書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

豚の皿

2020年11月11日 21時17分10秒 | 意識論関連

「親ガチャでハズレ引いた」みたいな表現があるそうだが

誰も自分で親を選ぶことはできないので 一面的には真理ではある

しかし それを言うのであれば 選べないものなどいっぱいある

一面的な価値観を嘆いて被害者ヅラしても 何かが解決するわけではない

自分の遺伝子も自分では選べないし 育った環境から植え付けられた価値観も 自分の脳も その脳から促される気分感情もまた選択出来ない

時代が悪ければ空から焼夷弾が雨あられと降って何もかも焼き棄てられてしまうこともあり 国が違えば戦争で両親を殺され孤児になることもあり 「時代ガチャ」「国ガチャ」で大ハズレを引くこともある

そう考えた場合 一応現代の日本で生まれ 衣食住を保証してくれる親がいるだけでも 必ずしも「ハズレ」とは言い切れない

自分の不幸を嘆いて「絶望」するのは簡単だが その「絶望」の元である不幸の原因を究明し 後世にその不幸を受け継がないための論理的対策を立てることこそが重要である

松永莉子パパの「地獄」から比べれば 大抵の「絶望」は本当はさしたる絶望ではない

京都大学学長や 文化功労賞受賞者の嘘や誤謬を指摘しても 世間の誰も耳を貸さないが それで安易に絶望してやるべきことを放棄したのでは人間性も倫理もスッタクレもないのである

世の中はバカが多いことは確かだが だからといって多数他人をバカだと嘆いて「どうせ何を言っても理解しない」と諦めたことを「悟り」か何かだと勝手に決めつけ バカをどうすれば治せるのかを追求しなくても良い理由にはならない

他人と比べて自分が不幸であることをいくら主張しても それは他人から慰めてもらおうという下心の表象に過ぎず 糞の役にも立たない愚痴にしかならないのである

自己の幸福というものは 他人との比較で決まるものではない

自己の幸福というものは 自己自身の内部における主観によるものであって これは他人との比較できるようなものでは最初からない

どんなに他人よりも物質数値的な豊かさを追求しても 物質数値的価値観自体が時代や社会に依存したものに過ぎず 本当の自己自身における本質的な豊かさとは無関係なものであって 比較に意味などない

そもそも脳神経接続が他人とはない以上 他人よりも自分の方が幸福かどうかを比較すること自体無意味なのである

 

トンボの羽が本当は七色に輝くことを他人に見せても 昆虫嫌いな人なら興味すら持たない

昆虫が好きな人であっても 逆にトンボの種類の方に興味が注がれ羽の色など興味を持たない場合もある

何かを「美しい」と感じるかどうかは 人それぞれであって 興味がなければそれはそれで構わないものである

主観的に何かを「感じる」ことというのは 人それぞれ価値観が異なり 比較競争しても意味がないのである

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を美しいと感じるかどうか それともヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の方が美しいと感じるか それは各々個人で違うものであり 池田エライザちゃんと上白石萌歌ちゃんのどちらがかわいいと感じるかを競っても意味がないのと同じである

幸福という「主観的感覚」の比較には意味がないのである

又吉直樹氏が言うように 「本当は他人の気持ちはわからない」のであって わかるのは本当は自分の気持ちだけなのである

松永莉子パパの地獄は私にはわからない なぜなら私は莉子ちゃん達との一緒に暮らした何年間かの思い出がないからである

私がわかるのは 近所の小学生が同じように事故で亡くなることを想像したらいたたまれず飯がマズくなるという 個人的な主観だけである

何に どんなに幸福を感じるとしても 社会安全性や持続可能性が保証されない社会であるならば あらゆる主観的幸福は意味がなくなる

どんなに大金を出して立派なご馳走が食べられるとしても パレスチナで丸焦げにされた赤ん坊の映像を見せられたら 味もヘッタクレも何もわからなくなるものである

宮沢賢治は「全ての人が幸福にならなければ 自分の幸福もあり得ない」と述べたが ヒトという種の生物として生まれてきた以上 他人の不幸を無視して自分だけ幸福になれることは出来ないのである

チンパンジーならできるだろう 他者を騙してでも自分だけ旨い餌にありついておけば満足できる遺伝的性質に「進化」した生物だからである

ならばチンパンジーを羨ましいと思うバカがいるだろうか

他人の不幸を何とかして取り除きたいと配慮することが嫌ならば ヒトに生まれてきたことを恨み 呪い 死ねば良いのである

別に生存自体に意味があるわけではない ヒトは必ず死ぬのであって ヒトという種の生物に生まれてきたことが気に入らないというのであれば 別に生き続けなければならない理由などないのである

「人が人を殺してはいけない理由」がないのと同時に「他人を殺してまで生き続けなければならない理由」も 「人が人と殺し合いをするような社会で生き続けなければならない理由」もないのである

ヒトが生き続ける理由とは あくまで主観的な幸福を感じることであって 夕焼けの空の色が美しいと写真を撮ってネット上にアップロードするのも 共感して楽しみを分かち合う他者の存在ありきの話である

 

誰も何も感じることの出来ない地獄であれば もはや何をしても全部意味などなくなるのである

上白石萌歌ちゃんが どんなに澄んだ美しい歌声で歌おうとも 大切な人を失った人の心を癒やすことはできない

それは 上白石萌歌ちゃんにとっても絶望であろう

 

松永莉子パパの望みとは 「こんな地獄は他の人には二度と味わって欲しくはない」という願いだけである

ロダンの彫刻「考える人」とは 金儲けの手口を考えているわけでも 他人を騙して研究費を5億円も騙し取ろうと考えているわけでもなく 「地獄について考えている」のである

