「昔ロシア民族はナチスを撃退したことがあるから ロシア民族は常に正義なんだ!」っていう物言いはナントカならんのか
しかもラブロフはゼレンスキー大統領の民族ルーツを持ち出して「ナチスだ」などと言い出す始末
民族国籍で人間の価値や正義の根拠にゃならんだろ
幼稚でバカ過ぎて話にならない
ゲルマン民族がナチスに陥ったこともあれば
ロシア民族なんかスターリンによる自国民族の虐殺もしている
カンボジアでも虐殺はあったし
ミャンマーじゃ虐殺が現在進行中で
日本でもインパール作戦だの南京虐殺だの重慶無差別爆撃だのをやらかしているのである
「○○民族だから 常に正しい」なんてのは民族主義者や国粋主義者による根拠のない勝手な妄想であって どんな民族国籍であってもキチガイもいればマトモな人もいるものである
旧ソ連がナチスを撃退した功績は確かにあるが そういう昔の栄光に頼って自分達の今現在の行動の正当性であるかのようにこじつけるのはバカにも程がある
日本政府はナチスドイツと同盟を組んだことがあるが ユダヤ人を救おうとした杉原千畝という事例もある
ドイツ人の中にもユダヤ人をかくまった人達もいれば
侵略者であったはずの日本人の子供を育てた中国人民もいる
民族国籍に関係なく ヒトという種の生物であれば残虐な行動をする奴というのは出てくるものなのである
大切なのは 組織や民族に依らずに自律的な社会的(世界的)責任として行動選択をすることであって 「○○民族だから」といった分類というのは分子生物学的にも何の根拠もない非科学的妄想でしかないのである
ヒトという種の生物は現在 ホモ・サピエンス以外にはいないのである
ヒトという種の生物は 先天的に「組織の利益を優先」する習性があり これが統率的協調行動による「大きな力」として働くことで 過酷な弱肉強食の自然環境下を生き延びてきたのだが
これが文明社会を作り出してからは自分達の持つ「大きな力」の方向性を失って暴走破綻へと向かってしまっているのである
ヒトの祖先はかつての生息環境においては 凶暴な外敵から集団組織を守る習性を持つよう進化が起きたが これが文明社会の構築によって「外敵」からの脅威を失ったことにより「内(自分達)敵」への暴力へと本能習性の暴走を引き起こしているのである
だから意識の本質とは何かを 論理客観的に見極め 「本当の目的」に基づいた行動選択をしなければ ヒトという種の生物の存続は困難となるのである
欲望だの本能だのといったものを作り出す先天的行動バイアス(情動)というものは 決して自分では選択不可能な無意識であり どんなに気分的に安心だろうが満足だろうが安全性や持続可能性の論拠には全くならない
ヒトの祖先は野生動物であり 暴力性もあればバカにもなるため 非合理で不条理な行動を本能によって促されて残虐な行動に陥ることもしばしばある
懲罰や暴力による抑圧が「解決」だという錯覚も 先天的本能によって作り出された主観的印象に過ぎず 論理客観的には何一つ「解決」になどなっていないのである
本当の問題解決というものは ヒトという種の生物の先天的危険性 認知上の欠陥を自覚認識し 既存の「常識」に囚われることなく自律的な社会的責任判断選択をすることである
ヒトという種の生物が何千年実証不能の神を信じていたからといっても 実証不能の神が実証できるわけではない
ヒトという種の生物が持つ先天的な欠陥によって ありもしない妄想錯覚によって作り出された普遍的倒錯を どんなにたくさん陳列枚挙しても それが「人間」としての普遍的価値の論証になるわけではない
むしろ ヒトという種の生物の存在を事後正当化するからこそ ヒトという種の生物の先天的欠陥を見落とし 無視し 「なかったこと」にして主観的に安心満足するようになるのである
「自分だけは絶対に大丈夫だ」 そう主観的に「思って」いるからこそ 振り込め詐欺にも養老孟司やマルクス:ガブリエルや読書猿に簡単に騙されるのである
どんなに強く「思って」いても むしろ「思い」が強いが故に「考え」が働かなくなり 騙されていることに気づかなくなるのである
だから洗脳やエコーチェンバーが起こるのである
ヒトという種の生物の祖先は野生動物であり 現代文明社会の中で育ちさえすれば論理客観的合理性のある行動選択ができるようになるわけではない
