書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ペテン

2022年06月02日 23時35分48秒 | 意識論関連

遺伝的進化というものは 結果的に生息環境に適応し 繁殖が継続することに「成功」した個体種への収斂が促されるだけであり

決して都合良く進化を自発的に「選ぶ」ことなどできない

したがって 遺伝的進化の説明において「○○のために進化をした」「○○のために進化を選んだ」といった説明の全ては論理科学的に間違いである

昆虫などの擬態進化において 従来の生物学では「天敵から見つからないように姿を周囲の環境に似せた」などという説明を 当たり前のようにしていたが これが根本的で「典型的な間違い」なのである

こうした遺伝的進化に対する「典型的な間違い」というものは 擬態進化だけにとどまるものではなく あらゆる遺伝的進化において言えることであり 「頭を使ったから脳が肥大した」などという後天的努力の類いは遺伝的進化には影響を及ぼすことはなく 典型的な非科学的デマである

遺伝的進化の過程において遺伝的に新しい個体種の方が脳が大きい傾向性はあるが しかしこれは配偶交配や突然変異によって 脳の容量には個体差が生じ その中で脳がより大きい個体の方が「繁殖の継続」において有利だったとは言えるものの これは後天的努力とは無関係なものである

無差別殺人犯の脳容積が小さい傾向もみられず 学習障害のような傾向もないにも関わらず 国立大学出身のロシアの大統領や 東大医学部の学生によるテロが行われることからも 別に「脳が大きければ頭が良い」とか 「学力偏差値が高ければ頭が良い」という単純なものではない

学力偏差値という基準は 極めて一面的能力を測ることにしかならず しかも学力成績という他者から与えられる抽象化された「脳への報酬」だけが目的になってしまえば 間違ったことを教えられても全く気づかず 教えられた内容の中に論理整合性の欠落があっても全く認識しようともせず ただ漫然と鵜呑みにして知識の「量」だけをひけらかして「俺様は頭が良いんだ」などと勝手に勘違いしているバカが大半である

遺伝的進化というものが都合良く選ぶことが出来ないこと 生物学上における「社会性(封建的序列順位による統率的協調性)」というものを短絡的に「人間としての社会性」と混同していたことを 現状の生物学権威の大半は訂正や周知徹底を怠り あたかも以前から知っていたかのようにはぐらかして国民をおちょくっているのである

国民も国民で 遺伝的進化という自然現象に対する盲目的安心感を抱き 遺伝的進化さえすればあらゆる問題が解決するかのような万能なものであるかのような勝手な解釈をこじつけ 生物学権威共のデマや嘘までをも鵜呑みにしておいて何とも「思って」いないのである

未だにNHKでは「○○のために進化を選んだ」などという説明をしており 遺伝的進化に対する「典型的な間違い」を全く理解していないバカ制作者が大半を占めているのである

 ◇

11億もの研究費不正流用をやらかした松沢哲郎は 私が「生物学上の社会性は 人間としての社会性を伴うわけではなく 全く別次元のものである」と主張したことに対し 根拠も示さずに「チンパンジーの先天的行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない」などと言い出し マスコミ各局はこれを鵜呑みにして満足し 「立証できたら素晴らしいですね」などと称賛し その上文化功労賞まで獲得しているのである

国民をバカにするにも程がある

まあ 実際にバカなんだが

チンパンジーを鋼鉄製の檻に閉じ込め その中でどのような行動を採ったとしたら人間としての社会性の立証になると言えるのであろうか

たとえばチンパンジーの代わりにプーチンを鋼鉄製の檻に閉じ込め プーチンがどのような行動を採ったとしたらプーチンの人間性の立証になると言えるのであろうか

ウクライナ市民を虐殺したロシア兵でも構わない 彼らがどのような行動を採ったとしたら彼らの人間性の立証になると言えるのであろうか

たとえ如何なる行動を採ったとしても 既に行われた虐殺行為を反証することなど原理的に不可能なのである

たとえ残虐な虐殺行為を行っていないヒトで検証したとしても それがロシア兵も含む「ヒト」の非人間性の反証になどなりようがないのである

ヒトという種の生物にも 他の社会性動物同様に統率的協調行動は見られるが 特定集団内部での利他的行動だけを どんなに大量に抽出枚挙してきても それが「自律的な社会的責任判断選択能力」の立証になどならない

