「自分の主張が全て正しいと思うことは傲慢だ」と言い出すバカがおったのだが
そう述べている本人自身も自分の主張だけは全て正しいと思っているのである
本当に傲慢かどうかを判定するために必要な基準とは論理客観的根拠の有無である
根拠のないデマや主観的好き嫌いを あたかも社会的正義であるかのように錯覚していれば傲慢だとしか言いようがない
自分の個人的な好き嫌いや観念を 他人に押し付けるからこそ傲慢なのであり
論理客観的に合理性を持った根拠に基づき「こうすべき」と主張することは傲慢ではない
「何が本当に傲慢なのか」を見分けるための論理客観性こそが重要なのであって 論理的な根拠もなく「お前は傲慢だ だけど そう主張している俺様は傲慢ではない」などという支離滅裂な話を鵜呑みにすべきではない
それくらいは自分で「考え」て判別して欲しいんだけどな
「考え」ないんだな 多くのヒトは
困ったもんだ
Ende;
オキシトシンのシーケンスというのは 親子間などの特定の個体間における盲目的信頼関係を作り出すものであり それ以外の個体に対する疎外感や排除行動や猜疑心をも作り出すものである
子供が身近な大人以外には簡単に従わない方が生存にとっては有利であり こうした行動バイアスというのはヒト以前の進化過程において組み込まれた無意識な行動習性バイアスである
ペンギンは他の子供を殺害することもある 自分の子供は身を呈してでも守ろうとするが 他の子供は殺してでも排除したがる先天的本能習性がある
特定の個体や集団組織に対しての安心感を持つことによって それ以外の個体や集団に対する観念的猜疑心や恐怖心をも醸成し これが疎外や排除行動バイアスをも作り出すのである
イジメやヘイトスピーチなどの 合理的根拠のない差別排除行動をする集団というのは その集団内部においては家族のような盲目的信頼関係を持ち 論理客観的な批判精神というものが全く働かない
なぜなら 彼らは動物的な本能習性によって集団統率的な協調行動をしてさえいれば満足なだけで 主観的に満足してさえいればそれ以上何も考えることはないからである
民族や国籍が人間性の格差となる科学的根拠は何もなく 遺伝的見地からもヒトは全てヒトであって同じ生物である
同じ「ヒト」でありながら論理客観的な根拠に基づいた行動が採れない者がいるのは 脳容積が充分に「人間」として働いていないからである
何せ論理客観的な検証が出来ないので 思考が極めて短絡的で「暴力的威圧や攻撃さえしておけば解決だ」というサルのような発想でしか行動できないのである
主観的な安心を過剰に求めるが故に 合理的根拠もなしに不安をも過剰に排除しようとすることによって差別や暴力が生ずるのである
主観が求める欲望というものが合理性がない錯覚であることを認識するのは論理的な客観性である
誰か特定の相手を「敵」とみなして集団統率的に協調して攻撃していれば 攻撃している側の集団内部における仲間意識による満足感が得られ しかも攻撃している相手よりも自分達の方が順位序列が「上」だという感覚による優越感も得られるため 一度イジメや差別が起き始めると中毒的な暴走を促すことになる
これらの「人間としての欠陥」は 全て「ヒトという種の生物」における先天的な本能習性に組み込まれたものであって 機械的シーケンシャルに 自動的に発動するようになっているからこそ 子供達だけで集団生活をさせるとイジメ差別が自動的自然に発生するのである
先天的な本能習性に由来する「人間としての欠陥」は 論理客観的な理解や検証によって「パッチ」をあてることで 思考や行動に補正をかけて動作を正常化させることが可能である
それは決して罰による威圧的な行動抑圧ではなく 当人の主体的な人間としての意思選択として行動できるように促すことで 自律的な社会的責任判断選択ができるようにならないことには あらゆる「人災」の根源的原因を根絶することは出来ないのである
◇
ハンセン病患者に不条理な差別をしていたことも 法手続き上は「当時は法律がなかったから違法ではなく 賠償の責務はない」などという決定が出るのが司法制度であり 到底憲法上の「平等」など一切担保されることはないのである
それが「法の下の平等」の正体である
機械的手続きに過ぎぬ法律に 人間性も倫理もないことを 多くのヒトは理解していないが 大衆観念上では複雑な法手続きさえ行っておけば何か論理客観的な根拠のある処分だとでも錯覚するのである
