山極寿一やリチャード:ドーキンスら生物学者が主張する
「ヒトには人間性が組み込まれている可能性」
というものは 「ヒトは助け合いをしなければ存続できないから 助け合いをする本能的習性が組み込まれている可能性」を述べているに過ぎない
「助け合い」というものが都合良く人間性として働く保証はなく 振り込め詐欺師集団内部で食事を驕っても 東京電力社内で「組織の利益を優先」しても それは特定集団内部における「助け合い」に過ぎず
こうした特定集団内部だけに働く「助け合い」というものは 集団間における環境資源の奪い合い競争において有利に働くことで 統率協調的に他の集団を駆逐できた集団の遺伝子が拡がることになったのであって 決してヒトという種全体の存続や公平性に適する進化が促されたわけではない
生態系が弱肉強食による生態系ピラミッドを形成することで 環境との調和が成立しているのと同様
ヒトという種の生物も封建的順位序列による統率的協調性を発揮し より他の集団部族よりも武力や富を豊富に奪った集団の遺伝子の方が拡がりやすいのであり こうした環境資源の奪い合い競争において勝ち抜いた現存のヒトという種の生物に 先天的人間性が組み込まれることはないのである
特定の環境下においては ヒトは他人への利他的行動が見られるものの 衆人環視下において「他人から善人に見られたい」という偽善の感情が働くことで利他的行動が促されるに過ぎず
実際に社会においては「バレなきゃ何をしても許される」と思っている無責任な奴は一定数存在しているのである
地球環境の持続可能性や 社会の公平性に配慮していないにも関わらず その一方で「自分の遺伝子を遺す」だとか言っているのは 支離滅裂にも程がある
一体何の目的に基づいて自分の遺伝情報を遺すのかを全く考えていないバカの発想であり 遺伝的進化に対する異常なまでの盲目的執着でしかなく 到底科学論理的根拠が伴わない
そもそも自分では選んでいない遺伝子を遺しても そんなものは目的にも何にもなりはしないのである
リチャード:ドーキンスは「遺伝子が利己的に目的を果たそうとしている」などという非科学的妄想を述べているに過ぎず 遺伝的進化による結果に過ぎない現存生物の恒常安定性だけを見て あたかも「遺伝的進化の全ては必ず正しい結果をもたらすものである」という実証不能の観念に基づいた妄想に取り憑かれた観念を論じているに過ぎない
こうした遺伝的進化に対する万能妄想が 論理客観的に物事を検証して「考える」ことをしない衆愚マスコミにおいては あたかも「自分達ヒトという種の生物には先天的な人間性が組み込まれている優秀な存在である」かのような感覚(錯覚)を与えてしまうために 大衆迎合的に「人気」があるだけであって
実際の社会では相変わらず腐敗政権による戦争などという野蛮行為が続いているのである
ヒトの祖先は集団統率的に協調して他の部族集団を駆逐し 環境資源の奪い合い競争に勝ち抜いた集団の遺伝子が遺りやすいことで拡がったのであって ヒトは先天的に「暴力で解決」するのが大好きな生物であり だからこそ梅沢富美男のように「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らすと共感共鳴して人気が集まるのである
ナチスによる「最終解決」も暴力によるものであり 他者と見なした集団からの暴力的略奪によって 他者以外の仲間同士における利益を優先することが かつての祖先の生息環境における「適応」だったからである
遺伝的進化というものは 決して必ず「成功」する保証は何もなく 無数の変異の果てに偶発的に成功した結果が現存生物や生態系として存続しているだけであって 遺伝的進化のプロセスでは膨大な「失敗」が伴う過酷なものなのである
実際に長い生物史の中では幾度もの大絶滅も起きており そもそも遺伝的進化というものは淘汰圧力という死滅や断種によってのみ促されるものであって 生態系ピラミッドも「ピラミッド」という順位序列による弱肉強食の喰い合いによってのみ成立している恒常安定性に他ならない