振り込め詐欺師が仲間内で利益供与をしたとしても それが「振り込め詐欺師の人間性の立証」になどならないのである

残虐なゲリラやロシア軍兵士の群れの中においても同じことであり 仲間内での協調性をどんなに抽出してきてもゲリラやロシア軍兵士の人間性の立証になどなろうはずがないのである

 

山極寿一は「ヒトには必ず先天的な人間性が組み込まれているはずだ」などという これまた論理的根拠のない身勝手な予測を提示し 衆愚人気を集めていたが

その一方では「安倍政権は忖度だらけでゴリラと一緒だ」などと言い出す始末である

忖度というゴリラにも見られる本能的習性に 人間性が伴うのか 伴わないのか その論理整合性というものが山極の主張には著しく欠けているのであり 言っている内容が支離滅裂でその場限りのウケ狙いでしかものを言っていないのである

リチャード:ドーキンスあたりから衆愚人気を集めている「先天的本能習性としての人間性の可能性」という話は 実際には特定条件下にのみ見られる衆人環視下や仲間同士での忖度や偽善であることを否定できないのである

特定条件下においてのみしか発揮されない利他行動では 他の条件下において発揮されない可能性が否定できず これは人間としての社会性 すなはち「個人が自律的な社会的責任を負う」ことの立証には全くあてはまらないのである

山極は「戦争をしているのは人類のごく一部だということを知れば戦争はなくなる」などとも主張していたが これもまた論理的根拠の全くない身勝手な決めつけによる衆愚迎合に過ぎず 科学者としての社会的発言責任を全く負うつもりがないペテンも甚だしい

大衆やマスコミの大多数は こうした根拠のないデマであっても学術権威の肩書さえあれば簡単に鵜呑みにし 疑うことを一切しないバカでもある

 

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験では ヒトには権威と見なした相手の命令に唯々諾々と服従し 他人に危害を加えてしまう性質が存在することを立証している

この実験の被験者達は あくまで「普通の一般人」や学生であり 「普通のヒト」に普遍的に見られる性質として立証しているのである

ヒトは産まれてくれば初期的には子供であるため 子供は親に服従し 盲目的に信頼しようとする習性があり この盲目的信頼や服従性というものが 血縁続柄を超えて「王」や「学術」といった権威への盲目的服従対象の転移が生じることにより 封建的順位序列に基づいた統率的協調性として発揮されるものでもある

統率的協調性というものは 一人ではできないような「大きな力」として発揮することも可能だが 「力の大きさ」だけでは人間性としての優位性の論拠にはならない

なぜなら 戦争で弱者を殲滅し環境資源の奪い合い競争に勝ち抜くこともまた 統率的協調性による「大きな力」によるものであるからだ

文明の発達や 人口増加による経済規模や利益の拡大には良い面もあるとは言えるものの それが原因で地球環境を破壊してしまい 自滅の可能性という負の側面も作り出している以上は全面的に「良いこと」だとは言い切れないのである

地球環境資源を食い尽くす程の異常繁殖のことを「繁栄」などと称して全面的に「良いこと」であるかのように形容する者は多いが これは衆愚迎合(ウケ狙い)的デマでしかない

 

大衆の多くやマスコミは 都合の良い一面的側面だけを採り上げて人間としての優位性であるかのような勝手な解釈をしたがるものだが それは何も考えていないバカが気分的に安心満足するためだけの「信じたい話」でしかなく 論理客観性を欠いた身勝手な解釈でしかないのである

