行為もしてしまうような「人間としての欠陥」がヒトには先天的に存在しているのである
ヒトは先天的にバカである
ヘイトスピーチに便乗し イジメに加担したり傍観放置したり 糞しょうもない嘘を鵜呑みにするのも 先天的にはバカだからである
こうした頭の悪さに起因する無責任さが原発の危険性を放置したことを忘れるべきではない
ヒトは先天的にはバカだが 後天的にはバカを脱することも可能である そのために必要なのは自己客観性である
自分の行いが社会全体にとって安全性や持続可能性にとって最適な選択になっているかどうかを「考える」理性こそが 人間性として働くのである
現代の文明規模の中で育てば人間性が高まると思うのは大間違いで 文明規模は人間性や倫理とは無関係である
釈迦が生きた時代は 別に現代文明程の規模はなかったが それでも現代のバカ「哲学者」よりも遥かに深い考えに基づいて論証している部分もある
釈迦は実は皇子である
国王の息子で 幼少期から何不自由なく城の中で暮らしていたが 城を一歩外に出ると国民が飢えや病で苦しんでいることに疑問を持ち 国民がどうやったら救われるのかを様々に実験工夫をした
当初はバラモン(ヒンデュー)の教えに従い断食で生き神になるという「修行」に挑戦したこともあったが それが本当は国民の救いになどならないことに気づき 途中放棄している
バラモンは階級差別の酷い宗教で 平等などという概念は当時のインドにはなかったのであり 階級差別というものを無意識な偏見として刷り込み学習してしまっていた当時の衆生を逆洗脳することは非常に困難を極めた
小乗仏教では当初「女性は仏にはなれない」という差別をしていたが これは当時の社会における「方便(便宜的嘘)」であり 後の大乗仏教では人以外ですらも人間性を獲得(成仏)することは可能だと説いている
城の中で何不自由なく生活していたことが 本当はかりそめのものだったことに気づき 衆生を救うためにはどうするべきなのかを生涯をかけて研究したのが釈迦である
幼少期に恵まれた環境で育ったことで 人間性として機能する素となったと言える
スーパボランティアで有名な尾畠春夫さんは幼少期に母親を亡くしているのだが その母親がとても優しい人だったそうである
ただ物質的に恵まれた環境で育つことが人間性を作るわけではなく むしろ貧乏でも親からの愛情に恵まれて育つことによってこそ人間性は育つのだと言える
逆に言えば ゲリラ社会で育てば もれなく残虐なゲリラに育つのがヒトなのである
生育環境に依らずとも 「縁」に触れることで仏(人間性)を得ることも可能ではある
得ること「も」可能だが 「も」は取れない
愚かな凡夫のままで 主観的な行動バイアスだけで無意識に行動していれば 六道輪廻をグルグル回るだけの虚しい生涯を送るだけである
あらゆるヒトが不可避な「死」というものが どう「生」きるのかと同義であることを釈迦は「色即是空」と説いた
ヒトは必ず死ぬ それなら 目先の利己的行動選択よりも 社会が安全で持続可能なものであることによる安心こそが 個人の人生にとっても最も重要なものであることに気づくことができる
論理客観的に考えても 永遠に生きることには何の意味もないことは明らかである
安全性や持続可能性こそが 自己が安心して死ねる最も重要な項目なのである
どうせ破綻すると「絶望」するのであれば 別に生き続ける必要性など何もないのである
「絶望は罪である」と説いたのは キリスト教徒のセーレン:キェルケゴールである
当時の教会の組織腐敗の原因が 教徒達の愚かさに最大の原因があることを指摘したのであり 主観的な絶望感によって誰もが社会に対する奉仕の心を忘れていることを痛烈に批判した
「精神性」とは 具体的に何か
要するに「個人が自律的に社会的責任判断選択を行うこと」という 倫理や人間性と同義である
バカはすぐに盲目的に誰かに同調し バカげた実証不能の観念を鵜呑みにして統率協調的に他人に多大な迷惑をかけたがる習性がある
実証不能の観念を それと認識出来ないのは バカで 錯覚を錯覚だと自分では認識出来ないからである
ちょっと冷静に「考え」ればわかることでありながら 目先の多数や権威の言うことの方を盲目的に信用することで 組織腐敗は起こるのである
独裁というものは 独裁者個人だけで構築できるものではなく あくまで独裁者に同調し迎合する愚かな「イエスマン」の集団によって独裁体制は作り出されるのである
オウム真理教も 教祖を信奉したバカの多数によって構築されたものであり 教祖がただのオカルトであることを認識していれば洗脳は起きないのである
様々な無意識が作り出す「錯覚」は 先天的なヒトの欠陥に由来するものであって 錯覚を錯覚として認識理解する「意識(精神・論理客観的検証性)」によって錯覚が促す間違った行動に陥らないようにすること「も」可能である
「も」は構造原理的に除去不可能である
それは私の責任ではなく 各々個人の責任の範疇である
私は「ヒトを作った神」じゃねぇからな
ヒトは神が作ったものではなく あくまで自然環境下で「死なずに生き残った生物」の一種に過ぎないのである
ただ 絶滅するかどうかは選択「も」可能である
「選択をしない」という選択肢は 本当はない
Ende;