遺伝的進化というものは 安全性や公平性が担保されるものではなく あくまで個体や生態系全体としての恒常安定性を偶発的に獲得できた結果に過ぎず 進化の過程において幾度もの「失敗」を重ねている上に 結果的に見ても殺し合いでしか恒常安定性は獲得できていないのである
遺伝的進化というものは 目的に則って選べるようなものではなく あくまで結果的に現存生物種への収斂が起きた「自然現象」に過ぎず 都合良く安全性や平等公平性が構築されるようなものでは断じてない
ヒトがヒト同士で環境資源の奪い合い競争を続けた果てに絶滅するとしても 遺伝的進化は何もしてくれないのである
絶滅という現象もまた遺伝的進化という「自然現象」であり 何が起きようとも遺伝的進化は何も保証はしてくれない
ヒトという種の生物が 先天的にリチャード:ドーキンスや山極寿一などの生物学者共のデマや嘘を鵜呑みにして満足する習性があるとしても それもまた進化の「結果」であって 先天的にデマや嘘や間違いを信じ込む習性によって「本当の目的」を見誤ってしまうとしても 遺伝的進化はただの自然現象に過ぎず 何の保証も担保もしてはくれないのである
自然界においては強者が生き残る
したがってヒトにも「力」への依存性は高く 「怖い」相手には媚びへつらい 忖度し服従し 「力」にあやかろうとする習性がある
これは遺伝的進化によって結果的に組み込まれた本能であり 情動バイアスであり 主観的な安心満足によって促されるシーケンシャルな「自然現象」である
東京電力や名だたる大企業による不祥事も 日本大学による組織腐敗も ナチス政権に同調迎合忖度服従した当時のドイツ国民も その構造そのものはプーチン政権下におけるロシア人達の大多数による無意識な「社会性」によって作り出されたものと同じである
生物学界では長い間 生物学上の「社会性」というものを 「人間としての社会性」と混同し 取り違えて解釈してきたが
生物学上における「社会性」とは 単なる統率的協調性を発揮するための順位序列を形成する服従性や盲目性や 「怖い」相手に逆らわない卑屈さも含めた動物的行動習性に過ぎず
イヌにも見られる単なる「習性」であって ヒトもまた先天的には順位序列への情動が強く働き 公平や平等には配慮が働かない「習性」によって ヒトは権威への批判精神を失い盲目的に服従し 真実が何かを見極めようとはしなくなる原因となるのである
人間としての社会性とは 「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であって 社会持続可能性や公平性に基づいた行動判断を行うことであって 主観的に「優しい気持ち」かどうかは関係がない
主観的気分というものを意識や精神の本質だと錯覚しているからこそ 道徳などという非合理で支離滅裂な屁理屈に頼ろうとするのであって 意識の大半を占める情動こそが無意識な行動バイアス(偏り)なのであって 1割にも満たぬ論理客観的検証性によって真実か嘘やデマなのかを見極められないからバカが治らないのである
学生に対しては学力偏差値競争を強いるくせに その一方では誰も自律的には論理客観的検証なんぞしないという 極めて身勝手な観念の押し付けに「安心」して邁進するという 不誠実さを ヒトの大半は主観的には何とも「思って」いないのである
被害者の主観的な悲しみなどを報道しておけば「再発防止」になると思っているようだが 相模原障害者施設津久井やまゆり園の被害者や遺族の情報をいくら漏洩しても 虐殺の再発防止にはならない
それは 原発事故の被害者情報が 原発事故の再発防止に何の役にも立たないのと同じである
被害者情報を垂れ流しておけば 「お涙頂戴」とばかりに大衆迎合的に視聴率や反響は多く寄せられるであろうが それは単なる同調迎合忖度に過ぎず ただの大衆迎合に過ぎない