大衆の多くは主観的に気分が良くなる「信じたい話」ばかりを信じようとし ほとんど誰も論理客観的に「信じるに価する話」かどうかは検証しないものである

ロシア国民の大半がプーチン政権を信用しているのと同じように ヒトの大半は生物学権威や哲学権威の肩書を持った者の主張には誰も疑問を持たず 何の批判精神もなく唯々諾々と鵜呑みにするバカである

長谷川眞理子は 私の優生学に対する論理反証に対して 「チャールズ:ダーウィンは人道主義者だった」などという関係のない話ではぐらかし しかも「○○のために進化を選んだのよ」などという支離滅裂な「説明」をも平気でする二枚舌(嘘つき)なのである

更科功もチャールズ:ダーウィンによる自然選択説に基づき 「進化には目的がない」という説明をした直後に「生物は生きることだけが目的」だの「生きるために生きている」だの 終いには「生きているだけでも立派なものなのだ」などという個人的主観まで混同させて従来の遺伝的進化の説明の間違いをはぐらかしているのである

現状の生物学界というのは論理整合性のない支離滅裂な話で大衆の脳を撹乱し 「立派」などという主観的形容詞を持ち出して衆愚人気を集めるだけのバカの集まりに過ぎない

バカがバカを騙して何が真理なのかを誰も理解認識していないカオスな状態だからこそ ヒトという種の生物の先天的危険性が認識されず 銃乱射事件や紛争虐殺が一向に止められないのである

本来ならば 「科学の帝王」である哲学が生物学界の支離滅裂さを指摘しなければならない立場でありながら 未だにイマヌエル:カントの「純粋理性批判」を「近代哲学の最高峰」などと称して称賛し 「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すればなくなる」だのと荒唐無稽なオカルトに過ぎぬマルクス:ガブリエルなんぞが学術権威に居座っているという大失態をやらかし続けているのである

生物学界と哲学界による こうした組織的腐敗というものは 科学や哲学に限らず 人類に対する冒涜とも言えるものである

マスコミもマスコミで 大衆と同様に気分的安心満足に溺れて何の批判精神も持たず ただ漫然と無意識に学術権威の肩書の主張を唯々諾々と鵜呑みにし 呆然と垂れ流し続けているというのは マスコミとしての社会的役割を放棄しており 無責任にも程がある

その上NHKは受信料まで払えと主張する

頭がおかしいだろ

公共的な放送だと言うのであれば 嘘や間違いは徹底的に訂正周知しなければおかしいのであって 公共水道に喩えれば「糞を水道に流して金をよこせと言っている」ようなものである

有り難がって糞を平気で飲んでいる国民も頭がおかしい

 

 

Ende;

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目的意識

2022年06月02日 11時03分57秒 | 意識論関連

従来生物学においては 遺伝的進化の説明において「○○の為にの進化を選んだ」といった説明をしてきた

この説明の仕方はチャールズ:ダーウィンが自著の進化論においてもしているらしい(原文は読んだことがない)のだが 自然選択説においては都合良く進化を「選ぶ」ことなどできないのであり 理論的に整合性が欠けている話である

 

「生きるため」に進化を「選んだ」のではなく

「死ななかった」個体を「生物」と分類しているに過ぎず 消極的に自然に「選ばれる」ことはあっても 能動的積極的に「選ぶ」ことはできない

主観的に「死にたくない」と「思った」ところで それは後天的な「望み」「欲望」であって どんなに強く「死にたくない」と主観的に「思った」ところで それは遺伝的要素には影響を及ぼすことはない

そもそも本能的に「死にたくない」と主観的に「思う」ことそのものすら選択不可能なのである

「死にたくない」と先天的に望む個体と 「特に死にたくないとは思わない」個体のどちらが生存に適しているかと言えば 自ずと「死にたくない」と思って生存に執着している個体の方が生存には適しているのであり 動物は基本的に死にたくないと本能習性として「思う」個体への収斂進化が起こっているのである

