アリストテレスのニコマコス倫理学では「友愛が善」などと主張しているが
暴走族同士でいくら仲良くなっても善にはならない
ニコマコス倫理学というのは 論拠が全てアリストテレス個人の主観的感想「○○と思われる」ばかりであり
論理客観的論証の形をなしていない
「倫理にゆらぎがある」だのといったあやふやで根拠の乏しい話を「哲学」的真理であるかのように錯覚するのは頭が悪すぎる
東大大学院でこんなあやふやな話を高額な授業料を徴収して教えているというのは 社会に対する冒涜である
哲学界というのは おしなべて批判精神が乏しく 古典的著書をただ漫然と教えているだけであって 内容の精査などが全くされておらず
故にイマヌエル:カントの「純粋理性批判」のようなオカルトファンタジーまでもが「哲学書」として扱われ しかも「近代哲学の最高峰」とまで形容されているという トンデモナイ大失態をやらかしているのである
そんなことだからマルクス:ガブリエルだの養老孟司の嘘やデマすらも見抜けないのであって 東京大学はほとんど痴呆状態であり オウム真理教幹部を輩出した失態に対する反省が全く見られない
科学や哲学というものは 客観的根拠に基づいた真理(本当のこと)を見極め 峻別するためのものであって
気分が良くなるような都合の良い身勝手な解釈をして安心満足して思考停止に陥るためのものではない
本来哲学というものは「科学の帝王」であり 生物学における遺伝的進化に対する「典型的な間違い」をも指摘すべき立場にありながら 未だにバカ「哲学者」共は理解すらしておらず 未だに「○○のために進化を選んだ」だの「進化は賢い」などという非科学的オカルトの蔓延を傍観放置しているのである
これは社会に対する背徳行為であり 即刻山本芳久のような無能なバカは更迭すべきである
Ende;
子は親に対して盲目性を持っている
哺乳類の子供の多くは親なくしては生き延びることができないため 自ずと親を盲目的に信頼し頼る先天的習性を持つ個体種への収斂進化が促されている
子供は それが合理的かどうかに関わらず 親に対する盲目的信頼をしておけば安心する本能的習性を持っているから盲目的信頼をするのであって こうした本能習性というものは「親に対して盲目的信頼をしなかった個体が生き延びられずに淘汰された結果」的な収斂進化であると言える
イヌやニホンザルなどの「社会性(封建的序列社会形成習性)」を持った哺乳類の場合 血縁続柄を超えて集団組織の内部の特定個体に対して盲目的服従対象の転移が生じ これが「群れのボス」に対する盲目的信頼や服従行動として統率的協調行動も促すようになる
生物学的な「社会性」を持たない動物の場合 「怖い」相手からは単純に逃げようとするが 「社会性」を持った動物の場合には集団の中で「自分よりも上」と見なした相手に対して 腹などの急所を向けて服従することを提示することがある
こうした行動は 「親」に対する行動が群れの中での順位序列が「上」と見なした相手にも行われているのであり イヌは怖い相手に服従することで集団の序列順位が決定し 統率的協調行動が促されるようにもなる
イヌは別に合理性に基づいて順位序列を作っているわけではなく 群れの中で順位序列を形成していることに安心感を持つ習性があるために順位序列が結果的に形成されているに過ぎず イヌ個体が「考えて」統率的協調行動をするために順位序列を形成しているわけではない
イヌが「自分よりも上」と見なした飼い主に対する盲目的服従性というものは尋常ではなく 異常な興奮まで伴うものであり まるで薬物中毒の如く飼い主に媚びへつらうこともある
ヒトの左側頭葉の一部に 強力な磁気刺激を与えると 「神を感じる」と言われている
「神」だと感じているということは それが「快楽」だから「神」だと感じるのであって 嫌悪感であれば「神」だとは感じないはずである
ヒトもまた 自分よりも順位序列が「上」と見なした相手に対する盲目性を持っており 血縁続柄に依らず「安心して盲目的信頼をしておける対象」として「権威」に対する盲目性を発揮するようにもなる
ヒトは権威だと見なした「自分よりも順位序列が上」の相手を盲目的信頼しておくことで 気分的に安心満足する「甘え」を持っており これによって統率協調性も発揮することにより「大きな力」も発揮することが可能となり ヒトの祖先は環境資源の奪い合い競争においても勝ち抜くことが可能となったのである
しかし これはあくまで本能習性によって促される無意識な行動バイアスに過ぎないため 合理的目的の有無に関わらず発揮されることもしばしばあり 子供や海上自衛隊や企業内部におけるイジメにおいても発揮される原因ともなる
日本大学における組織腐敗においても 田中英寿理事長をトップとする封建的順位序列が形成され続けた原因も 「自分よりも上」と見なした相手に対する「畏れ」の感情が働いていたために 盲目的服従迎合性が働き 組織腐敗を長年傍観放置する大きな要因ともなったのである
「怖い相手には逆らいたくない」と同時に 「怖い相手に服従」することによって統率的協調行動が促され 恐怖によって形成される順位序列は群れの統率者の主観的気分や個人的好き嫌いだけで差別排除の対象も決定してしまい 何の合理性もない差別や不公平が組織集団内部に蔓延してしまうのである