スマホの扱いにどんなに慣れても スマホの機械的構造やソフトウェアシステムを理解しているわけではないのと同様に 現代文明社会の中で育ったからといって全てのヒトが論理客観的合理性のある行動選択を出来るようになるわけではない
過去の天才達の業績によって作り出された文明の中で育ちさえすれば天才になれるわけではないのである そもそも学力偏差値というものが認知科学的にも知能の本質であることの論証にはならない上に 学力学歴の高い通り魔やテロリスト達の存在を無視するわけにはいかないのである
「知識階級」などと称して学力学歴による権威肩書さえあれば 衆愚やマスコミは簡単に荒唐無稽なデマでも鵜呑みにするものである
そうした盲目性というものは 自分で物事の判断をせずに判断責任を他人に丸投げする無責任性であり
養老孟司の「脳化社会」云々の話などは論理整合性が完全に崩壊していて「論」として全く成立していないにも関わらず 大衆観念的納得感による主観的印象だけで鵜呑みにし 養老の多数人気だけで信用され続けているのである
こうしたことは別に珍しいことではなく イマヌエル:カントの「純粋理性批判」も何の論理的根拠もないにも関わらず100年以上も「哲学」として分類され しかも「近代哲学の最高峰」などと称されているのである
フランシス:ゴルトンによる「優生学」も 従兄弟のチャールズ:ダーウィンの進化論とは全く異なり 論理的根拠の全くない大衆観念的妄想に基づいたものであり これもまた100年以上も誰も論理反証されてこなかったのである
最近になって急に生物学者達は「進化に目的はない」と言い出し ダーウィンの進化論に対する「典型的な間違い」について説明し出したものの 説明しているそばから「生きることが目的」だの「生きているだけでも立派」などという支離滅裂で荒唐無稽なはぐらかしを始める始末である
生物学者の大半は 今までずっと間違った進化の説明をしていたことをはぐらかすことで 外見上の権威性を保守するために支離滅裂なはぐらかしによって既存の権威体制を維持保守しようとしているのである
これは公然の陰謀である
気づかない方がバカ過ぎて話にならない
遺伝的進化が万能ではないことを前提にすれば 「ヒトという種の生物でありさえすれば必ず人間性や倫理的判断が可能である」という話が妄想錯覚に過ぎないことは明らかである
ところが衆愚マスコミは 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという山極寿一による論理的根拠のない妄想観念で満足し
リチャード:ドーキンスによる「ヒトは進化的に人間性が組み込まれている可能性がある」などという これまた論理的根拠の乏しいデマにも40年以上もの大衆「人気」だけで あたかも内容が論理科学的に検証されたものであると錯覚するのである
◇
「ヒトは世界の全てを知覚できるわけではないから ヒトには客観的事実など一切知覚することなどできない」
こうした決めつけ論法に対して ヒトの大半は論理反証しようという意欲が全く働かない傾向がある
要するに先天的にバカなのである
ヒトが知覚できるものは限られているものの 限られた知覚情報の中から論理客観的根拠や証拠に照らして間違いではないものを識別すること「も」可能である
そもそも科学的証明が全て「知覚できない」だの「印象に過ぎない」のであれば 警察の科学捜査も全部意味がなくなるのである
ヒトの大半は主観的感覚による錯覚を 論理客観的根拠に基づいた事実(真理)を区別しようとはしないものである
ヒト以外の動物がそうであるように ヒトもまた大半は自分の頭で物事を検証して考えて真偽を識別しようとはしないものなのである
だから詐欺にもデマにも簡単に騙される
一面的欠損だけを根拠として あたかも全てが欠損しているかのように決めつける決めつけ論法というのは
「イジメはなくならない」
「戦争はなくならない」
「犯罪はなくならない」
これらの諸問題に対する徹底した論理客観的原因究明や再発防止対策の全てを諦め放棄する時に用いられる
「諦め」れば 自分の頭で考えなくて済むと 自分には何の責任もないと無責任に思考放棄するのに都合が良いからである