大脳辺縁系が作り出す行動バイアスというものは あくまで「死なずに生き残る」のに適した本能的(無意識)行動が促された個体への収斂進化の結果であって 本能習性そのものは本人には選ぶことができないものである

本能習性というものは祖先の生息環境や状況への適応に過ぎず 弱肉強食の過酷な殺し合い環境の中では凶暴性が強くなるものなのである

一般的に 環境資源の豊富な土地では 草食獣の個体数が多くなるため 肉食獣にとっても個体数を増やす上において有利に働くことになり より生存競争は激化し 草食獣は逃げ足が速くなったり 肉食獣も捕獲能力が高くなり 共に大型化も見られる

これは 草食獣の同じ種の動物の中においても「逃げ足」競争が起きているため 先天的に逃げ足の遅い個体から全部喰い殺されたことによって 結果的に先天的に逃げ足の速い個体への収斂が起こることで 先天的に逃げ足の速い個体への進化が促されるからである

しかし 環境資源の乏しい土地においては そもそも草食獣も数が増えず 肉食獣にとっても環境資源が乏しいため 共に個体数が限られ  生存競争も激化しずらいために 大型化や逃げ足が速くなるような進化もあまり見られず 凶暴化もあまり進まない

環境資源の乏しい土地では サルも集団の個体数が少ないために 集団内部での競争もあまり起きないために凶暴性も低いという

凶暴性の高い個体というのは 生存競争の激しい環境では適応しやすいが 環境資源の乏しい環境には適応しずらいのであり 凶暴性の高さというものは あくまで環境によって「選ばれる」ものであって 個体が主体的に「選ぶ」ことなどできない

 

ウサギやネズミは繁殖能力が高く オスはメスを見つけると見境いなく交尾をしようとする

過酷な自然環境下においては メスを選んでいる余裕などないため メスと出会えったらとにかく交尾をしないと「繁殖の継続」にはつながらず 環境に適応することにならない

オスの行動バイアスとしては 単に繁殖行動への強いバイアスが働いているだけであって 別に「繁殖の継続」を目的とした目的行動選択をしているわけではなく

より強い繁殖行動バイアスを持った個体の遺伝子の方が「拡がりやすかった」という結果的なものに過ぎない

後天的にどんなに「天敵に喰われたくない」と願おうが祈ろうが呪おうが ほとんどが喰われてしまう環境下においては 食い尽くされない程に増殖能力の高さが必要であり 生態系のピラミッドの底辺に属するネズミの意図目的のようなものは遺伝的要素には反映されることはないのである

「天敵に喰われたくない」「死にたくない」といった本能的情動というものは 個体が選択できるようなものではなく どんなに永遠の命を望み続けても永遠に生き続けるような進化が促されることはないのである

情動は それ単体では意志ではなく 目的も合理性も存在しない

ヒトにおいて 時折幼女強姦殺人のような犯罪が起こるのも 先天的行動バイアスとして幼女を強姦したい衝動によって促される行動であって そこに目的や合理性のようなものは何もないのである

先天的本能習性によって促される動物行動的衝動というものは 自然界においては「繁殖の継続」において有利に働く結果をもたらすことはあっても それが結果的に生態系の恒常性において適したとしても それは合理性を伴った「目的」の論証には全くならない

結果をいくら重ねても 結果以上のなにももたらされることはないのである

 

ヒトの場合には 幼女強姦なんぞが横行する社会では持続可能性や公平性が保てないことを理解認識すること「も」可能であるために 欲望や衝動の程度強度に無意識に流されることなく 自律的に社会的責任判断選択をすること「も」可能となる