本当に「考える」とは 「地獄について考える」ことを指すのである

安物の「絶望」に溺れ 思考停止に陥って満足することは簡単だが それは「豚小屋の満足」に過ぎない そういう豚なら場末の居酒屋に腐る程いる 「豚で満足だ」と言うのであればこの文章を読む必要はなく 感染症拡大だろうが何だろうがエタノールで脳を麻痺させて騒いでいればよろしい

どのような選択を行うかは 個人の自由であり 私の知ったことではない

 

 

Ende;

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不毛な罵り合い

2020年11月11日 14時40分04秒 | 意識論関連

形式とかマナーというものは あくまで主観的安心感を与えるだけのものではあり 形式やマナーさえ踏襲しておけば人間性の論証になるわけではありません

とは言え 店員さんや駅員さんの対応がチンピラ学生みたいだったら企業全体に対する不信感を抱かれてしまうことはあるだけに 不特定多数に応対をする社会人としてのスキルとして形式やマナーは学んでおく必要性はあるわけです

でも 「マナーだ」と言い張りさえすれば何でも鵜呑みにして従っておけば良いというものでもなく マナー産業がでっちあげたデマは見抜く必要もあります

世の中というのは不特定多数の人で構成されていますから 誰もが形式やマナーには論理的根拠がないことを理解しているわけでもありませんから 企業に勤めるのであれば形式やマナーは踏襲する必要があるわけです

個人で何でもできるというのであれば 形式やマナーを逸脱していても 実質的に社会的迷惑にさえならなければ構わないのですが 実際には社会生活を送る上においては最低限の形式やマナーは必要になるのです

実際に私のように論文査読の形式を踏襲せずに権威を批判しても 誰も耳を貸してはくれません 本論のように学術権威に対して批判するような場合以外においては 形式やマナーは無視できないものなのです

拳銃を携帯している警察官が制帽を斜めにかぶったり だらしない行動や言動をしていたら 多くの人は恐怖を抱くでしょう

もちろん 外見上形式的に「キチンとした態度や言動」さえしておけば人間性の保証になるわけではありませんが 一応形式というものは最低限は踏襲しておかなければならないことは理解しておく必要があります

詐欺師は形式やマナーに対する一般人の観念的安心感を利用して 丁寧な言葉遣いで相手を騙しますし マナー産業のデマもマナーに対する大衆の盲目的な服従性を利用することでセミナーを開いて金儲けをしているのですが だからといって「形式やマナーの全ては要らない」とばかりにチンピラ学生のように誰彼構わずタメ口でダラダラ話しても良い理由にはなりません

自分の個人的な主観に基づく観念にとって都合の良い話だけを抽出してきて 個人的に嫌な話の全てを頭ごなしに否定することは 結局は「自分で考えるのは10年早い 教えたことを何でも鵜呑みにしろ」と言い出すキチガイと同じレベルの身勝手な傲慢さにしかなりません

アオリ運転で逮捕された男に「自己愛性パーソナリティ障害」という精神病の診断が下されましたが 自分が主張している内容が 本当に論理客観的根拠に基づく主張なのかを検証する自己客観性なくして人間性も倫理もヘッタクレもないのです

学力成績が人間としての本質的知能の論証にならないことや 学術権威でさえあれば常に正しい判断ができる保証もありませんが 論理客観的な根拠の積み重ねによる反証に耐えられる論証は 「真実に より近い」と判断しても良いわけです

科学や哲学の理論の全ては常にかりそめの真実でしかないという謙虚さを持つ必要があり 「俺様は絶対だ」的な全能感に溺れてしまえば「自己愛性パーソナリティ障害」でしかないのです

全能感に溺れている人物というのは 自分の主観的好き嫌いに過ぎない個人的価値観や観念であっても 都合の良い屁理屈を説明して大多数の大衆を丸め込んで人気を得ることしかしなくなります

「自分は絶対に間違えない」と思っている人物というのは 外見上威厳に満ち溢れ あたかも言っている内容の全てに一貫した理論を伴う論理客観的根拠のある論証であるかのように言い張り 大衆に対して観念的な「信頼感」を得ることができます

「サイコパス」というのは ヒトという種の生物が持っている観念的信頼感や 権威に対する盲目性を利用する形で人心を掌握し 多くの人々から真実を見極める意識を奪うことができます

ヒトというのは主観的に安心できたり 満足感が得られる話ばかりを信じたがる先天的習性がありますから 多くのヒトは論理客観的根拠のない話であっても簡単に鵜呑みにし信用して疑うことを忘れてしまいます

バカ教師とバカ生徒の罵り合いには意味がありません

バカを見つけたからといって バカのカウンターに入っても 結局はバカ同士の殴り合いにしかなっておらず 

「どうしてバカになったのか」についての論理客観的な原因究明や再発防止のための具体性のある対策にまで言及しなければ 社会的には何の意味もない自己満足にしかならないのです

刑罰というのは 犯罪に対するカウンターでしかありません ですから社会的には安全性にも持続可能性にも寄与することがないのです

踏み間違い事故を起こした老人を厳罰に処しても その論理客観的な原因の究明にも対策にもなりません

アクセルとブレーキを踏み間違えることは老人の専売特許じゃありませんから 誰でも間違える可能性のある危険性に違いはなく 根本的なり抜本的な再発防止対策を徹底することの方が重要なのです

しかし 現状の司法刑罰裁判においては 罰の判決以上の何も決まることはありません

こうした社会制度上の欠陥について国民の半数以上が認識理解しないことには 松永莉子ちゃん達が巻き込まれた「失敗」も教訓として生かされることはないのです

 

 

Ende;

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