要は「諦め」とは 考えることをやめるのに都合の良い「快楽」なのである
「どうせ考えたってわからない」と決めつけ 考えること自体を放棄してしまえばバカにしかならない
「わからない」ことは「わからない」こととして 「これからわかるようにもなるかも知れない」可能性を温存してゆくことによって 深く丁寧に辛抱強く物事を検証することも可能となるのである
「諦め」てしまえば「もしかしたら わかるかも知れない」という可能性の全てを放棄することになるのである
それこそがバカになる典型的発想というものである
「事故はなくならない」と称して事故の徹底した原因究明や再発防止の全てをしなくても良い理由にはならない
それと同じで 「世界の全てを知覚することが出来ない」からといって 客観的事実の全ては知覚できないことにしておいて良い理由にもならない
断片的知覚情報であっても認識可能な事実は存在する
物事を論理客観的に検証して真理と嘘を区別するのが面倒臭いと思って何も考えたくない奴が決めつけ論法を信じ込むのである
考えない奴はバカである
バカは何も考えないからバカなのである
「自分だけは絶対に騙されない」と自己過信していれば さぞかし安心満足感が得られるのであろうが その安心満足感は先天的な脳の性質による思考バイアス(偏り)に他ならない
「養老孟司やマルクス:ガブリエルは多数人気があるから 絶対に間違ったことなど言っていない」と信じ込む盲目性は 主観的安心満足によって促されている錯覚によるものである
天動説の時代に天動説が信じ込まれていたのも イマヌエル:カントの「純粋理性批判」が論理客観的根拠に基づいた哲学論証であると信じられているのも ただの多数による共感共鳴による大規模エコーチェンバーに過ぎない
ヒトが意識的に手を動かそうとする直前に手を動かす脳電位が発生したからといって ヒトの行動の全てが意識によるものではないことの論証にはならない
こぼれそうになった墨汁をすすってしまった漫画家は 別に墨汁を飲もうと思ってすすったわけではなく 視覚情報から脳の運動機能が勝手にすする行動を無意識に促してしまった結果である
ヒトの行動の9割が無意識な条件反射だからといって 「意識の全ては無意識だ」という決めつけも本当は論理的には成立しないのである
イジメにおいて 学級内の8割が傍観者だからといって 「ヒトはイジメを傍観する以外の選択は不可能である」と言い張るのと同じようなものである
ヒトは誰しもが幸福になりたいと思っているものである
そして全てのヒトが幸福になるためには公平性や安全性は不可欠であり 自分一人だけ利己的に物欲や権力欲を満たしたとしても 他人が不幸であることを放置すれば自己肯定感を喪失し 糞みたいな奴にしかなれないのである
「世界の全ての人が幸福になれなければ 自分の幸福もありえない」のであって 利己的幸福も究極まで追求すれば公益性も持つようになるのである
究極まで追求することによって 初めて利己的幸福の真理が見えるのであって 中途半端に目先の欲望に惑わされているからこそ自己の欲望の真理も見えなくなるのである
ヒトは自分が属している集団や その集団の「権威」に盲目的に服従迎合忖度同調するものである その方が集団内部においては生存にとって有利で安心満足だからである
東京電力社内において 原発の危険性が放置されたのも
学級内で8割の生徒がイジメを傍観放置するのも
日本大学の組織腐敗が温存され続けたのも
全ては組織に属する個人が組織に迎合同調服従忖度することで起きた不祥事である
イジメには逆らわない方が自分は安全である 8割の傍観者と同調しておけば 多数によって責任が薄まるような感覚(錯覚)によって イジメは傍観放置され続けるのである
無謀に危険なことを推奨するわけではないが 何もしなくて良いわけではなく 自分にできる範囲の対策はするべきである
大多数が傍観放置していなければ 原発の暴走も抑止できた可能性は充分にあるが 「どうせ会社の体質は変わらない」と称して組織の体質に迎合的に同調したからこそ 原発の危険性は無為に放置されたのである
ヒトとは先天的にはそういうバカである だからバカにならないためには自分の頭で物事を「考え」 自律的な社会的責任判断選択をしなければならないのである
Ende;