書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

絶対に「役に立ってはいけない理由」はない

2020年11月18日 15時03分40秒 | 意識論関連

「哲学は役に立たなくても良い」というのは

あくまで「すぐには役に立たなくても良い」という意味であって 「役に立ってはいけない」わけではない

科学においてもニュートリノの観測やカオスの研究がどこまで役に立つのかはわからないが わからないがゆえに「役に立つ可能性が否定できない」からこそやってみる価値が残されているのである

役に立つか立たないかがわからないのであれば 試してみる価値はあるが 論理的に役に立たないことが立証されていることを正当化するための言い逃れに「役に立たなくても良い」と言い出すのは ただのこじつけやはぐらかしである

哲学とは「考えること」であり 「考えること」とは論理客観的検証を意味するのであって 主観的に満足して思考停止することは哲学ではなく 論理客観的な根拠の積み重ねによる反証主義によって 真理(本当のこと)とは何かを追求することが哲学である

科学的論証に主観を持ち込んではならないが 哲学では主観も扱うとは言え 個人的な主観だけで真理だと言い張るのは哲学を逸脱している

「哲学には好き嫌いがある」とも言われるが そんなもん何にだって個人的好き嫌いなんぞあるのは当たり前の話であって 個人的な好き嫌いだけを根拠にご都合主義的に何でも真理として扱って良いわけではない

ただの個人的な好き嫌いを述べているだけなら文芸芸術との区別はなくなる

ただの個人的な好き嫌いだけを哲学として扱っていたからこそ 亀山郁夫によるドストエフスキーの読書感想文までもが哲学として扱われていたのである

ドストエフスキーは単なる文芸である

読んで面白いとか 感動したとか そういう主観的感想の羅列は哲学ではないのに 放送大学で「哲学」として分類し放送していたのは無責任極まりない話である

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」は カントの勝手な妄想ファンタジーに過ぎず これもまた哲学ではない

実証不能の謎の「叡智界」には根拠がまるで示されていないのであり これを哲学として扱っていた時点で現状の哲学界は無能なデクノボウの集まりに過ぎない

フリードリヒ:ニーチェだのマルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルだのといった およそ哲学とは無関係な妄想観念までをも哲学として扱っていたのは 現状の哲学界には無能なデクノボウしかいないことの証拠である

2020年の文化功労賞では哲学者が受賞していたが 哲学界の基準自体がバカげている現状で文化功労賞もヘッタクレもなかろう

松沢哲郎は「チンパンジーの行動習性から 人間としての社会性を立証できるかも知れない」などという 論理客観的には立証不可能で身勝手な予測をしておきながら 言っている本人は5億円もの研究費の不正流用をしていたのである

松沢哲郎の人間性に問題があるのに「チンパンジーの人間性」なんぞ立証できるわけなかろうて

あまりにもお粗末過ぎて話にならない

 

たとえ専門外だとしても 益川敏英や畑村洋太郎に対して論理的に説明できない話であれば これは哲学でも何でもない

益川敏英や畑村洋太郎が理解できない話を どうやって学生達に理解させるつもりであろうか

バカな学生達はニーチェを教え込むと「カッコイイ」だの「センター性がある」などと主観的感想を根拠に「素晴らしい」などという これまた主観的感想しか論ずることはない

つまり 「何も考えていない」のであって 主観的に「感じた」とか「思った」ことの強度程度に基づいて哲学(考え)だと勘違い錯覚しているに過ぎない

 

もし哲学が「絶対に役に立ってはならない」というのであれば 哲学はそもそも学問ではない

学問ではないことを学問として扱っているのであれば これは単なる嘘でしかない

菅義偉首相が どういう理由で日本学術会議の任命拒否をしているのかは知らないが 学問ではないものを学術会議に任命していたのでは国民に対する背信行為であろう

学問の名を借りたペテンであるならば それは排除する義務が首相にはあるだろう

 

 

Ende;

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ペテン

2020年11月18日 00時55分08秒 | 意識論関連
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」においては 「子供じみた好奇心=理性」という決めつけをすることによって理性を批判しているのだが

子供じみた好奇心というのは 科学や哲学の動機(きっかけ)にはなっても それだけでは論理的根拠を伴う科学的客観性になるわけではない

ただの好奇心による「答え」の追求だけでは科学として成立することはなく オカルトだろうがファンタジー妄想だろうが主観的気分が満足したことで盲目的に信じ込んでしまったのでは科学を簡単に逸脱する

単なる子供じみた好奇心というのは 欲望ではあっても理性ではない



一方で 大脳辺縁系を損傷した人に選択を求めた場合に 「わからない」としか答えないことを あたかも「子供じみた好奇心と同じだ」などと称して理性批判にこじつけている「科学哲学者」もいる

名前は忘れたが東大哲学科の教授だった

大脳辺縁系を損傷した人は 決して子供ように「なぜ?」を繰り返して「答え」を追求したりはせず あくまで他人から選択を求められた場合に「わからない」としか答えないのであって これは好奇心とは関係がない

大脳辺縁系を損傷している人というのは 理性以外がほとんど働かない状態であるということができることから これは純粋理性状態と見て良いだろう

純粋理性状態の人は別に子供じみた「答え」の追求などすることはなく あくまで他人から選択を求められた場合に「わからない」としとしか答えないだけであり カントの純粋理性批判の論拠とは全く別のものである

にも関わらず 東大哲学科の教授は これを「同じだ」などと称してカントの純粋理性批判を正当化し 論理客観的検証性よりも主観の方が人間性を伴うかのように言い張っているのである

また繰り返しになるが カントの「純粋理性批判」の論証とは 悟性だの純粋統覚だの叡智界などといった実証不能の謎のファンタジー妄想でしかなく 論理的には何も立証しておらず そもそも「哲学」ですらない



「哲学」とは 本来「考える」ことを指すにも関わらず 東大哲学科の誰も「何も考えていない」のである

養老孟司の訳のわからぬ根拠のない「寝言」も マルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルだのリチャード:ドーキンスだの 挙げたらキリがないほど論理客観性を逸脱した訳のわからぬ妄想観念が放置されてきたのは 現状の哲学界が何も「考え」ていないデクノボウの集団に過ぎないからである

哲学が主観も扱うからといって 単に個人的な主観だけで普遍性のある客観的根拠もなしに真理を勝手に決めつけて良いわけではない

個人的な好き嫌いは 個人の内部においては事実ではあるが それは「主観的な事実」に過ぎず 他者との間に共通する普遍性の論証にはならない

ある人物が「障害者は社会の負担にしかならないから殺害すべきだ」と思っているからといっても それは主観的な思い込みに過ぎず 普遍性を伴った人間性や倫理に理する論証にはならない

それと同じで カントの純粋理性批判を主観的に正当化しても それが論理客観的な普遍性ある根拠に基づいた倫理や人間性の論証になるわけではない



哲学史を研究していた奴が文化功労賞を受賞したが 過去の歴史を「知って」いるだけでは「哲学(考えた)」ことにはならない

それなら哲学史の研究は哲学ではなく ただの歴史研究に過ぎない

科学の歴史においても かつては錬金術も科学だと思われていたが それは現在科学としては扱われることはない

ところが 哲学に関しては古典を絶対的なものだと盲信し 一切批判することなく実証不能の観念であっても鵜呑みにし 未だに「叡智界」などという何の応用性も立証できない話であっても哲学扱いしているのである

これはもはや学問の名を借りた詐欺ペテンである






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