ヒトはそもそも先天的に平等が嫌いなのである
主観的に「怖い」相手に媚びへつらい 盲目的に服従し 組織の利益を優先することによって 自律的な社会的責任判断すらも放棄するようになる
暴力的で「怖い」集団に対しては ヒトは逆らうことが嫌なので 暴力を旨とした集団には逆らわなくなる傾向が強く だからこそ自律判断の難しい子供においてはイジメはほとんど必ず生じるようになるのである
先天的な本能習性として 統率的協調行動をすることにより 暴力的差別を旨とした集団への迎合や同調こそが 主観的に安心で満足感を得られるものなのである
「人間」としては卑屈で卑劣な暴力的差別というものは 「ヒト」という種の生物としては中毒的快楽によって促される本能習性でもあり だからこそSNS上では根拠のない誹謗中傷や差別が蔓延し 卑劣な独裁国家も後を絶たないのである
イヌ科の動物は 配偶交配による変異が大きく イヌは品種改良をするとネコよりも非常に多くのバリエーションを拡大することが可能である
ロシアにおけるキツネの人工繁殖実験では 数世代で様々な見た目や性格のキツネが発生するのだが 実際の野生環境下においてはキツネは見た目も性格もほとんど同じものしか見ることができない
キツネが繁殖において見た目や性格といった遺伝的性質をコントロールできるわけもなく 本当は見た目も性格も様々な個体が産まれてきてしまうのだが 群れに馴染めない個体は群れから差別排除されることで見た目や性格が一定に保たれているために 自然界ではバリエーションの拡大が見られないのである
イヌ科の動物は一度に数匹の子供を産み 生涯ではたくさんの子供を産んでいるにも関わらず そのほとんどは死んでしまうことで 本来天敵のほとんどいない環境においても個体数が一定に保たれているのであり それはイヌ科の動物の群れの中での民族浄化バイアスが働くことによって個体数の安定化が促され 生態系とのバランスも取られているのである
先程も述べたが ヒトは先天的に平等が嫌いである
ヒトが同質性を求めたがる習性によって差別排除が促されてしまうのも ヒトが平等を忌み嫌い 少数異端を差別排除することが先天的に安心満足感を得られる先天的本能習性として組み込まれているからである
こうした行動習性というものは 現代社会においては何の合理性も持たないが 先天的本能習性というものは祖先の生息環境に依存した淘汰圧力の「結果」であって 合理的「目的」とは相容れないものであるとしても選択することはできないのである
「平等が嫌い」という時点で ヒトという種の生物には先天的な人間性などなく むしろ非人間性こそが先天的に組み込まれているのであって 山極寿一やリチャード:ドーキンスら生物学者が提唱する「先天的人間性」などというものは 大衆をヌカ喜びさせるだけの非科学的デマでしかないのである
ヒトは神の名の下に差別排除を行う
ヒトは平等があまりに嫌いなために 自分達と同じ神を信じない異教徒や無神論者を「自分よりも序列が下」だと見なして民族浄化を行う先天的な人間性としての欠陥が存在しているためである
本当の有神論者であれば 神の代行として暴力的懲罰や差別排除はしないはずなのだが エセ有神論者というのは本当は神の存在など全く信用していないために 何もしてくれない神の代行として差別排除を統率協調的に行い満足しようとするのである
それは「人間の神」ではなく 「イヌ野獣の神」でしかないのだが 自分の頭で物事の真偽を見極める能力のないバカだと暴力的差別を旨とした「イヌ野獣の神」への盲目的服従によって動物本能的満足を求めるようになるのである
ナチスによるユダヤ人大量虐殺や 旧日本軍による特攻や イスラム教原理主義者による自爆テロというものも 優生学の神や天皇やイスラムの神の名を借りた「イヌ野獣の神」への盲目的忠誠忠実さによるものであり 真実を見極められない頭の悪さ 認識の甘さに起因する「間違い」なのである
そもそも遺伝的進化というものは自然現象に過ぎず 自然現象を万能の神として盲目的に崇めるゾロアスター教によって優生学が科学とすり替えられたのであり 膨大な淘汰圧力を伴う遺伝的進化をヒトに適用しようとする発想そのものが科学を逸脱したオカルトなのである
ヒトは 自分の主観的「感覚」こそが 自分の意識の主体や本質だと「感じ」ているが そう「感じ」ていることそのものが主観的「感覚」に過ぎず そこに錯覚が混入する可能性を自覚していないからこそ 自己客観的な論理検証というものをしなくなるのである
ヒトは所詮動物であり 主観的好き嫌い(情動)が行動選択の主体であることにおいては 他の動物とほぼ一緒である
だが ヒトには論理客観的に物事を検証し 考え 本当に求めているものとは何かという目的意識に基づいた理性による行動選択「も」可能であり 社会安全性や公平性といった人道に基づいた目的意識的行動選択「も」可能ではある
目的意識的行動選択「も」可能ではあるものの そのためには自発的思考 自律的判断選択能力というものが必要不可欠である
何も考えないバカであれば 先天的本能習性のままにしか行動判断ができず 嘘やデマや間違いを真理だと勘違い錯覚したまま行動すれば 間違った行動に陥るのは必然というものである
Ende;