刑罰の重さというのは 被害者の個人的報復感情の問題に過ぎず 社会的には原因を徹底的に究明して再発防止策を立てることの方が重要なのである
訳のわからぬ観念に基づいて「女子中学生を誘拐監禁することは 高価な美術品を盗むよりは刑が軽いと思った」などと言い出すような頭のイカれた奴であっても 「誘拐監禁は殺人よりは軽い」という司法役人の屁理屈によって9年程度で刑務所を釈放されてくるが 治っている保証なんぞ一切ないのである
司法が「他の犯罪者との罰の平等性」に執着するのは それが「罰」だからであって 治っていないキチガイを社会に釈放することで被害が再発することに対しては司法役人の誰も責任を負う制度が一切存在しておらず 司法役人にとっては社会安全性など考慮しても業績にはならないので興味すらないのである
「当時法律がなかった」云々という話も 要するに司法の目的が「罰」の判決しか頭にないからであって 社会にとって最も重要なのは安全性であり 再発防止策を立てることなのであるが それが現状の司法制度上には全く存在していないのである
刑法罰を廃止して徹底した犯罪の再発防止策を立てるための社会制度を構築するには「100年早い」と言ったバカがいるが 「100年」という数字に根拠はなく 100年後にはできることを今やらない理由も一切説明していない
議論もしなければ周知もしないで 頭ごなしに観念的基準で「100年早い」と言い出すのは 自分達の頭の悪さを隠蔽するためのはぐらかし以外に理由はない
罰を与えて満足することも 結局はオキシトシンが促す本能のシーケンスに起因する錯覚である
多数派同調迎合性というものは 論理客観的な根拠なんぞなくても主観的に安心満足するからこそ生ずるものであり ヒトは主観的に安心さえしてしまえば論理客観的安全性の根拠がなくても満足して思考を停止してしまうという先天的欠陥を持っているのである
許す許さないというのも主観である 犯罪者であってもよくよく調べてみたら酷い生育環境で育っていた事実を知ってしまうと 不憫な気持ちになって許したくなることもある
日大アメフト部による違反行為も 指導者達のパワハラの実態を知れば 違反行為をした部員だけに責任を押し付けることは不条理だと思うであろう
ヒトは誰しも間違えるものであり 間違えたら原因を見つけ出して同じ原因による間違いに陥らないよう対策を立てることこそが 社会安全性にとって最も重要なのである
社会安全性よりも 主観的な報復感情や懲罰感情を優先しておいて 人間性も倫理もスッタクレもないのである
ヘイトスピーチをやっているネトウヨも イジメも 彼らは懲罰感情を満たすことで満足しようとしているのである
ヒトという種の生物に普遍的に見られる欠陥を認識していないからカウンター的に「反撃」をすることが正義だと勘違いしがちだが 被害者を守るための便宜的措置に過ぎず「現場の正義」以上には意味がないのである
薬物中毒のジャンキーが包丁振り回して暴れていたら こちらも凶器で応戦しないことには現場は収まらないこともあるだろうが そもそも薬物中毒のジャンキーが社会から出てくる原因から根絶しないことには社会安全性は高まらないのである
通り魔を死刑にしても通り魔事件はなくならないし 踏み間違い事故の加害者を厳罰にしても踏み間違い事故はなくならない
虐待による子供の死傷も 親に罰を与えたらなくなるようなものでもないのである
主観的に「優しい気持ち」になりさえすれば人間性だと勘違いしているのは簡単だが それは自分を必要以上に正常だと錯覚している傲慢さに過ぎない
マルクス:ガブリエルだの養老孟司だのマイケル:サンデルだの フリードリヒ:ニーチェやイマヌエル:カントだのといった論理的根拠のないオカルト観念の蔓延を 世界中の科学界が放置した責任を誰も取ろうとはせず 曖昧なはぐらかしでごまかす気満々である
その上ノーベル賞受賞者の野依良治まで「主観が大事」などと言い出す始末である
どんだけバカが多いんだと 呆れるばかりである
菅内閣による日本学術会議任命拒否における「言えないこと」とは 一体何か 誰も説明するつもりもないらしい
本論で述べたことを「業績」として認めれば 責任問題は学界全体どころか司法制度や立法機関にまで波及することになるだろう
それなら隠蔽黙殺して知らんぷりしておいた方が平穏が保てる
それが「理由」だとしたらペテンも甚だしい
Ende;