いちいち被害者情報の詳細を漏洩しなければ被害者の心の痛みがわからない時点で想像力の乏しいバカなのであり たとえ被害者や遺族の情報を垂れ流したところで 身勝手な妄想に基づいて被害者や遺族に誹謗中傷するバカは後を絶たないのである
むしろ 被害者情報を報道すればするほど 「有名になったから 自分よりも上だ」などと称して誹謗中傷するバカを助長することにもなっているのである
小学生が酔っぱらい運転で轢き殺されたとしたら 被害者や遺族の情報よりも 社会的には加害者の無責任性の原因の方を共有することの方が 社会安全性においては重要なのである
それは「罰で解決」と済ますのではなく 加害者側の主観的「動機」にも意味はなく あくまで客観的に加害者の無責任性が発揮されるメカニズムについて論理的に検証しなければならない
何か刑事事件が起こると 短絡的に「加害者の動機の解明」だとか言っているが 「加害者側の動機」なんぞただの主観的情動に過ぎず そんなものを「解明」しても身勝手な観念が出てくるだけであって 社会的には糞の役にも立たないのである
警察権力が「動機の解明」を優先するのは 司法制度上における「判決」が目的であって 事故や事件の再発防止は司法制度上の目的ではないために 加害者の罰を決定するための加害者側の身勝手さの立証を目的としたものに過ぎない
マスコミも含めて大衆の多くは既存の司法制度を絶対的な唯一の解決策であるかのように盲信しているからこそ こうした不毛な法手続き制度ばかりが優先され続け 具体的な実効性のある事故や事件の再発防止対策が優先されなくなっているのである
役人達は ただ指示されたこと 法律規則で決められたことだけを実効しているに過ぎず 法制度上に存在しないことは一切興味を持たない
法制度上存在していないことは 「業績」にも「業務」としても評価されないため 司法というものの社会的役割としての社会安全性には全く配慮されなくなってしまうことになる
こうした盲目性というものも ヒトという種の先天的な権威服従性によって作り出されるものであり 「個人が自律的な社会的責任」を負わなくなるから 上から指示されたこと以外には興味すら持たなくなるのである
大衆の大半が司法刑罰に依存したがるのも 国家権力による抑圧に頼っておくことだけが安全性への唯一絶対的な対策だと主観的に「思って」安心満足するだけで 具体的実効性のある再発防止策には興味など持たないようになるのである
主観的に安心満足することによって ヒトはバカになる
これがヒトがバカになる構造であり 主観的安心満足こそが「無意識」の正体であるとは 多くのヒトは「思って」いない
本当に社会安全性にとって重要な対策とは何かを区別するのも 論理客観的根拠に基づいた判別能力が必要である
「何となく国家権力任せにしておけば安心だ」という情動バイアス パターナリズムこそが 問題の解決にとって最も大きな障害となってしまっているのである
百戦錬磨のプロ棋士であれば 将棋という世界においては最良の指し手が直感的にわかるのかも知れないが それが将棋という金儲けにおいて有利だからといって短絡的に人間としての優秀さの論拠になるわけでもなく
ましてや普段何も考えていない凡人の直感なんぞ糞の役にも立たないのは当たり前の話である
ロシア人の大半がプーチン政権を支持しているのも ロシア人の直感によるものであり
ナチス政権下のドイツ人がナチスを支持したのも 当時のドイツ人の直感による安心満足という脳内麻薬が作り出したバイアス(偏り)によるものである
バカは短絡的に民族国籍というレッテルだけで順位序列をつけたがるが 世の中の大半は主観的気分を意識の本質だと錯覚しているからこそバカげた腐敗独裁政権を支持してしまうのであって
「NHKだから正しい」とか 「科学研究者だから正しい」といった短絡的分類を鵜呑みにし 内容に論理整合性がないことには誰も興味を持たないから 非科学的デマがいつまでも科学的論証(真実)であるかのように扱われ続けてしまうのである