無意識に流されないために必要なのは意識である

社会安全性や持続可能性 公平平等が担保されない社会というものを 自ら望まない「意志(自由)」によって 人間性を伴った行動選択「も」可能となるのである

しかし ヒトの意識の大半は 他の動物と同様に情動という無意識に支配されており 特に冷静さを失うような強い情動を伴う状況下においては簡単に理性を失い 「本当の目的」を忘れ 目先の恐怖を処理することにしか意識が働かなくなり バカになるのである

それこそ軍隊のような封建的序列による統率的協調行動を促す盲目的服従性を強要されていれば 目先の恐怖心を「処理」することばかりにしか意識が働かなくなり 戦争のようなバカげたことでも平気で行えるようになるのである

ヒトという種の生物が持つ先天的な認知上の欠陥というものを理解せずに 21歳かそこらの一兵卒に懲罰を加えても 戦争という残虐行為の根源的な原因究明にはならず 必然的に再発防止にも全くならない

 

ヒトは その先天的な「社会性」によって 多数や国家権力などの権威に対しては 恐怖心によって逆らわない傾向があるため 衆人環視環境下においては外見上の人間性を装うことはするものの これは個人が主体的に社会安全性や公平性を旨として選択しているわけではないので 誰も見ていない状況下においては神だか変質者だかに見張られていることにしなければならなくなるのである

エセ有神論者は「神がいないなら 何をしても許される」などと言い出すものだが 「神がいなければ社会安全性や公平性は求めなくても良い」ことには全くならない

社会の中において 自らの安全性や公平性を求める上においては 他人への安全性や公平性にも配慮することは当然の社会的責任であり 神の有無は関係がない

「神」のような「他者」から見張られている恐怖心というのは他律的なものであり これを利用すればヒトの盲目性を引き出し 独裁的に特定権力者の個人的欲望に則った集団統率的行動を促すことも簡単である

原発事故であれ 日本大学や大企業の組織腐敗であれ プーチン政権やナチス政権であれ あらゆる「人災」というものはヒトの先天的な頭の悪さ ヒトの無意識性によって作り出されるものであり 「自分だけは絶対に大丈夫」という正常性バイアスが作り出す錯覚によってヒトは簡単にバカになるものなのである

虐待が連鎖するのと同様に ヒトは自分の中の「常識」に論理客観的根拠や目的があろうがなかろうが情動的に安心でさえあれば盲目的に信じ込み 事後正当化の屁理屈ばかりを陳列しようとする

これこそが無意識が作り出した「エピソード記憶(嘘)」というものである

血縁続柄を超越し 他人すらも超越した実証不能の謎の無意識的行動バイアスによって 自分が意識しなくても自動的自然に人間性が発揮され 必ず正しい結果に無意識に導かれるかのような錯覚を抱いていた方が気分的には「楽」なのであろう

それは 元々親に対する信頼が超自然的な何者かに転移した幻であり そうした幻による主観的安心満足こそが 自律的な社会的責任判断選択をヒトがしなくなる原因でもある

遺伝的進化の過程において 祖先の生息環境下ではそれが「繁殖の継続」に適したために ヒトという種の生物に先天的本能習性として遺されたという結果であって そこに超自然的な目的なんぞあるわけがないのである

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」を多くの衆愚や「哲学者」共が鵜呑みにして満足したのも 自分には先天的に超自然的人間性のようなものが組み込まれているかのような超常的力学への幻想に因るものである

ヒトが自らの頭の悪さを自覚することができなければ 必然的にバカげた行動しか採ることができずに 本当は誰も望まない結果に陥る可能性は高まることになる

自分の頭の悪さを自覚することが 主観的に気分が悪いのは 誰のせいでもなく 本人の主観(個人的好き嫌い・本能)に過ぎない

「欲望(本能)そのものを欲することはできない」のであって 目的意識に基づいて自らの頭で「本当の目的」に基づいた行動選択をしなければ 必然的に誰も望まない結果に陥るのは当たり前の話である

 

 

 

Ende;

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