遺伝的進化というものは 「拡がりやすい遺伝子が拡がる」だけであって 後天的都合としての安全性や持続可能性や公平性といったものは遺伝的進化には影響を及ぼすことはなく たとえ絶滅するような「進化」が進むとしても それもまた遺伝的進化における「進化の袋小路」に過ぎず 誰も何も保証担保はしてくれないのである
ヨツコブツノゼミは 捕食者からは「喉に刺さりそうで嫌」なので拡がったが ロクロクビオトシブミのような進化は拡がる気配はない
あいつ どう考えてもマトモに飛べないだろ
遺伝的進化というものは目的も到達点もないので あくまで現状の生息環境に適応する形で 「拡がりやすい遺伝子が拡がる」以外の収斂進化は促されることはない
ヒトは科学技術を獲得することによって 環境資源を無駄に食い尽くす能力を獲得し 環境資源を上回る程の「異常繁殖」のことを「繁栄」などと称して まるで正しいことのように形容しているが 過剰な大量繁殖による文明規模の大きさだけではヒトという種の生物の「人間性の論証」にはならない
社会安全性や公平性に基づいた行動選択をしてこそ 「人間性の論証」になるのであって それは目先の快楽(脳内麻薬)によって促される情動バイアスに左右されることなく 論理客観的根拠に基づいて行動選択をする必要がある
「個人が自律的な社会的責任を負う」社会でなければ 社会のあらゆる諸問題は解決しないのであり これを阻害するのがヒトの先天的習性としての権威に対する盲目性というものである
ヒトという種の生物は 先天的には権威に服従し 盲目的に命令に従うだけのバカである
だからバカげたことが何度も繰り返し続けているのであって 自分という「ヒト」の先天的な認知上の欠陥を理解し 自覚し 実際の行動選択に反映させていかなければならないのである
戦争をなくそうとするのであれば プーチン政権のような組織腐敗した独裁政権が作り出されるプロセスやメカニズムを解明する必要がある
日本大学の組織腐敗などというものは ヤクザや暴力団のそれと全く同じものであり 組織を構成する個人の「意識」の欠如によって組織腐敗は進行し 傍観放置され温存され続けてしまうのである
子供のイジメも同じである
「社会性を身につける」などと称してイジメの蔓延する学級に馴染んでも 「人間性を伴った社会性」は身につかない
加害者側に回るか 傍観者のまま放置するか 被害者のまま自殺するかの3択にしかならない
本当の「人間としての社会性」とは 動物的に集団に馴染む能力のことではなく 集団が異常であるなら自律的な社会的責任判断選択をして 集団に抗うことも必要となるのである
学校などというのは 所詮は「学力成績を上げる」以上の何も「業績」にはならないために 子供が自殺しようがイジメが起きていようが「知ったことではない」のである
学校というのは 本来 個人の得手不得手を自覚し 何が「生徒にとって最も幸福な人生」を歩めるのかの判断基準を提供することである
「学力成績を揃える」ことは意味がない
先天的な学習障害のようなものも 極端な場合に学習障害として診断されるだけのことであって 実際には生徒の脳は千差万別でそれぞれに一定の学習障害はグラデーションやスペクトルとして存在しているのであって 学力を揃えることよりも その生徒が得意なものを伸ばし 苦手なものを他の人に頼ったり任せたりする能力をつけることの方が社会的には最も効率が良いのである
特定の成績の良い子供だけが社会を支えて評価されて「得」をする社会を目指していたからこそ 理不尽で非合理な社会格差が生じるようになっているのであって 「欲得づくの成功」なんぞをそそのかす現状の教育環境こそが社会を崩壊へと導いているのである
「これさえやっときゃ 全ては解決」であるかのような 短絡的で簡単な目標だけしか見させないようにしているからこそ 学力が高いだけのバカが大量生産されてしまうのである
バカに人間性などない
それは当たり前の話である
Ende;